2015年2月20日金曜日

メッセージ

学部生の時からずっと良くしてくれた先輩となかなか会わなくなり
でも時々展示会場で会ったり 活躍してることを嬉しく思ったりそういう距離感だったのが
ひとたびinstagramでつながって、イイネされたりしたりしているのがなんとなく変で面白いなと思う。

イイネってなんだ。相手によって、意思の共有度がかなり違う。

同じイイネでも、意味が全然違う。
嬉しくないイイネとかはないけど
イイネってなんだ。

地域

アート
優しさ
楽しさ
here(ここ)

これらは広義にも狭義にも成りうる言葉。


例えば、大切な人だからこそ厳しい言葉を言う。

言っている本人は少なくとも「これは優しさなんだ」と思い上がってはならないと思うけど、言われた相手はそれを「優しさ」として捉えることができるんだ。

「楽しさ」も、既存の価値観で言えば「大量生産されたものを大量消費する」ということが主流かもしれない。

だから、人が遊びにきて楽しんで帰ってもらえるイベント、というのも、今流行っているものを無料で配布する、みたいなことをすれば多いに楽しんではもらえるだろう。
でも、「楽しさ」ももっと広く捉えることができる。
たとえば自分の住む町のことを真剣に考えること。考えることってすごく面白いことだと思うし、わくわくすることだと思うの。そしてそれを人に話して、はああー、そういう考えもあるのか、と反応されても嬉しい。ええ、そうかなあ?なんて反論されても、ちょっとドキドキして面白い。語り合っているうちに「あ!!そういうことね!!」なんて意識を共有できても楽しい。

一見、考えること、語り合うことなんて私にはとてもできない、そんなだいそれたことできない、小難しいから面倒くさい、などなど色々あるかもしれないが

やってみれば、実は考えることって楽しいことなんだと単純に実感できる気がする。

こうやって、それぞれの意識の中で「優しさ」の意味も「楽しさ」の種類も変化する。

それが当たり前だと思うんだ。

そこに既存の枠をはめてしまうことに危険を感じる。

これが「地域」です。こっからここまでが「あなた」なんです。こっからは他人ですよ。なんて言い始めたら。
ここは私の陣地です。あなたはここにいてはいけない。ここにいる以上私にはあんな遠くのこと関係ないわ。なんていうのもこわい。

それは自分で自分の枠をはめているってことだから。

枠をはずせば、近づくことも遠ざかることもできる。
その時々できちんと考えて調整することで、ちょうどいいバランスを保つことができる。

1つの価値体系に頼って、思考停止して楽観的に暮らすことはまったくクリエイティヴじゃない。



私はこのところ、ほんとに思うのだけど、自分で考えて自分で語ること。これがたった1人のちっぽけな人間ができる、最大限のことなんだ。


私は全人類アーティストであってほしい。それは、誰もがアーティストとして作品を作って発表してくれと言っているんじゃない。

誰もが自分で未来のことを考え、自分のことのように他人を捉え、他人の言葉ではない自分の言葉を見つめてほしいと思う。

苦しんでいる人たちは、大体が盲目的になっている。

何かで苦しんでいることはわかっているのに、その苦しみと対峙できていない。だから乗り越えることもできず、後戻りするか痛くないふりをするしかない。
どんどん思考も精神も弱っていき、最後には何かおおきな力にしがみついていないと体を動かせなくなる。
欲望だったり、権力だったり、法律だったり、親だったり。

人はひとりである。人は孤独である。それは、他人を愛せる本当の理由だと思う。


色んな意味を、色んな可能性を、悲しいことも嬉しいことも、なぜか観念は枠にはめようとする。枠にはめて、一番自由な素晴らしい選択肢を選ばせないようにする。


観念とも戦わなきゃいけないんだ。

観念ってとてもおそろしいんだ。
生存戦略として、何かを滅ぼさないと自分が生きられないのかもしれない。

そういう本能なのかもしれない。

でも、少なくとも、人間というのは、この世界というのは、決して満足できるような美しい世界ではないということを忘れちゃいけない。

本当の美しさ、本当の気高さっていうのは、それぞれの魂の中に眠っている。

それが覚醒したら、それは悟りの境地に達するってことなんじゃないかしら。
だからこの世ではそんな天国みたいな世界は見られない。
でもだからこそ眠っている物をトントンとノックし続けることが、そこにそれが「在る」ということを忘れないたった1つの方法なんじゃないかと思う。

考え続けることを終わらせないこと。せめて自分だけでも。


大切なことはみんなわかっているはずだけど、それについて、自分で考えていくこと。

そうしないと、それぞれの愛し方が違うってことも、自分の愛し方がこうだってことも、感じられないから。


人を愛することも、自分を愛することも、責任を持つことも、自分の暴力に気付くことも、これまで全然できていなかった。

少しずつそれがわかっていくとともに、一層、私はまわりの大切な人たちと語り合いたいと思うようになったし、大切な人たちの健康や喜びを祈るようになった。
自分にできることを直感的に感じ取ろうとするし、自分は今これを言うべきなんだろうなってことも感じられるようになってきた。
ひと呼吸おいて、相手を包みこむことに喜びを感じられるようになってきた。
昔は、自分を包み込んでくれるかくれないかを気にしていた時もあったよなあ。

思い上がらずに生きていきたいなあ。


私はずっとそうだった。

人が工夫している姿を見るのが好きなんだ。
だから先生になりたかったんだよね。

それはこういう意味だったんだな。


それぞれが自分の感覚に問いかけて、自分の感覚を信じて行動するって動作を見るのが好きなんだ。

自分で考えて自分語りをする姿を見ることが喜びなんだ。


人に作成してもらったホロスコープのことがずっと片隅にあって離れない。

どんな人と結婚するのかとか、どんな仕事をするのかとか。

どういう流れになるにせよ、今の流れはまったく間違っていないと思う。

良い方向に流れていっていることを感じられる。


自分の駄目なところを書き出せばきりがないけど
落ち込まずにやっていく。


大切なものを大切にして生きていく。


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