2014年12月25日木曜日

この手でこさえてゆくこと

ここ数日の諸々の思考をまとめよう。

12月10日にインターステラーを観た。
主観が中性化される感覚があった。アメリカ映画特有の主人公本意のストーリー展開で、やっぱり完全に主観を中性化することはできないのだなと思った。
でも、物理的に目の前に現われる現象だけではなく、目に見えないけどそこに在るものをどうにか捉えようとする行為があり、言葉があり、自分という実存も曖昧な存在も深いところで肯定している感じがあった。しかもそれを「愛」とか「会いたい」とか、とっても単純な言葉で、でもしっかりと言葉として残そうと伝えようとしている姿に人間らしさを感じて愛おしくなった。苦しい気持ちにもなった。愛おしさというのは半分苦しさなのだな。
そうでありたい。そうでなくちゃ。そう思うほど、解脱は遠くなる。
避けたり削いだり捨てたり真っ直ぐ本質と向き合う人は、やはり周りからは狂っているように見えるだろうし、その周りの目線がグサリグサリと跳ね返って、自分を傷つけてしまうのだろう。
敵でもない、味方でもない。他人でもない、自分でもない。そんな風に自分のことも外の世界のこともありのまま感じられたらな。
しかし私はまだ無理だ。
遠い五次元を懐かしむことができても、まだそこにたどり着くことはできない。

宇宙という目視できない世界を、五次元を、そして人の心の欲求を、人と人の心の対話を、時空をこえた愛情を、そういったありとあらゆる「目に見えないもの」を映像化したことが凄過ぎる。

日本映画もアメリカ映画も、その違いが曖昧になるくらい近づいてきたら面白いのにな。
どんどん人の違いが曖昧になって、どんどん距離が縮まって、融合する寸前までいったら、と考えてしまうときがある。
「ロシュフォールの恋人たち」と「たんぽぽ」と「恋愛睡眠のすすめ(邦題ださすぎる)」が好きだけど、これらに共通点はあるのかな。
いや、結構あるか・・・。

じつはゴダールやタルコフスキーを全然知らないので観ないといけないと思ってる。
黒澤明とかも。


12月24日。芸大の取手校舎に搬入のお手伝いに行った。
22日も行ったんだけど、なんと学部生の講評が終わってからの作品入れ替え組。
22日に搬入ができないと。
24日の学部生の講評が終わってから、17時〜20時の間に搬入しろと。
なんという暴挙。こんなことが許されるのかと本気で思う。
ガチで作品つくるのがこの大学で一番大事なことのはず。
もちろん、搬入がすぐ終わりそうな展示を選んでこういう組み方をしているんだろう。
大変な作業の人は設置に数日かかる人もいるから、そういう人はこんなことにはしないのだろう。
どうやら休学等で人数が増えていることが原因らしい。
とはいえ、こんな体制でいいのだろうか。こんなことで、良い作家なんか出て来るのだろうか。プロのアーティストたちが教鞭をとる場として、こんな状況はあり得ないと思った。どうかしてるよ。先生たち、どう思ってるのかな。これもアーティストとしての修行だと思うのだろうか。馬鹿げてる。

それは置いておいて、そんなこんなで22日はシミュレーションと準備。本日が搬入の本番でした。
とてもよい展示になった。素敵だ。
おばあちゃんの吊るし飾り。大工さんの展示台。この1年間の思い出のつまった美しい写真たち。
じぃん。
今年は「美しい」を多用している。しかしそれ以外の言葉では到底形容できない。
思えば作品は何かしらの「美しさ」をたたえているもので、そうであるべきだと思っていたし、作品は自分の美意識や美徳の移し鏡のように捉えていたけれど、それでも何かを「美しい」と表現する機会はあんまりなかったように思える。
今年は「美しい」ものを沢山発見できた年だったのだろう。

来年は、もっともっと素敵な写真が増えるんだろうな!!!!!!!


今年の修士二年生は、実は私が修士二年生の時の学部四年生たちなんだ。
だからとっても身近な人たち。
芸大に二度も行って、懐かしい後輩たちの声を聞きながら搬入して、とってもとっても居心地よかった。
あーなつかしわー、おちつくー。って思った。
なんだかんだ、芸大の取手の先端ってのが、私のホームなんだなあと思った。
今の環境からだと、みんながみんな、必死で、本気で、全力で謎の「作品」とやらをせっせせっせと作っているなんて、摩訶不思議なんだけど。
これが私たちの必然で、当たり前なんだよね。
不思議だな。こんな不思議な空間に7年もいたなんて。
これが私のホーム。

そして今はそんな芸術畑の芸術家と、ほんとの畑を耕す地域住民たちが出会って
それぞれの「手作業」を、手の内をさらしあい、地域の方は「ほほほう、これがアートというのかい」となり、私たちは「ほほほう、これもアートではありませんか」なんてやりとりをしている。
私のこれまでの意識での「アート」が、おじいちゃんおばあちゃんたちが日々積み重ねてきた愛おしい「手作業」とが、がっっっしりと繋がった。私の心の中でピカーーーンと繋がった。そんな素晴らしい出来事がこの一年で起きた。
私の中で!

見ていて感じる新鮮さ、聞いて驚く生活の違い、そういうものと毎日のように遭遇し、対面してきた。
その経験が、私に変化をもたらしているのを今、感じる。
私は高校時代から歯列矯正をしていたんだけど、その矯正の器具がキリキリと歯を締め付けて、歯が動いているのを実感している時と同じような感覚。
明らかに私の中で変化が起きている。化学反応が起きて、目も、味覚も、手触りも、あらゆる感覚が形を変えていっている。

大きな変化の1つはこれ。
行程を経て何かを「作り上げる」ことに喜びや楽しさを感じるようになった。
便利なものを使ってインスタントにサクっと作ることではなく
色んな面倒な行程を1つ1つクリアしながら作ることは、質も経験としても、厚みが全然違う。
すぐ気が合って肉体関係を持って付き合っちゃうんじゃなくて、ちょっとずつデートを重ねて相手を知っていくような感じ。すぐ近づけなくても、ちょっとずつ近づいていく、その行程を愛せる。1秒1秒が大切で仕方ないひととき。そんな感じ。
純愛みたい。

そのおかげで、今までよくわかんないし向いていないと思っていたインテリアとか生活用品の整備が、身近になってきた。
ほとんどのものを必要のないものと思ってたけど、人が皮小物を作りたくなっちゃう気持ち、コースターを作りたい気持ち、棚の上に置物を飾りたい気持ちがわかるようになってきた。
こんなにも手作業には人を癒す、幸せにする、豊かにする力があるのかと驚いた。
みんな自分たちで物を作ることによって生き甲斐を見出しているということに驚いた。

物作りは命をかけて、命を削って行うものだと思っていたので。
私、少し、心を落ち着かせて、のほほんとした気持ちでも何かを作り出せる気がした。

でも本質的には自分は修行僧だという意識があるので、無用なものは作りたくないし消費はしたくないし、やっぱり自分は命と向き合っていなきゃいけないとは思ってる。

でもでも、お隣のおばあちゃんが作るものにはどこにも惰性や雑さはない。無心で、夢中で、心のこもったものを作り出していて、しかも、そこには長年繰り返してきた深みがある。味がある。技術がある。強さがしっかりとある。
作品には説得力と強度が必要だと思っている。おばあちゃんの作ったものにも、ちゃんとそれがある。
「命をかける」にも、色んなかけ方があるんだと思った。

すっごい勉強になるんだよ。


私、これから色んなものをこさえていきたい。
日常に必要なあれこれを。床板一枚一枚を大切に思うよ。
生活を豊かにしていくことが、心を豊かにしていくことにも繋がるんだね。
どこにいってもそれを忘れない。
どこにも定住しないかもしれないけど、どんな土地でも、その場にあるものを大切にしたいし、想いを編み続けたい。


私は流れるように文章を書くね、と言われて、そうかもしれないって思った。
とてもよく言われることの中で、自覚できていないことの1つ。
それは自分と他人の違いがわかりづらい部分だからだと思う。
流れるように文章を書くことが、「頭の良さ」とか「要領の良さ」とかと直接結びつく特徴ではないっていうことを最近は感じるようになった。
これは長所とか短所とか、自分の性質を代弁しているわけではなく
思考の「風味」みたいなもんなんだなって気付いた。
音楽に例えるとメロディとかリズムじゃなくて、響き。みたいな。。
思考のパターンではなく、カラーでもなく、偏り具合でもなく「風味」なんだろうなと。
そうすると大抵のことを、極端にゆがめることなくスっと受け入れられる気がする。

私はなんでも私フィルターで歪めて色んなことを受け止めてきたんだな、ということも気付けた。
なんだかだんだんと、自分なりに大人になってきている!


ちなみにうちのお母さんはFISHMANSが大嫌いらしい。
大麻臭でもするのかな。
FISHMANS好きに悪いヤツはいない、とは言えないけれど
FISHMANSは素晴らしいですよ。ほんとだよ。
でもそんな風に言われちゃうと、なんだか聴くのが億劫になる。
確かに暗さや汚さみたいのもあるけど。
このホコリっぽさが、やっぱり都会の空気なんだよね。
私には懐かしくて身近なものなんだよね。
FISHMANSとか若松孝二とか、とっても凛々しくて、瑞々しいと思うんだけどね。

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