2016年10月7日金曜日

娯楽が飽和する世の中で

「楽しむ」「遊ぶ」
それは、本来の自分を思い出す行動なんだろう。

「筆の遊び(すさび)」ということばがある。
ここでいう「遊び」は人知を超えた自由でためらいのない筆致を指している。
私が描いたものではなく、きっと人間でも物質でもない頃の、原初の記憶が描いたものだ。
芸術は自己表現ではない。
芸人は人間ではなく、その延長にあるもう一つの世界の声を届ける「間の人」なのだ。

昔、芸能者の階級は非人と呼ばれていた。もともとは「非人」に差別的な意味はなく、仏教の用語だったらしい。
wikipediaより抜粋↓

非人という言葉は仏教に由来するとも言われ、『法華経』「提婆品」などにこの単語が見られる。しかし、そこでは差別的な含蓄は一切なく、単に比丘比丘尼などの人間(mānuṣa)に対してそれ以外の者(amānuṣa)、具体的には釈迦如来眷属である天人といった八部衆を指す言葉として用いられている。日本では平安時代橘逸勢842年(承和9年)に反逆罪に問われ、官位を剥奪されて「非人」の姓を天皇から与えられたのが文献上の初例とされる[2]


芸能者は人を楽しませたり、娯楽を提供する。彼ら自身ももともとは「遊び」や「楽しさ」がきっかけで芸に目覚めるのだろう。
しかし、その追求の先にあるのは苦しみと向き合う鍛錬であり、自らに問い続ける修行だ。

現代は娯楽があまりにもたくさんあって、安易に「遊び」が消費されやすい。
「遊び」という言葉のランクも、「仕事」より下に思われやすい。仕事は立派だけど、遊びは低俗だったり、気を紛らわせるものとされてしまう。

現代では「遊び」自体が劣化してるようにも思える。

先日の個展のタイトルを決める際、最後まで「在りの遊び」と迷っていた。
ことば自体はそんなに前向きな意味ではないようだが、この頃「遊び」がとてもとても重要に感じていて、悩んだ。

「遊び」は「余白」という意味も持っている。
線も、音も、遊びがないと、余白がないと、伸びることも縮むこともできない。なにもない空間が人間には必要なんだ。

いろんな単語を調べると仏教や信仰に繋がる。

私は仏教を、やっぱり、信じているんだろうな。学問だといいつつも、そこに希望を感じてる。
仏教というか、仏性の存在を信じてる。
帰依はできているかわからない。
でも、自分よりさらに奥にあるメッセージを伝えたいと思ってる。それは仏性のことだと思う。無我の境地、悟りの境地。光そのもの。
自我に悩まされながら……




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