2017年4月30日日曜日

君も私も負けてない

自分の弱さ、人に言わないのは、自己暗示にかかってしまうから。
まだ自然治癒能力で回復できるうちは、涙が自然と出て来る喜びを享受するのだ。

自信は内在するもので、にじみ出るもので、色気のように密やかに空間を満ちていくもので
あんまり表にビシバシ発するとそれは図に乗る、調子に乗る、ということに近づいて周りが疎ましく思うような芳香になってしまうのかもしれない

泣いてないし、自信満々でもない、ちょうどいい感じでケタケタ笑って一日を過ごしたり
へこんだりしぼんだり小さくなったりしつつ種をまいたり羽虫と戯れたり勇ましく行進したりする

お酒はビール2杯でふぁ〜〜〜〜〜〜ってなって、コスパがとても良い。
次の日にも残らない。家に帰る時にはシラフ。
依存されることもなく、ピト、って頼られて一緒に頑張ろうねって気持ちを新たにする。
都合の良い日々、不安は見ないふり、今は強く生きるための励みを収穫する時期。
いつかまた辛い時がくる、めちゃくちゃに乱される時がくる、へこんで意欲がなくなる時がくる。その日のための準備をする。

そういう時のことも記していって、いつでも何かを乗り越えていこう。

永遠に美しくなり続けよう。


2017年4月29日土曜日

個展最終日です!!!

29日土曜日、個展最終日です。
絵を教えたり、個展をしたり、いろんな作家の作品を観てきて、一層強くなる「作ること」の意義。
作品を作ることが与える命への恩恵を実感しています。
ずっと同じ問いを繰り返し続ける人類の歴史の中で、意味のあることなんて何もないと思うけど
生きる、そして死んでいく、その過程に「作ること」が及ぼす影響を見過ごすことはできません。
恥と悔しさとコンプレックスがあってこそ、意識が張り詰めて、余白が透明に満たされる。
人は時間を止めてほしいと心の底で願っているようだ。






3枚目:作家近影

2017年4月27日木曜日

気づき

表現について。

良いバイブスを与えたいという気持ちが出過ぎて、明るくてかわいくて幸せな生き物っぽいのを随所に登場させたり、
逆に闇っていうのを自分なりに肯定して表現しないと、と思ったりしていたんだよ。
でも私が目指しているのってそこじゃないんだよね。
もうその「善し/悪し」「光/闇」ていう二者択一、二項の対立構図で考えてしまう時点で罠なんだな。

常に「気づき」を表現することなんだ。

善悪はない、ていいながら、自分の絵には善し悪しを設定して、駄作だとか、こうすることでいい絵になるとか、結局善し悪しの判断をしながら絵を描いている。そこに違和感があった。当たり前だし、必要だと思っていたから気づかないようにしていた。考えないようにしていた違和感だった。
闇があるから光がある、ていうのは、構図。
そこに意味があるんじゃなくて、そのために見えて来る風景を描かなくちゃいけない。

まざって区別がない状態を基盤として、そこから分岐していく様を観察しなくてはならない。
最初の最初はいっしょくたの状態からはじまっていることを絶対に忘れちゃいけない。
こわくないよ。

性別。これも越えられる。男女に分岐する前に戻れる。実際にそういう印象の友人がいる。
善悪。越えられる。 悲しくて辛くて虜になってしまうけど。
   善悪もあとから生まれた不自由だと思う。
憎しみ。わかるわかる。縛られてしまうの、とてもわかる。
    表面の意識なので、全然越えられる。
汚れ。越えられる。自分だってお風呂入らなかったら臭くなる。汚れを憎まない。
匂い。匂いが合う合わないで相手との相性をはかるっていうのあるね。
   でもね、越えられる。 匂いに好き嫌いを持つな。
   花村萬月の「ゲルマニウムの夜」という本に「匂いに善悪はない。」
   って書いてあった。大学1年生の時から裏座右の銘にしている。
   今ようやく意味がわかる気がしている。


風刺、批判、挑発、ハプニング的な表現で心をざわっとさせたり、ドキっとさせたい。
でも人を傷つけたくない。クリティカルヒットを狙いたい。
人を傷つけたくないっていう思いは強くて、それが恐怖を生んで、優しさに逃げた。
自分のやわらかい部分を全面的に押し出して、でもそれが違和感だった。

人を「傷つける/傷つけない」でおびえたり、そこに縛られてしまうと表現もきっとどちらかに寄り添うしかなくなる。
その二項が分岐する前の心に、届くことを目指せばいい。
そういう想像力が、人を傷つける問題を乗り越えてくれる。
その先を見据えて。素直にドキっとしてしまう、純粋な部分、ごちゃまぜな心を鷲掴みにするんだ。
鑑賞者は、自分を傷つけずに相手を傷つけずに素直に受け止められると思う。


男と女、恋と友情、不倫浮気、結婚、愛の契約、独占欲、嫉妬、羨望

越えられる。

言葉にするとこわくなったり強くなったりしちゃうけど。そんな言葉に振り回されないでね。私は自分の言葉によく惑わされそうになるから速攻で忘れるよ。
これは私の都合の良い能力なんだ。こういうの割と大事だと思ってるんだ。
嘘ではないの。ざっくりなの。
だって変化していくもの。
その瞬間の本当は、変わっていく。決して嘘にはならないままに。
大事なのは良い悪いや傷つける傷つけないという視点ではなくて、自分のまいた種が芽吹いて育っていく様子を観察すること。「気づき」を表現し続ける姿勢だと思う。



絶望をひっくるめた希望は強いよね。昼はまぶしくて、夜はあったかい。



違和感

心がざわめいている。
悲しくない。苦しい。楽しい。たくさんならぶ0と1が感情の濃淡を描いている。
ざわめいている。動いている。

表面の意識と深い意識には間があって、その間は地層のようになっていて、うす〜〜いかわいい膜、つよい膜、おもしろい膜、いろんな膜が重なっている。
表情がレイヤーになっていて、アニメーションになっている。

違和感は沢山ある。違和感は正直。
誤差とか、差異とかではなくて、違和感。もぞっ、という感覚。
テレビの中で水原きこちゃんがうすくて生地がすくない服きてビール飲んで「惚れた」って言ってるのとかものすごい違和感がある。これは大きい違和感。異常だなていうレベルの。
小さな違和感だと、人と話しているときに「ん?」「むー」ていうのがたまにある。
なにか、違うぞ、もぞっ ていう。
言っている意味がわからない、だったり、根本的に考え方が私と違う気がするな、だったり。

完全な一致、完全な調和は、きわめて稀。
いつだって小さな小さな極小の違和感と共に生きている。



2017年4月22日土曜日

おしらせ

informationを更新しました。
minne ハンドメイドマーケット2017の中のシブカル祭スペシャルブースに参加いたします。4月28日、29日、東京ビッグサイトです。
シブカル祭。2017 in minne
プロフィールが、カッチカチ〜


インスタグラム(@hayatomom)には落書きや制作中の写真を載せています。
ブログは文章と展示作品がメインです。
落書きもちょっとずつ載せていきたいなと思って、scribblingのページを作りました。
ウェブサイト、作らなきゃって気持ちが、募る!でもブログをメインにしていたい気もする。

2017年4月20日木曜日

感情の発着地点(地上改札)

人を憎んでいるって浅い意識下の話で実際のところなんにも憎んでない。
憎む行為って、感情の発着地点を見ているだけ。
実際どうでもいい。
そこに執着してもいいけど。
私は電車好きだけど鉄道マニアではないんだ。

本日の悔しみ😉

本日ナンバーワン悔しかったのは「作品が商品のように並んでいる」と言われたこと!
でもそう言われても、開き直ってる。メンタル強くなってると感じるところ。

人が、作品をどう見るかで、強調される印象は変化する。
作品を商品として見る人と、作品を自分にいいバイブスを与えてくれる存在だと思って見る人と、作品の展示の仕方や内容から様々な意図や思考の向きを考察する人と、情報が多すぎてどこ見ていいかわからない人と

だから展示の仕方は大事なんだ。

商品みたいと言われたのが悔しいのは、わたしは作品を商品と思いたくないからだと思う。
商品という定義を考える。
商品なんだけど。
言われるとくやしいよね。

そしてそれを言った村上慧くんは多分わたしのメンター。
彼とわたしの共通点と相違点を図にしたら、点対称の回転体が出来上がると思う。
もしかしたらもう1人の自分なんじゃないかなって感じてる。

別に何か名付ける必要なんてないんだ。さとしくんが自分だろうが自分でなかろうがメンターだろうがなんだろうがなんでもいい。
「実はマジで《なんでもいいじゃねえか!》」という世界をツマミに、いっくらでも人間性を変えて視点を変えて、人間をやめたり真人間になってみたり、無限に存在地点を変えながらおしゃべりを楽しめる仲間なんだ。



わたしはこの日本社会に無意識化に刷り込まれたとてつもなく根深い男尊女卑を感じてるよ。

男尊女卑






何故悩んでるのか自分でもわからないけど悩んでるかわからないことを悩むしかないのだ。
いつもうまくいってたら本当に面白くない。

待てども待てども準急が来ない。

日本では全広告で女性は性欲の対象になっている。




自信持ってるし堂々としてるのは周りが優しいからだと思う。
何をモチベーションにして、社会に挑んでいけばよいのか、自分は見失っている。
だからインドに行くべきなんだ。

Trigger

「普通じゃないから引く」なよ
「頭おかしいから引く」なよ
全然面白くない

ともを

昨晩の投稿

吉原弁財天に林友深の旗が増えてた!
インド帰りの友人が弁財天の前でマントラを唱えていたとき、風と鈴の音がお経のように聴こえた。
インドの話を聞いていたら、ものすごいトランス状態に入ってしまった。意識が川のようだ。東京も茨城も特別でどっちも好きだけど、東京の広告の量はやばい。茨城で、完全な暗闇の中で自然の中に潜む命の気配を感じながら眠りについたり、まだぼんやりと暗くて寒い時間から農作業をはじめる近所のおじちゃんとおばあちゃんたちを感じながらまた眠ったり、お日様の光に起こされて植物たちが息を吹き返す姿を、目を凝らして覗き込んだり
テレビがないから民謡聴いたり、アリの歩みに連れ添って田んぼのあぜ道を歩いたり、そういう生活が恋しくなった。
わたしは「社会」を生きるために面の皮を厚くし、意気揚々と煩悩を着込んでたんだな。
自分というものにかなり支配されていたんだな。
自分が自分を忘れると不安になるのは、漂流物である魂はいつだってどこかに定着したいと願うからなんだ。

燃えた煩悩

煩悩可視化モードに入っているため、日本の情報量にあっぷあっぷしている。
俗世が悪いとかじゃないんだ。
自分の煩悩が軽薄だと気付いたときの愚かしさと虚しさは消す事が出来ない。
煩悩がないと社会ではなかなか夢を持って生きられなくて。
でも、自我は捨てたい。
私がいきなりボケたら、違う次元に意識が移行したと考えてね。

インド帰りの人と話してたら、私の潜在意識が目覚めてしまった・・。
もう慣れたから平気っしょと思ってたのに、昨夜は帰り道からずっとトランス状態になってしまった。

この土地のものを食べて、この世界に染まって生きるしかない。
そしてたまにインドに行って、全ての煩悩をいったんおろして、整理整頓をするんだ。

インド行ったことないけど、とにかく行くしかない。

インドが合わなくても、田舎に一年くらい住んだり、山登ったりするのが良いんだと思う。

初めて付き合った人が全否定する人だったからか、常陸太田の仕事の同僚にアートじゃない普通じゃない社会性がないって言われ続けたせいか、話す人話す人、否定してこないのが逆に不思議だな。
この感覚、全然とれなくて、すごく根深い。

2017年4月19日水曜日

ファイト!

やっぱり誰かが悲しむかもしれないと思うと、投稿を非公開にしてしまうのであった。
いやなんだ。無闇に人を傷つけるのは。

昔は何もかもをさらけ出していたけど。

人間はみんな裸の王様なのにね。

自分はこう思う、ていうのがどうでもよくなってきた。
だからわざわざ言わなくていいやって。

本当に、それで良いのだろうか。 

まあ、多分いいのだろう。
徒党を組むとか、多数派に従うためじゃないのなら。

文章力や語彙が変わり映えしないこともネック。
修行のときだ。

自分のコンプレックス、気にしないようになっただけで、なくなったわけじゃないんだなーと、何かを書こうとするたびに実感する。

自分という鎖から自由になりたいから生きてるんだね、やっぱり。



かなり久々に、自作アニメーションを制作し始めた。これは試験。
歩くコマの、一枚。
一枚絵だったら描かないような運動の中に隠れた微妙な一コマ。
そういうのを描いてるとき、アニメーター魂が燃え上がる。
(小学生のときからPCでアニメを作ってたんじゃよ)

プールとアニメーションは私の故郷。





2017年4月18日火曜日

個展「透明な器の底」について

命は「器」にたとえられることがある。 実存という現象に引っ張られているため、自分の中身は不動でみっちり詰まってるものだと捉えがちだけど、ほんとは常に入れ替わってるんじゃないかな。
そして、中に入ってるものが器の中で反響するから、まるでそれが自分であるように感じるんじゃないかな。
割れた鏡に同じ像が沢山映り込むみたいに。
そもそも器自体が底抜けで、もっともっと深くて遠くの、自分とか自分じゃないとかの曖昧などこかに繋がってるんじゃないかな。
例えば太古の記憶かもしれない。
時間や自我を超越した、現実と地続きの、目に見えないspace。

会場には「円型」や「器型」の作品がたくさん展示してあります。
円は個展タイトルのまま「器の底」を連想できます。

そのほかにも、「望遠鏡(マクロ)」や「顕微鏡(ミクロ)」、「人体の断面」「トンネル」「曼荼羅」が連想できると思います。
また、本物の陶器作品は、側面に絵が描いてあります。

当たり前のようだけど、器って絵に終わりがないんです。ループするんです。
器には「輪廻」を想起するスイッチがあるんです。
だから、悪いものを循環させてはいけない。器にはいいおまじないを込めました。

あとは、造形教室で働いていること、最近お仕事でたくさん描いた龍が自然と現れてきました。
辰年だし、茨城では竜神峡の近くに住んでいたし、龍には縁があるようです。
もともと大好きな靴、靴下、手もいろんなとこに隠れてるのでぜひ探してみてください。
なんでこんなとこに?てとこにもあります。

私が世界で出会ったことがあるもの全て、私と縁のある存在だと感じています。
だから、私は目に見えるものでも見えないものでも、地獄でも天国でも、ハムスターもクマも描いてみたいと思っています。

振り幅が大きいほど、絵は強度を増して真実味を帯びると思って、選り好みせずに色んなモチーフを描写していきたい!


つい最近まで「猫」や「犬」を「愛玩動物」「口当たりのいい素材」として遠ざけていましたが、私の愛する範囲は徐々に広がっているようで、猫も観察したい、犬も観察したい、そして自分流に描きたいって思うようになってきました。


地獄もお仕事でちょっこっと描いて、あー、私も鬼とか描けるようになったんだなー、とか思ったりね。もちろん地獄にも、私は極楽を描かなきゃやってられないんだ。


そのほかのキーワード
壺中之天
反転
蕾(つぼみ fat bud)

遊び
ユーモア


みたらわかるでしょ。そのほかって言ってるけどね、めっちゃ大事なこと。 

2017年4月16日日曜日

真剣に話す

軽くてふんわりした話に終始してしまうことは昔より多いと思う。
別にわざわざ話さなくていいこともあるし、でも軽い話ばかりできるようになるとどんどん本質が内側に込もって自分ですら認識できなくなっちゃうんじゃないかと思うから、内側への観察眼は鋭く保ちたい。

矢野顕子すき。。。。。。。。。!!!!!!!!(~_~)/ + ∞

自分が回転してて、他人が回転しながらさらに他人の周りを回転していて、そもそも自分も他人の周りを回転してて、
宇宙にある物質ってみんな回転しているんだよね。

そんな映像作品に出演したことがあるぞ。大学時代の課題で。
私は不良の妹役で、「お兄ちゃん、なんで私ってモテないんだろう」って言わされました。
いちいちものすごく嫌味なストーリーを作って私にやらせる望月くんと匠くんて人がいたんだよなあ。
モテないなんて悩んだことないし君たちが言うのかよ!ゴニョゴニョ

作家の友人と話したいことが沢山ある。
真剣に話せるのはほんとにほんとにすごいことだ。

異業種ならまだしも、やはり画家の友人の活躍は、悔しさが滲むね。(あと女性)
もちろん絵でお仕事をしていきたいから売れたい。
色んなことにチャレンジできる機会はほしい。
だけど、そのために売れる絵をかくのは本末転倒だと思う。

子供たちの物作りを見ているといっつも楽しげで、人の評価は二の次で、水飲むのも忘れちゃうくらい没頭している。
そういう純粋な熱意をみると心が和むし、熱くなるし、楽しい。
絵画教室で上手に絵を描きましょうなんてくそくらえと思う。
どこまで「上手い/下手」という基準を忘れて、超越できるかがいちばん、いちばん、いっっちばん大事なことだと思う。
そういう飛躍を繰り返すことで、自分という領域は拡張されて可能性が広がって、この世界の「自由」を掴む力を育める。

小中を過ごした母校の私立明星学園は校則なし、教科書なし、制服なし、給食なし、係なし、朝礼なし、前ならえなし、校歌も国家も斉唱なし、宿題なし、号令なし、日直なし・・なんにもなかった。
やっていいことといけないことは自分で考えろという自由な校風で、小学校の図書館にAKIRA全巻あるような学校だった。
在学当時のことなので今はわからないけど、担任が校長先生になってるので、変わってないかもしれない。
明星の先生の素敵なエピソードは、道草晴子さんの「みちくさ日記」を参照ください!!※13歳でちばてつや漫画賞をとり、すぐ精神病と診断されて10代を病院ですごした壮絶な記録をユーモアをまじえて淡々とつづった面白い漫画。大好きです。面白いよ!!
みちくさ日記 道草晴子インタビュー

私がそこで学んだのは「堂々と生きる」ってことなのかなと最近思った。
なんでも自由なので、小学校の頃から自由についてよく考えていた。
常識なんて教わらない。それは教えられるものじゃないし、教えられる常識はまず疑わなければならないものだと思う。
大事なポイントとしては、多数決がない。多数派ってのがない。そういう対立構図はまず生まれない。
みんなそれぞれだから。こっちに従っておこう、みたいな思考にならない。


明星出身の子たちみんなに言えることってなにかなーと考えたとき、以前はやたら「自信満々」だなあと思ってた。
誰も彼も、お金稼いでいようが根暗だろうがなんだろうが、惨めな人生でも堂々としてる。
それは自信とは違うことだった。


自信持てないようなことでも「自分で選んだからな〜」という潔さがある。
根が暗いのだって、なんだって、自分で選んでるって自覚をしている。
つまり堂々としているってことだった。

図々しく生きることが人生をサヴァイヴすることだ。

https://youtu.be/4uLeUy-Kj5M



かなしいのにも理由があるけど
げんきもりもりなのにも理由があるはずだ
元気なのは当たり前なことじゃない



2017年4月14日金曜日

宇宙を眼差す

「子曰く」ていうの初めて学校で習ったときワクワクした。
なにそれなにそれだった。

母曰く「春は柑橘類がおいしい」だそう。

最近売れているぶるぞんちえみって芸人が、目線は2kmを見る感じで〜ってテレビで言ってて、へえー、それであんな異様な眼差しが生まれるのって思った。
やってみたけど2km先って難しい。
目がぼやーってしてくる。

そのあと、ジャグラーの友人に会った時、あんなに色んな方向に駒を飛ばしてるからいったいどこを見てるんだろ〜と思って聞いたら「わざと目線を駒からはずしたり、わざと目で追ったりしてるよ。あとは、お客さんを見るっていうより、宇宙の先を見つめるような感じ」と説明してくれた。
え、2km先じゃないんだ、宇宙なんだ、宇宙!!なんだ!!!
どちらも芸人で、パフォーマーだと思うけど、お笑いとアートの根本的な違いなのかな。
宇宙を見ようとしたら、意識の層が切り替わる。
さらっとすごいこと言っていたことに、本人は気付いていないかもしれない。

この話が面白くて母に話したら、お母さんは若い頃男性に「君はいつもどこを見ているのかわからないような目をしていて素敵だね」と言われたことがあるらしい。
それは、お母さんがその人が好きじゃなかったからいつも遠くのほう見てたかららしい。
なんだよ、そのオチは・・

「ともちゃんと話していると誰と話しているのかわからなくなる」ていうのも同じかな。
やっぱり、自分の身体とか、目とか声とかって、別の時空に向かっている時があって、現実とは違う別の空間はいつもそばに漂っているんだな。

新作に関するメモ

心臓の鼓動、小惑星、宇宙を見つめる視線

2017年4月12日水曜日

火曜日在廊してたらたくさん人が来て嬉しかった。楽しかった。わたしに縁がある人がわたしのところに集まって来てくれることがとても嬉しかった。でも展示ってお金にならないんだよね。難しいなあ。

2017年4月10日月曜日

乱れを可視化する

人の苦しみの本質を眼差したいと思って、人の話に耳を傾ける。
相手との不和も調和も、波になって自分の体内をめぐる。それを感じる。
良いとか悪いとかじゃ判断できない。
好きとか嫌いという区別ができない。
愛しているから憎くて苦しいのは理解ができる。
わけがわからなくなると、闇の中に放り込まれるようでこわくなる。子供と同じ。

薄い味のスープが好き。
味がちゃんとする野菜が好き。
ゆるやかにやわらかい平坦な、ふっくらした地面に戻る。

便利な世の中だな。忙しさはいくらでも加速する。
少し休めば切り替えられる出来事もあれば、長い穏やかな暮らしが必要な人もいるのにそんな贅沢はなかなかのぞめない。
忙しくするのは苦手で、休むのも上手にできない人が何かでバランスをとろうとする。
目に見えないものに沢山縛られて苦しむ人たちが、明かりを点そうと闇をまさぐる。

ああ、もうSNSにも慣れた。戯言にも、仕事の愚痴にも、色恋の温度差にも
こんなに余裕を持っていられるのはいつまでかな
些細なことで乱れる波を可視化する。



苦しむ人をみると、どうにかならないか考える。
ずっとずっと同じことが引っかかっているんだね。
そういうのはきっと誰もが、持っている業だよね。
だからすぐ溶かせない。消えることがない。軽減させるにも毎日の努力がいる。
苦しまない努力が苦しいのもわかる。
だから性急になってはいけない。
こうすればいいじゃん、とか、そういう言い方がかえって相手の心の傷口をひらくことにもなりうる。
傷つくワードがわかっていたら尚更、 避けなくちゃと思う。
苦しんでいる友人に対してわたしが持っている心をみてほしいと思う。
でもそれは言葉にはなかなかならなくて
話のつじつまを合わせることでいっぱいになってしまって
そういうとき絵を描こうって思う。
私の気持ちに気付かなくていいから、私の絵を観て、メッセージを心の奥に届けてほしいと思う。
いつか届くんじゃないかと思う。


何をしても「傷つけられた」と感じてしまうことで、人を遠ざけてしまう。
愛されたいのは皆おなじなのに、どうして器用にできないのかと悩む。
素直でいたいけど、素直でいることは自信がないと保てないからできない。
ていう感じなのかなと、話を聞いていて思う。
何を言っても傷ついてしまうんだなと思うと、何も言えなくなる。

だから絵を描いたり、笑ったり・・・我慢をしないで本気で生きようと意気込む。