2015年1月30日金曜日

愛の温度と距離

喋る言葉は茨城の人たちや一緒に住んでいる人に影響をうける。
好きな人とメールしていると好きな人の言葉遣いに似ちゃう。
もう恥ずかしがらず受け止めるしかない。

あゆねに会って、まっっっったくネガティブな気持ちにならない自分に気付いた。

普段、人に会うことだけで常にマイナス要素がつきまとっている自分に気付いた。
とても大事なところに気付けたなあ。
あゆねと話す時は、どう思われてしまうか考えない。考えなくてもいいから。
そうか。こうやって他の人とも話せばいいんだって思えた。
一瞬、つかみ取れるものがあった。
この感覚にまた触れたいなって思った。

昨日ある人に、ブログに恋のことばっかり書いてると思ったら、意外とまじめにブログ書いてるねって言われて

あらためてさらっと流し見してみたら、ほんとだった。
まじめやん。


今日もいっぱいワークショップとか思いついたし、自分の表現をもっともっと、素直に、誠実に、じっくりと、一番だいじなのは「コツコツ」と!!!!


やっていこうって思った。強く。萎えずにやろうって。私の軸はわかってる。

この歪み、変さ、独特な部分、それが味なんだよ。
社会的には押し殺して、さらりと受け流しつつも、自分の世界の扉は開けておく。
気持ちよく生きよう。ようやくね。


絵ってビジュアルの表現だし、自分と向き合う行為でもあるから、どんどん内にこもりやすい。絵が好きってとこからはじまって絵を描く人も多いので、愛が依存や執着にもなりやすい。

密室に一ヶ月こもってましたっていう匂いがプーンと漂って野暮ったくなりやすい。
距離感を保つのがとっても難しい。
インスタレーション作品のように色んな要素が絡み合うものだと様々な視点を持てる。
立体作品も、3Dで捉えるから様々な視点を持つことができる。リアルな作業だし。
どちらも色んな行程があるおかげで、視点を複数持ちやすい部分はあると思う。
絵画は、つい立体であること、世界は動画であることを忘れがちになる。
私は、絵も動画だと思ってる。人の目にうつり、その人の中で像が揺れ動くようじゃないと、だめなんだ。って言葉にしてみると、停止させてみたい。なんて思いも生じてしまう。。笑

突き放し過ぎても愛がない。距離を置いても温度が保てること。それがすごく大事。

密室の体臭じゃなく、風通しのいい空間を意識したい。
私はそういう心地のいい絵画を描きたい。
たしかに密室の面白さはあるから、それが駄目とは言わない。
ただ、執着も度を越えないと面白みには繋がらない。

とにかくアートに否定や肯定、正しいや間違いという観念は持たないほうがいい。

だから否定ではない。しかし、おもしろくない絵画作品がどうしてそんなに野暮ったくなるか。そこは考える余地がある。
芸大の絵画の展示たのしみ。超冷静に、超情熱を持って、見てやる。


人には好みがあるんだ。でも、好みを越えてしまう強度ってのもある。

そういうことですね。
価値なんてのは外から勝手につけるもので、作品自体が持つものじゃない。
だから価値があるかないかなんてのは、自分がそこに温度を込められたかどうか、でもいい。
その温度が、26℃でもマイナス5℃でもいい。


あら。てきとうにitunes流してたら、なんか懐かしいとおもたら、あれやん。

名前おもいだせない。
夏よく聴いてたのに。
名前なんだっけ。
あえて名前みない。みちゃった。すぱるたろーかるずね。


距離を置いても温度を保つ作品。

それが愛だね。


愚か者たちに聞かせたい。

そして自分の胸には常に唱え続けたい。


悲しいくらいそれだ。



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