2015年1月12日月曜日

絵と夢

常陸太田の生活に慣れてきて、あらためて「絵を描く」ことともキチンと向き合おうとしている。
いちいち能書き垂れていないで、描けばいい。それだけでいいのかもしれない。
考え過ぎだ、とも言われる。
作家は考えながら動く。動いてまた考えが膨らむ。変化を拒まない。
目に見えない物語を大切にする。
入り口から出口、ドアtoドアではない。
電車で一気にショートカットすることはある部分で思考停止している。
でも作家は、土地と土地がしっかり道と営みと歴史で繋がっていることを感じ取る。
人がショートカットして出口と入り口しか気にかけないことも、ちゃんと繋がっていることを形にして表現する。
ワープしている間の重さ、深さ、厚さを体現しようとする。

こんな風に日々、作家てなんなのかも考える。

誤解されるかもしれないので言っておきたい。
私は、作家と一般人は違うんだ的な主張をしたいのではないです!
誰がどうと言わなくても、自分は幼い頃から「作家」という意識を持って生きています。


最近仲良くしている子は年下が多い。
そして弱い部分や戦っていることが自分に近い人が多いかもしれない。
気付かない間に、やかましいおじさんのように説教していたらごめんね。


絵を描くことと夢を見ることは似ているなと感じる。
夢にはその日の出来事やこれからの出来事、過去の出来事がイッショクタになって現われる。
絵も、すっと引いた線が雪の中で見たイナミちゃんの帽子になっていたりする。
見たものが心の中で再構築されて、画面に自然と表れてくる。
そうか。私にとって絵を描くことと夢を見ることは、精神的な流れや意識の出方が似ているんだな。だからか。



ともちゃんの絵は素敵だねと言われるたびに、その人の眼差しに応えられるような画面にしなければ、と思う。

私はどう転んでも絵で表現し続けたいんだから、どんな不幸でも、どんな幸せでも、描くことで命を示したい。

それが職業と結びつくかはどうでもよいことだと最近思う。
私はどんな仕事をしていても絵描きであることはブレないなって、思えるようになったから。

そして、絵を描く以外にもやり甲斐のあることって沢山あることに気付いたから。


能ある鷹は爪を隠すという言葉のとおり、頭のいい人たちは賢さをひけらかさないからこそ利口さが際立つな。
そんな頭のいい人たちも好きだし、がむしゃらに人間がぶち当たらざるを得ない壁にぶつかっていく人たちも好きだな。
考え過ぎだとか、生産性ないよとか、滑稽な行為として捉える人も中にはいるけど、作家同士でもつい大人なアドバイスをしてしまう人はいるけど、私はぶつかり続けて壁が破壊できなくても良いと思ってる。壁じゃなく自分が壊れることが本当は大切だったりもするので、立ち向かえ、そんな自分を貫け、と鼓舞する。

莇平は人がたくさん来て一緒に色んなことをするので、人見知りで集団行動が苦手な私には居心地の悪い空間にもなり得るんだけどそうならない。
あそこにいると心と体が解き放たれて気が緩むけど、足を運ぶ作家のそれぞれが何らかの普遍的なでっかい壁に立ち向かっていて、その眼差しや熱い言葉に触れることができる。それが毎回、輝かしい。

一度会っただけで好きになり、1年ぶりに会ってお互いに笑みが溢れる、そんな関係も嬉しい。そいで「林さんは最高です」て言われてすごく嬉しかった!(女性)


先輩にじっと顔を覗き込まれて、老けたななんて失礼なこと言われるのも嬉しい。ちょっと今、肌荒れてるんだよなあ。それもやはり老けたとゆうことなのかな。

先輩の意見に同意したり疑問をぶつけたり、自分はそうは思わない、と意見したり。
抱き合ったり崖から落とされたり炭を顔に塗られたり酒を注がれたり。

なんとなく思ったのは、どんな男性も根底にあるエネルギーの源は「性欲」なのかもなってこと。
そして女性は「母性」なのかな。

ぼんやりそんな気がした。


考え過ぎて動けなくなったら、考えるのをやめて動けば良い。
考えること自体をやめたら、心はどんどん遠ざかって逃げていく。
人は変化する。心は動く。どこへでもすり抜けていくもの。
でも考えれば、想像すれば、心はどこにでも結びつく。
遠くに消えた気持ちともまた再会できる。

安易に気持ちを言葉にすることによって、掴みとれそうな実感を逃さない。
人を褒めて気持ちを放出したい時もあるけど、褒め過ぎて自分をないがしろにしない。

言葉にせず考えることも、考えて言葉にすることも、同じくらい大切なことだ。
人を褒めることで気持ちが癒されたり鼓舞されることも沢山ある。
けど、他人をしっかり客観視することも大切。
自分がどうして苦しいのか、全部まっさらにして、想像しよう。


小学生の頃は、自分の気持ちを文章にすること、物語を書くこと、絵を描くこと、アニメを作って声を入れること、踊ること、漫画を描くことが日課だった。
日課多いな。

言葉にすることも、絵を描くことも、漫画を描くこともそれぞれ大事だから私は全部やるだけ。
漫画は根気がないと描けないので遠ざかってしまったけど。あれはなかなか大変な作業だ。
漫画にはネガティブなことを沢山描けた。くだらないことも描けた。感情を丸出しにしても歪まない媒体だし、逆にものすごく表現の仕方を繊細に考えなければいけない媒体でもある。
漫画描こうかな。
フラストレーションが溜まらないと漫画描けないんだよな。


私は私の生を持て余したくない。
結ばれても離れても、私が私であることは変わらない。


執着や依存から少し距離をとることはご飯をよく噛んで食べることに似ている。


私が大切だと思う人たちが苦しむ姿は見たくないものだけど
苦しみの中でも、ひたすら瑞々しい眼光で温度を上げようとする表情を見ればグッとくる。
そういう人でありたいし、私の大切な人たちがそんな眼差しで生きぬいてくれることを願う。


しおりちゃんと代々木八幡から新宿まで散歩した。
そして中華料理を食べ過ぎた。
またしても説教臭いことを喋り過ぎた気がする。
私はまるで自分のことのようにしおりちゃんを見ているなって思う。
そのせいで、より冷静により現実的にシビアに考えてしまう。
一緒になって考え込んでしまって、話を聞いても「うんうん、いいんじゃないかな」と言えない。ほんとにそれが良いのかどうかなんて、まじでわからん。誰にもわからん。
だから、自分が感じたこと、わかること、考えていること、全部しおりちゃんに伝えたくなってしまう。
だけど言葉なんて脆いものだ。
何一つ確かに伝えられない。
だから私は「体験」で伝えたい。
表現でちゃんと伝えたい。


みんな私にないものを沢山持ってる。
なかなか自分って見えないものだと思う。
普通でも変でもいいから、生きたい方向に踏み出していく体力と度胸があればいい。
そうだ。女は度胸。
度胸があるというのは最高の褒め言葉だと思う。





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