2016年11月16日水曜日

聖者の行進

最近
襟を正すような、常に常識を屈服させようとするような強気の正義感が私の思考において幅をきかせている。
説教くさくてチョット暑苦しい。
のびのびマイペースになりたいところだけど、きっと年齢やキャリアや将来への不安や過去の傷が急かすように尻を叩いて止まないんだろう。

でも、自分が未熟でほんとによかったと思うのは、私はもともと生意気で負けず嫌いで余計な一言を言っちゃうオマケにものすごい正義感強いタイプだから、完璧になんでもできてると思い込んだら他人の気持ちも理解できないだろうし苦しみも共感できなかったと思う。
「ひさびさに12時間働いて疲れたぜ」と思っても、毎日のようにそんな生活をしてる人もいる、育児や夫婦生活と両立しながらとか、独り身でも親元を離れてとか、色んな人が終電まで混み合った電車で通勤して……
て考えたらなるべく人の邪魔にならないように歩こうとか、座るのやめようってなる。
みんながぐっすり眠れますように、って思える。
辛さは比較のしようがないから、難民のことや飢餓のことや震災のことや事故やいじめや、色んなこと考え始めたらきりがないんだけどさ。

霊の供養もそうだけど、「忘れない」こと「気に留める」ことを繰り返し続けなきゃいけない事柄ってのはあるよね。

友達が教えてくれたどこかの大統領夫人かなんかの文章に、「残さなくても、置いてくる」ということが書かれていた。
私も。子孫とか作品とか残らなくても、私という存在はチリになりこの世に残らなくても、次につながっていく何かを必ず置いてくることになるんだろうと、残すことよりもどんな行動で何を置いてくるかが大切ということを、想う。

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