2015年3月12日木曜日

射手座の月

星の動きだけでなく月の満ち欠けにも左右される。
星が導き、月が手を取る。女性は毎日揺れる。感覚が大事。自分の体の手応えが何より大事。些細な変化も時には気になる。大変だな。

気分が落ちていく時期は、振り返ると徐々に霧が濃くなって心が淀んでいく過程がわかる。あのあたりから徐々にだったな、と。そうやってあとからでも把握することで、徐々に霧は晴れていくことを自分に想像させることができるので安心する。

だから今考えこむのはやめる。
今決めるのはやめる。

良いことも悪いことも1日1日、積み重なってゆく。
心も体も疲れきったなあ。
おやすみなさい。



2015年3月11日水曜日

絶対にしないこと

「この人はこういう人だから」と決めつけること。

「こういう風に感じた」から、より相手を決めつける方向に行きそうになったら気をつける。
小さなことでも、良い部分であっても、人に自分の判断を、解釈を貼り付けたくない。

感じたことは感じたままにしておきたい。
何も「決まったこと」などない世の中なんだから。

2015年3月8日日曜日

関係

どんなことも自分の身近に引き寄せられる。
別の領域と重ね合わせて感じ取ることができる。
心に素直な体、体に素直な心。


人のよいところが目にも見えるようになってきた。
心の光が届くようになってきた。
かえちゃんの絵を描いたことは、1つのポイントだった。
「かえちゃんを描く」という行為が
「かえちゃんの光が自分に射し込む」という出来事になっていた。

昨日彼女と話した。
彼女は、前世は戦いの場に生きなきゃいけなかった。
だから今は平和な場所に生まれた。
今生では、人の心を治癒するような、シャーマンとしての使命があるんだそうだ。
そうだよね。
かえちゃんのそばはいつもそよそよと風が吹いていて
かえちゃんの心は表情とともにいつもキラキラと踊っている。
かえちゃんのことを形容することは、いくらでもできてしまう。
あまりにも、「絵になる人」だ。

彼女を描いたことで、もっと沢山色んな人の「表情」を「心の光」を描きたいという思いが沸き上がってきた。

他の作家の描いたかえちゃんも見て、女性たちはみんな彼女の心のお花畑だったり、幼少期の心象風景だったり、心の中の大きな宇宙を見つめて描いていたのがわかった。
だよねー。だよねー。と思いつつ、感動と驚きに目を見張りつつ、全て素晴らしい作品だと本当に思った。
そしてわりと男性作家さんたちは色つやだったり、「女性の色香」を感じ取って描いているような気がした。
私は山口洋佑さんの描いたかえちゃんが欲しかった。(買えばよかったか!!)

そんな中、村上慧と橋本匠がまるで中学生のようなポイントでかえちゃんを描いていることがとっても面白かった。
黒い髪と、きれいな瞳。
彼らは中学生なんじゃないかな。これは失礼なのかな。でもそう思う。
そして私も中学生なんだ。

もし私たちが中学の同級生だったら、色んなものを作ったり、音楽を奏でたり、討論しあったりする、周囲にちょっと気持ち悪がられながらも一目置かれるような仲良し3人組だったんじゃないかな・・・なんて妄想をした。

売れっ子イラストレーターの中で二人は現代美術家、あ、匠くんはトランスフォーマーね。というわけで絵が専門分野じゃないから、だからこそものすごいいい味出てた。
最高だぜ!と見た時感じた。

ああ、ほんっっと、あの空間。愛であふれていた。

全展示場所、ともみは踊りたくなりました。
ちっちゃいときはピアノの自動演奏モードでいつまでも踊り続けていた自分です。
保育園が会場で、幼少期の感覚にインスパイアされた作品群の展示だもの。
そりゃあちっちゃいころみたいに、美しいバレリーナになりきって踊りたくなるよ。

愛するかえちゃん。

ともみは、津田さんとかえちゃんに会うと、なんでか気恥ずかしくなる。
恋というか、憧れというか。そんな感覚。


デザインの梅干という番組の第二回で、佐藤卓さんが、物の中には物語がある。それは関係なんだって言ってた。(たしかそんな感じ・・・)
ああ、関係だ。関係があるのだ。
明日の茨城を考える女性フォーラムでも、付加価値だとか、物語だとか、そういう言葉で様々なものの中に流れるエネルギーを説明してたけど、関係だ。

関係だああ。
ってなりました。
シンプル。


恋とか、嘘とか、ほんととか。言葉にすることとか、直接会うこととか。
色んなことから特定の人との「関係」について、ついつい考えてしまう。


私の知らないことを知っている
私の好きなものを知っている
同じ道を通ったことがある
私の好きな場所を知っている
私と同じものを見たことがある


こういうことは嬉しいことだなって思う。


人には、ほんのすこしくらい苦みがあったほうがいい。
色んな人に少しずつ弱く、少しずつ間抜けであって欲しい。

甘くない。辛くない。いい塩梅。


とても良い何かを感じたとき、言葉にできず絵にしたいと思うことが増えた。
お隣さんのおうちから帰る瞬間だったり、人と会ったあとだったり
素敵なことを言われたときだったり。
これってなんだろう。なんで言葉にできないんだろう。って考えた。
きっとこれは、感覚なんだ。何かを感受した、その反応なんだ。
説明できない心の芯に響く波音なんだ。

いつも、こういう何かを感じた時、ふわあっと色が頭に浮かぶ。
手が「描きたい」って反応する。
脳みそが見えない五線譜にそって歌い出す。
その日の出来事を物語に紡ぎ直して、絵本にしたくなったりする。

これは、「もっと表現しろ」という、天からのメッセージかもしれないな。



ロンドンで買ったハンドメイドの白いカーディガン。
見たことのない木のボタン。
見知らぬ人の手編みのカーディガン。
誰のために編んだのかな。
着るたびに愛着が増していく。
物の中に、人と人の関係性が存在しているからだろう。
ひとつながりの関係性の現在地点が、私との出会いだったんだ。
次は誰に出会うのだろう。
大事に大事に着なくちゃと思う。


の矢先、ボタンを1つなくした。
ショボン・・・・・!

ほんとにショボン・・・・

ああああ、どこかでかわいそうな思いをしているはず!!!悲しい!!
せめて土に還るか、100万年後まで残って大昔の人類の暮らしを知るきっかけになってほしい。無茶かな。どうか無事で。
(後日ポケットの中に見つけました!!)

こんなに物を思うのもはじめてだ。
執着とは違う。思い入れというものかな。

家に愛着を持つのも初めてだな。やっぱり自分で手入れしていたからだ。

離れるのは惜しいなあ。



http://youtu.be/eSkQJH6oWOc




2015年3月3日火曜日

境界にて (Doha Qatar)

飛行機で移動している。
朝から昼に向かうはずの時間が、速度を上げて突然夜を連れてきてしまった。
先ほどまでの真っさらな晴天が、今は暗い暗い夜の渦。

長いのか短いのかわからない一週間だった。
とても濃密な一週間だった。

この気持ちを言葉にして放り投げるのが惜しい。
だから、感想しか言えない。
楽しいなあ
幸せだなあ

今をひたすらに享受する。

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言葉に表せない感情を胸いっぱいに抱えながら、何かを表現したくて頭を回転させている。
言葉で強調して鷲掴みにすることが直接気持ちを大切にすることに、果たして繋がるだろうか。
言葉にすることで心にとどまる思いもあれば、発した途端手元をすり抜けて流れてしまう心もある。

「言葉は転がり続け 想いの丈を通り越し
うまく伝わるどころか  かけ違いのボタン  困ったな」

本当の気持ちだって、放り投げれば自分の意思から離れていく。
生々しい鮮やかな感情も、放った瞬間に外界に触れ、徐々に消えてゆくだろう。
循環するエネルギーを失えば、肉体が腐り朽ちてしまうように。
全ては一瞬の連続で、無常の永遠性を帯びている。

帰りの飛行機で「エッグ」の音楽を聴いて舞台を思い出した。
舞台では、テレビの中、画面の中に隠されていた役者たちの命が露わになる。

それぞれの生命力みなぎる血潮。
肉体から発せられるエネルギーは、終焉への腐臭を孕んだ美しい生の香り。

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人に会うことは常に真新しい変化を与えてくれるなあと思う。

常に新しい血液を回しながらも、外部に放出し続けられる生臭い死への余韻に浸る。



直進するエネルギーの背後には、真逆の方向へのエネルギーが潜んでる。
好きとゆう言葉が宙に放り出されると、鮮やかな感情はうっすらと別れを帯びて過去になる。

私の意思とは裏腹に、そして知らぬ間に形を変えてゆく。

言葉がどんな風に消えていっても、気持ちは更新され、深化し続ける。


言葉で表して浮力にすることも出来るし、言葉にすることで時の流れに吸い込まれることもある。

いつも全て、相反するエネルギーが内包されている。


浮いたり落ちたり、澱んたり澄んだり、流れたりとどまったり、変化したりしなかったり。

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飛行機は今、どんどん地面に近づいている。
コントロールのできない圧力で身体が不自然に乱れる。


機内でいろんな歌を聴いて痛感する。会える時間はどの人に対しても限りがあるということ。
会えるか会えないかは、相手次第じゃないんだ。
相手がどこにいたって、会いたければ会いに行けるんだ。

言葉にすることも、言葉にしないことも、とっても大切だ。

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自由を求めることはたくましく生きることだ。

選択肢は与えられるものではなく、自分の想像力が生み出すものだ。