2018年7月24日火曜日

術と道について

絵を描くことは自分に暗示をかけたり、呪縛から解いたり、まさに「術(じゅつ)」としてあるのだと思った。

もう子供のように泣かないけれど
泣きそうな気持ちで、すがるような思いで、しっとりと画面を濡らしていく。

滲んだり沈んだり凝固したり混ざりあったりする紙の上、空気の中
それを見る。


私が付き合った人はなぜみな私の知り合いと付き合うのだろう。
なんとなく、最後は私がのけものにされてしまう感じがして悲しい気もする。

最近恋がから騒ぎしてないな。
もちろん、いい意味で。

悲しくも辛くもない苦しくもない暑いだけの日々。

目的のない絵に慰みを求める。
価値のない絵に慰みを求める。
そこで術をかけたい。術からとかれたい。
術から逃げ出したい。術を手に入れたい。

同じ言葉に別の意味がある。それはとても自然なことだ。
言葉の中にも、植物の種のような側面がある。
完全な栄養を持っていて、それは栄養として完璧だ。
いつ芽がでるかは環境による。
芽が育っていくと、そこからは枯れて種に戻っていくことを悟ることができる。

なんか、これからは、誰かの誕生日には自分が買ったこともない絵の具を贈りたい。


私は術を持ち合わせていない。
慰みでもなんでもいいから、私は画面と向き合わなければならない。

メモをとり
本を読み
絵を描く

それで私の人生はうまく回る

道は絵と似ている。
描かないと生まれない筆跡ということだ。

2018年7月17日火曜日

home coming

文章を書こうとするとき、絵が心の中を踊り始める。

らら〜ら〜ららら〜

夏は暑すぎる。だけど暑いからこそ夏は夏なのだ。
心よ静かに穏やかであれ。
雑に向き合おうとするくらいなら、思い切り背を向けて駆け出せ。

どうしても納得ができないことを一つスッキリさせられた。


原付のエンジンを1年ぶりにかけた。
キックスターターでガンガンキックした。
すごくスッキリした。
廃車申告書を見つけて、区役所で転入届を出そうと思ったのに見つからない。
がーーーん
ああ常陸太田に再発行に行かねばならぬというのか。
こういうことは早めにやっておくべきですよね。
なぜないのだ。

ああ

最近まわりで転職、退職、休職が相次いでいる。
星のめぐり的に、そういう時期なのだろうか。
皆にとってよい門出になりますように。
いや、きっとそうだ。
もしたとえ今立っている場所がどろどろの沼地であっても、
一歩踏み出していることで何もかもが今までとは違う。
祝福をたくさん、たくさんたくさんたくさん、贈ることはできないだろうか。

祈るだけではだめ。


「被災地」というひとくくりの中に、どれだけの人生があるだろう。

簡易トイレとツナ缶と水、マスク、防寒着
用意しておいて損することはない

エアコンもない。乾いた砂ぼこり、菌、泥、直射日光。
親しい人を亡くしても、生きるためにやらなければならないことでいっぱい。

いろんな情報をみて、できることを考えたけど、日本赤十字に義援金を送ることにした。


私は静かで穏やかな時間をドブに捨てて、イライラしている。
こわいからだ。
いろんなことが、こわいからだ。
私が今うたいたいことを歌えたらいいのだけど
ギターを弾いてみよう。

2018年7月5日木曜日

林的満月をすぎて

親しい人が国をつくるのが夢なのだと言っていた。
国とはなんなのだろう。
いろんな人がいろんな考えと言葉を持っているけど、国という表現はとても新鮮だ。
そしてめちゃ規模が大きい。
その話の続きを聞くのが楽しみである。


私がやるべきこと

徳島の方への作品制作にとりかかる(シヴァナンダヨガをはじめて瞑想を深める)
依頼されたデザイン作り2点
タブローへの取り組み


私は空回りと不安を繰り返す。
それを持ち直すために、瞑想が必要だ。
瞑想は、かならずしもヨガによって得られるものではない。
ヨガ が与えてくれるものではない。
なにもかも全て、入口でしかない。何も与えてなどくれない。
与えるのも見つけるのも決めるのも動くのも、全部自分だ。
そして自分というものがいかに曖昧な境界線上を漂うぼんやりとしたものかを思い知る。

全て入口だ。裏側も、現れた瞬間に表面に反転する。
それを繰り返している。
だから、どちらか、という分け方はできない。
無意味だ。

言葉すら無力だ。
私の言葉もずっと空転している。
声を出さなくちゃ。
サザンオールスターズの秘密のデートを弾き語らないと持ち直せない。

今自分がどこにいるかわからない。


直感に従うことが要だ。

それで大丈夫。

なんだかこわい。あまりに空回っていて、なんか苦しい。
絵を描く時だ。

女性は毎日生きることは変化ばかりなんだ。
変化ばかりなんだよ。ずっとずっと。

生理のことで悩みのない人は一人もいない。
ありとあらゆる痛みとありとあらゆる苦悩とありとあらゆる弊害がある。
それは私の偏見ではないはずだ。
まじ大変だなと毎月思っている。

あ、今生理なのかな、と読んだ人は思うかもしれないけど違う。
違っても違わなくてもどちらでもいいのに、違いますからって言いたくなるこの感じ、すごく自分でもいやだ。

林的満月というのは、叫びたくなる日のことを言う。
それがホルモンのバランス的にどのような地点なのかはよくわからないけど、様々な波が複合的に私を形成している。ということを常々感じるのが女性という生き物なのだ。

世界の表面に浮かんでいる、目に見えるものは全て入口

やっぱり夏は山下達郎でしょ!

私の制作部屋は夏でもクーラーいらず。

気づいたことがある。作品をコンスタントに作り続ける言い訳はなんだろうと。
そういうことからしか考えられないのは悪い癖ではあるかもしれないね。
でも私はここをスッキリさせていきたい。
この永遠の問いのようなものを毎回ちゃんと取り決めていきたい。
安心の約束。

言語化していくことも繰り返すことだね。
こういうところから、いろんな自然の成り立ちを現代語訳できる。

作品は入口なのだ。
作家は入口を作っているのだと思う。
決して、道を作っているわけではない気がする。
道というのはそれぞれの心の中にあるもの、というか、生起するものなのではないか。


道が目に見えないものだとしたら
そもそも道とはなんなのだろう。
よく歩くところ、ていうことかな。
よく踏みしめるところ、ていうことなのか。
道というものについても考えなくちゃいけないけど
道がそれぞれの中に生起するものだとしたら、私の目の前に広がっている世界の表面は、全て入口でしかないんじゃないか。

世界の表面は全て入口なのではないか。


作品を窓という言い方もできる。静止画とか、世界の一部を切り取ったものとか、そういうものじゃないと思う。
それぞれが覗き込んで、踏み込んでいく最初のきっかけが作品、入口で、世界の表面。
その中は可能性が無限にある。目に見えない繋がりで大きな空間が広がっている。
では、道とはそれぞれの歩みそのものなのか。

歩むことと同時にしか、道は存在しえないのだ。


私は入口をつくる人なのだ。
いろんなところに人を放り投げていく。そういう存在なのだ。
あいだを取り持つ人なのだ。
与えもせず、求めもせず、放り投げるために、絵を描こう。

絵を描くこと自体は目的も意義もない。
ただ、もし人に見てもらう意義を見出すとしたら、それはたくさんの人を放り投げるためなのだ。
入口に立たせて、その中に放り投げたい。
それぞれの歩みに踏み込んでいくきっかけになりたい。

ような気がする。


言葉にした瞬間になんか空回りしていく感じもある。
考えながら話すと空回りする。

2018年7月3日火曜日

夏2018

気持ちが言葉になると、嬉しくて、そして安心する。
私の感じていることを、またひとつ、安定した地面に着地させられるから。


https://youtu.be/W9sxKjq44AA

2018年7月2日月曜日

リスペクト

ハッとした。
これは尊敬という想いだ。

念、想、思、感、情、心

いろんな単語で「気持ち」についてあらわすことができるけど
本当に言葉に起こせている気がしない。

「100分で名著」が毎回とっても面白くてずっと録画している。
ただ、これで本を読んだ気になってはいけない。

本を読むことは、思い出すことなのではないかと思っている。

今、伝えることが過剰になっていると言えるかもしれない。
でも果たしてそこで行き交う情報は、物事の本質的なメッセージを伝達できているのだろうか。
私たちが発信しあっている情報は、どの根につながっているのだろう。


本を読むことは、伝えることと同量で必要なのだと思う。
それがどのような本であっても。

自己啓発本なんて、とか、エンターテインメントなんて、とか、スポーツなんて、とか思っている時期も昔はあったけど今はそういう偏見がない。
彼らは本物の修行者だから。


中西和さんという画家がいろんなことを言葉にしてくれた。
ミュージアムショップで出会ってから、二度、鎌倉を訪ねた。
和さんは、私が、誰もがぼんやりと「わかっている」ことをまっすぐに、肉迫のある言葉で指し示してくれる。明快で、まばゆく、それは教えのようだった。
お菓子を食べながら、コーヒーを飲みながら、ずっとずっと大笑いしながら聞き入ってしまった。
 「手放し」
これができる人はなかなかいないのだと思った。
人には善意や傲慢さがあるから、ついつい、説明過剰になってしまう。
手放しに愛する。手放しに見守る。
手は一方の力で握るものではなくて、2人の力をちょうどいい塩梅で抜きながら握りあうものだ。
小さい頃はお母さんに握られているような、握られていないような、ただ包み込まれる感覚に安心感をおぼえていた。そして「きゅっ」と握り返した際、自分の力が加わることでお母さんの手を握っているという感覚が体を伝わる。
すると、まるで心もつながっているように思えた。



手放しの感覚に気づいてみると、私を放り出してくれる人は実は周りにたくさんいると気づけた。

自分の思いを伝える前に、私たちは自分の思いについて、よく観察しなければならない。
自分がどこにいるかを伝える前に、自分がなぜそこに行き着いたのかを考察しなければならない。
自分が何をしているか伝える前に、目の前に横たわる実感覚を鮮明に味わい尽くさなければならない。

尊敬という思いがこみ上げて、ハッとする。
他人からの深い洞察、愛のある観察を注がれていることに気づく。