2015年1月4日日曜日

Bardo Thodol

一日の出来事を思い返していただけなのに・・・・

今日は間違いなく、 いつもと心の糸の張り具合が違います。
高熱による解毒作用なのでしょう。

今一番言いたいことは、スーザン・ソンタグ読み直したい。
スーザン・ソンタグの「良心の領界」の一節に気にかかっている文章がある。

「自分自身について、あるいは自分が欲すること、必要とすること、失望していることについて考えるのは、なるべくしないこと。自分についてはまったく、または、少なくとももてる時間のうち半分は、考えないこと。」


私は、自分のことを考えているのか、自分という媒体を通して他者について考えているのか、果たしてどちらなのか、わからなくなっちゃって。

小・中学生の時、働かない父を責めると必ず「ともみはお母さんに洗脳されているんだ」
と言われていた。最初はまずその返答にショックを受けた。
自分の言葉を信じてくれない父に。私に対する完全否定の言葉に。
そして何度も言われるうちに、自分の気持ちが本当に自分のものなのかわからなくなり、狂ってしまったんだ。
自分の意思ってなんなのかっていう、揺るぎないはずの「自分」という存在意義が、土台から崩れ落ちたのがそんな若干12歳程度の、一番可愛い時期だったんだ。

それから私は自分をいつも疑うようになった。そして本当の気持ちとはなんなのかを考えるようになったんだ。
その頃の、父に無理矢理やらされていたZ会の教科書の全ページに「死ね」と書き連ねていた自分の、心の叫び。
痛切で純粋で、かわいそすぎて泣ける。
いつも何かを殺さなければならなかったんだね。

「告白」という映画で殺人を犯した少年も同じ言葉をノートに書き連ねていた。
私は人に向けてではなく、自分の心に向けて、あんな言葉を、ノートに突き刺していたんだ。
十数年前の自分って、前世みたいに遠く感じる。
だからズキズキしないよ。父への憎しみも湧かない。


いかに自我というものが脆いかを、そのときの私の身体は実感してしまったんだろう。
無意識のうちに。


それでまさに今。本質はそこだと、思っちゃったんだ。

ほんとの自分の気持ちなんて、わからないんだよ。


完全否定されると裸にならざるを得ない。
自分というものが解体されて、行き場を失い狂ってしまう。

今の私がなんで「本質」を求め続けるのか、そのきっかけは実は現世にもちゃんとあったんだということ、今ようやくわかったんです。
父に完全否定され、ぶち壊されたからだったんだ。

それにさっき気付いちゃってから、色んなことがどんどん腑に落ちています。

初めて付き合った人は、私のほとんどを否定する人だったんだ。
そんな人と向き合おうとしたのも、父に向き合おうとしていたあの頃と同じ理由なのではないか・・。
命の本質と向き合うことが、私にとって、誰かと愛し合うためのたった1つの術だったのではないか・・・・。
せつない。

どうりでなあ。

どうりで。

結局は父へのやりきれない思いってすごく強かったんだ。
私は父親がいないことへのコンプレックスなんかない、と思ってたし
好きな人が父に似る、なんてことは絶対にない、と思ってたし
むしろ真逆のタイプが良いと思ってた。
でも私が自覚していた部分てほんと表面のごく一部だった。
もっともっと、深いところではちゃんと繋がっていたんだ。

私はずっと父のことを気にしていたし
父にまともに愛されたかったんだ

私が恋人に「怒り」で感情表現することが多かったのも
父に向き合う時の選択肢が「怒り」しかなかったからなのかなと思う。
(これは捉えようによっては単なる言い訳になりかねないのであまり言及しない)

怒りの炎で相手の皮膚を焼き尽くして、魂まるごと見せやがれ、ということですね。

普通の人は大体いやがります。


私だってこんな自分を肯定なんてできなかった。


ちなみに、初めて付き合った人に言われた言葉で印象に残ってるのは
「お前は吹けば飛ぶやつだ」という悪口。
そりゃお母さんに嫌われるわ。
毎日泣かされて帰ってきたら、嫌われるわ。

でもほんとに私なんて、吹けば飛ぶ、ぺらぺらな存在なんだよね。
あまりに事実でした。
まさかこんな形で君の言葉を肯定できるようになるとは。

父親と、初めての恋人 って
どちらも私にとって初めての異性なんだよね。
そこもなんとなく繋がっているんだなあと感じるところ。


人は、自覚している範囲よりも無意識の範囲のほうが圧倒的に多い。
彼らは何も自覚はしていなかったはずだけど、無意識に、私にちゃんと本当のことだけを伝えてくれていたのかなと思った。


私が本質を求めて生きてきたことも、他人の本質と向き合おうという姿勢も、心をさらけ出しあえることが愛し合うことなんだと思ってきたことも、ここからはじまっていた。
自分の弱い部分、強く押し出してしまう部分、色んな部分は、ちゃんと過去の経験と密接に繋がっているんだね。
細かく細かく、ちゃんと繋がっている。
それは理由、答え、結論、とか、目的、意図、スタートとかゴールとか、そういうことじゃないの。
意味とか。意味があるかどうか問題でもないの。
意味は何にもつけられる。理由も何にもつけられる。
つけられる、ということじゃなくて、なにがその糸の真ん中を貫いているのか。
どんな成分がこの人生を流れ進んできたのか。
そういうことでしかない。



私は、魂の裏側まで見てください。って見せることが愛だと思っていたし
相手が見せてくれることも愛だと思ってた。

これは答えでも、目的でも、意味でもない。

なるほど。私というものはこのような脈絡でこのような因果で、このような道筋を歩んできたのね。
ということ。


これまで狂って死んでしまった人たちを殺さないためにも。
私はこうやって自分のことに、気付けてよかった。


これは、笑いと涙たっぷりで、父に説教としてお届けするしかないな。


私が恨むほど、父の罪は重くなる。
私が不幸になるほど、父の罪は重くなる。
でも大丈夫。
父の罪が少しでも軽くなって、少しでも苦しみの少ない世界に転生すると良いなって思います。



追伸

いままで暴力的な愛を色んな人にぶつけてしまったと思います。
それをお詫びします。
変な父と変な初めての恋人と、変な私の因果で
普通の人を普通に傷つけまくった。

でもなんだか変な人たちと普通の人たちのおかげで
要するにみなみなさまのおかげで
少し、私の愛も熟してきたのかなと思います。

どうもありがとう。



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