2015年7月31日金曜日

「ダンスからこんにちは」横浜ST

横浜STにaokid×橋本匠のパフォーマンスを観に行った。
とっても良かった。
空間を埋め尽くすような記号的、象徴的な出来事が面白かった!
様々に工夫を凝らした彩りのある「行為」そのものに目がいくような内容で、2人の良さや2人の特徴を感じるようなパフォーマンスだったなぁと振り返って思う。
新見くんや塩野谷くんのアドバイスをモノにしたら、もっとそれが際立つんだろうな。あの2人もほんと素敵だな。真摯で!

言葉、音、身体感覚、色んなものを吟味して眺めては並べ替えるみたいな作業を沢山してる感じがした。
感覚を研ぎ澄まして、どんどん身体性や内容が変化していくのが楽しみだし、見届けられないのは残念だなと思う。

こっからの4日間がものすごく楽しみ。

2人とも最後までとことん走り抜けてほしい。

クセをいかして走り抜ける!

身内の過大評価とゆう部分も或いはあるかもしれない。それはまだ自分でもわからない。けど、彼らのカラー、彼らのやろうとしてる方向が私はすっごく好きで、いいなぁ…って羨ましいの気持ちも込めて思う。

色んな人に観てもらい、世の中に晒されながらどんどん突き抜けて浮き上がって欲しいパフォーマーの2人。




2015年7月28日火曜日

「おとなもこどもも考える ここは誰の場所?」東京都現代美術館


話題になっている会田家の「檄文」の作品や、会田誠の首相スピーチの映像を見届けたくて東京都現代美術館へ観に行った。



はじめに言いたいのは、twitter上で交わされている、この撤去問題に関するツイートは良いのが多かったこと。
美術館という制度のこと、行政や組織が関わるこの仕組みの在り方など、色々な問題が浮き彫りになった出来事だと思う。

そしてこの展覧会の主旨の良さ。
子供の邪魔をするのはいつも親。その親が受けている教育の問題。

展示は開館時間ちょうどに行ったので最初は空いていたけど、途中から混んできて親子連れの姿も目立った。
でも、もはや子供も親と別行動をとって自分の好きな物をみようとできないのかと思った。
何かをつぶさに感じる自由を、子供たちは親に制限されているようにも見受けられた。
確かに子供を放っておくことはできないけど、子供の行動と感覚を大人も刮目せよと思った。

展示の見方一つとっても、この展覧会の主旨としても、自分も少なからず(てか多いに?)絡んでいる日本教育の問題に繋がっていると思ってる。
あまりに滞った教育の在り方から形成されてきた大人たち。
大人というものの凝り固まった存在。
そこに風穴を開けよう、一石を投じようという試みをこの展覧会から味わいとった。

見て体験してほしいと思うけど、例えばキャプションの横についている「これはなんとかという作品だよ。こういうのってなんとかだよね。でも、これはこういうことなんだよ。」みたいな子供向けの説明が実際は大人に向いている感じとか。
大人自体が現代美術を「わからない」から遠ざけたりしがち、絵を見ることを「説明できないもの」として敬遠しがちだと思うし、子供は「わからない」ままを受け止めることができる大きな透明な器を持っているのを忘れがちだと思う。
キャプションだったり、展覧会の構成の仕方を見て、「大人よ気付け、子供を呼び覚ませ」という声が聴こえるようだった。

一番最初のヨーガン・レールさんは最初はゴミのカケラが綺麗に色ごとに床に集めておいてあり、沢山の欠片でいっぱいだった。その壁に作品の形態を模索しているドローイングが貼ってあり、「ここにあるものでこのような形態の作品はないけどな?」と隣の部屋に入っていくと、今度はそのゴミの欠片たちで作った美しい様々な形状の照明が飾ってあった。これのことかあって思った。
美しい。光を照らすために作られたものではない。廃材なのに、ぼんやりと色あせたプラスチック容器から漏れ出す淡い光がとてもあたたかい。
ゴミのロープでつぎはぎされていたり、洗濯用洗剤の容器そのものが光の一部となっていて、細部にまでとことんヨーガンさんの美意識がつまっているのを感じる。

その部屋の次の部屋に行くと、今度は写真が貼ってある。浜辺の写真。
浜辺の美しい植物や波肌を写した風景写真の隣に大漁の流れ着いたゴミの写真がある。

テキストがどんと大きく壁に書かれている。40年以上日本にいて、日本の移り変わりを見て来たヨーガンさんが目の当たりにしている、沖縄の浜辺のゴミの現実。
人が消費し捨てていったあまりにも多くのもの。残酷なまでに浜辺を荒らし、生態系を荒らす人間の消費行動の成れの果て。
ここで、アーティストがゴミの欠片を拾い集める理由、それを美しく彩って作品化する理由、そしてその活動の元になっている大きな問題に対峙する。
彼は、このゴミ問題を、作品として自分の美徳も美意識も詰め込んで表現することでしか語れない苦しみも抱えているのだ。



※岡﨑乾二郎さんTwitterより画像を転載いたしました。

岡崎乾二郎(当展示での作家名は「はじまるよ、びじゅつかん(おかざき乾じろ 策)」となっている)の作品は、中学生までしか入れない美術館の作品だった。
大人はテキストしか読めない。プラスチックのカラフルな段パネで仕切ってある。高校生は大きな声でテキストを読み上げたら入れるらしい。
ここで親子の行動を切り離すことは素晴らしいことだと思った。
親はここで美術館の見方をあらためて学び直すことになる。
テキストには美術館ってなあに、アートってなあに、みたいなことが書いてある。
大人は頭でっかちだから説明できないことがあんまり好きじゃないんだ、みたいなことがわかりやすく書いてある。むかつく感じではない。
ああ、そっかあ、頭でっかちになっちゃってるかもなあ。みたいに思える。
子供しか入れない美術館には都現美のコレクションが展示されている。
好きなようにヘンテコを感じて、ヘンテコを心の中でまさぐってみよう、という感じで子供向けテキストには書いてあった。
そこから出てきた子供がいったいどんな想いで出て来るか。
いいなあ。

会田家の作品群は量も雰囲気もやはり会田ワールドで異様な感じ。でも外国の美術館でみる現代美術はこんな感じだったなって思った。
よくわからんものがふざけて置いてあったりする。
日本で観るから異様に感じるという印象もある。
内容はとても良かった。
息子の寅次郎くん(中2)のトークセッションでの受け答えの映像だったり、幼稚園くらいの時からチンポムのメンバーとかと喋りながら映像に残してきた寅次郎の頭の中に存在する「たんたたたん」という世界、寅次郎くんの世界観や今の活動・・・凄かった。
お母さんもお父さんも作品が素晴らしかった。
首相に扮したスピーチも、つたない英語で首相っぽく、丁寧に、偉そうに喋って、最後に「ああなんで英語でスピーチしなきゃいけないんだこのやろう」みたいな感じになっておっさん臭く管を巻き始めて画像がバグって終わるの。

奥さんの岡田裕子さんの多摩美の講義の映像は会田誠との馴れ初めから、会田家というものについて語っていて面白かった。生まれて三ヶ月で親子展をやったという話とか。
一つ一つのキャプションも面白い。
会田誠が小学三年生風に描いた絵、中学生風に描いた絵の展覧会キャプションには「これは会田誠さんがおとなになってからかいた絵なんだって。どういうこと!?」とか書いてあって。
私は前に森美で観たことがあった作品だったんだけど、確かに、こどももおとなも、きっとそう思うよね。面白いよね。

私も中学生のときや、小学生の時に来てみたかったなあと思ったし、自分だったらどんな反応したろう、と思う。

ものすごい嫉妬とかをしただろう気はする。
自分も小さい時から物を作ってばかりだったから、寅次郎くんの環境は羨ましいとか、自分だって小学生の時こういうことしてたし、とか、思ったし。
まあ、そんな風に思っちゃうこともあるね。

色々含めてすごい一家だ。

さいごの作品は、会田家の展示でる瞬間に「なにからなにまでくだらなかったな」て大声で言ってるおじさんがいて、なんかどぎまぎして、その次の作品で「いやーこれはほんと面白いね」て大声で言ってて、あんまり正気で観られなかった。そして疲れてしまったというのもあってあんまり覚えてない。
夫婦で作った作品だったので、いいなあって思った。



この展示ってなんだか「自由」や「革命」って言葉も絡んでくるんだけど、
本当に「自由」や「革命」や「芸術」ってのは、考えて言葉にするのが難しい分野だ。


物を作っていく人たちのパワーに生気を与えられた部分もあり、自身がアーティストとして・・・という現実にぶつかった部分もあり。



一番印象に残っているのは、会田誠扮する首相スピーチでの一言。


「さあ、再び、お互いに、孤立しましょう。」




都現美のサイトのテキストを読むだけでも面白い。↓

おとなもこどもも考える ここは誰の場所?



※追記
ヨーガン・レールさんはファッションデザイナーだったらしい。なるほど!だからこのデザイナー美的センス。この表現になるわけか。と合点がいきました。






2015年7月11日土曜日

小森はるか+瀬尾夏美 「新しい地面 / 地底のうたを聴く」HASHIMOTO gallery

上京して小森はるかと瀬尾夏美の展示へ。
よき出会い、びっくりな出来事、嬉しい遭遇。

展示良かった。

ワークインプログレス。力の抜けた、心のこもった制作。

気を抜いた、適度な温度のドローイング。

いろんな時点が作品にはあってよいね。

彼女たちの活動自体が一区切り一区切りで終わりはじまりと「決めてしまう」ことや、言葉で「説明しきる」ことがないところが良い。




2015年7月8日水曜日

Weaving poem

友達と話してて気付いた。
簡単なことだけど。

良いものを食べること。

身体が心を作ること。

元気がなくても美味しい味噌汁を、作って食べる。
ルイボスティーを、飲む。



いつも、ずっとずっと前から、みんな、同じことを言ってるなって身にしみた。
痛烈だけど、痛感した。
厳しいことでも正しいことを伝えてくれる人たちをしみじみ思い出す。







2015年7月7日火曜日

解放


Goodbye Happiness

自分の世界を大事にする。




イメージに何かが生じる時、欲求に触れる。

書かないとわからないことがある。
頭の中で考えているだけでは形に、変化に、更新に繋げていけない段階がある。

絵描きが「描くこと」に関しては特にそうだ。


私は情報発信や、自主的な地域密着型の活動で言葉にする機会もあるから、どちらも大事だ。
というか「仕事」だ。
仕事であるから大事なわけではなく、誰にとっても大事なことだ。


仕事と関係なく、書くこと、描くことこそ、大事なことだ。


言葉が迫ってくる。
意味を問いかけてくる。

「発表」という言葉、「発信」という言葉、「表情」という言葉など。
不意に。

単語が不意に私に問いかけてくるのを感じている。


何故いま、私がブログを書いているかというと、話がしたいから。

とりとめのないことや、大事なことを話したいからだ。


そうやって定期的に、話し相手を求めたり、一対一で向き合う時間を求めながら、少なからず人と関わりながら、孤独が思考の手触りを確かめさせてくれる。


もう少し関係を重ねたいなぁ。


人に接する時、誰も、誤解を恐れないでくれたら、とても嬉しい。





2015年7月5日日曜日

今朝の水府



出口はないけどもう扉はひらいてる

I'm happy when I said " I love you." without various biases.

英語わからなーい。
素直とか誠実とか無理しないとかというよりもう少し一歩前に出た、私の気持ち。

誰かのこと、様々なこと、好きだなぁー、とか、素敵だなぁーって、なんのバイアスもかけずに心から思える時、言える時が、一番ハッピーですね。


なかなかないのでこの瞬間にpost




2015年7月4日土曜日

Hikkiおめでとう

http://www.utadahikaru.jp/sp/from-hikki/

1年前の、宇多田ヒカルの結婚の際のメディアに対する言葉がとても素敵だなと思ったし、色んな彼女の人生や歌を思い起こしては本当に素晴らしいってわりと毎日毎日、感じてた。
なんとなくまたその結婚の記事見ようと思ったら1年ぶりの更新が!!
見てみて!!これを読んでる誰ともわからない人たち、見て!!


嬉しいこと2つ、嬉しい反面、何も作ること築くことができていない自分に歯がゆさを感じる。

反、解、釈!これおまじない。



2015年7月1日水曜日

………just me.

時々ふと思い出す人たちに会いたいなーと思いつつ、自分の心の内を静かに読んで噛み締め、眠る。

lostの感情は大切だな。
忘れても残るのがlost、そんな気がする。

Brightness.







最近の絵 2015.6

「未知こぼれる」2014年10月に描いた絵を2015年6月初めに更新した作品。



常陸太田市役所での展示風景。
俳句や制作中の絵本の絵の一部も展示。





常陸太田市を題材にした、クレヨンが旅する物語。絵本制作。




三ノ輪のundo 読むこと書くこと

ブログを書く意味を見出したので書く。
フェイスブックに書こうとしたけどいいねが付いたりするのがなんか億劫なことをここに書けばいいんだ。

undoというスペースが三ノ輪にあり、何度か来ている。とてもいいスペース。
日曜日、新宿で打ち合わせをしたのち、ここで2つの打ち合わせをした。
主催の1人の川村さんがまた素敵な人だ。主に吉原周辺で会う。とても好きな人だ。
アートとかの話をしていたら、川村さんは自分のやっていることについて翻訳という言葉を使って説明してた。
読むこと、書くこと、翻訳。
とても重要なワードだった。
それ!と思って川村さんの肩をすりすりさすった。

ずっとまだ、うまく言葉にはできない。

うつりこむ川村さん(てか よーこりん)

彼女のこともまだ私には説明ができない。でも大好きで、嬉しい。

私のような、小さい頃から絵が好きでいつのまにか芸術高校、芸術大学と進む人間もいるけど、私は途中からアート的なものへの方向へ導かれて来た人たちにリスペクトを抱いているし、自分と異なる何かを感じている。
もちろん源流はそれぞれの幼少期からあるんだと思うけど、私は常に美術教育のど真ん中のみを歩いてきた気がするから。
そして自分の主観性の強さ、我の強さもあいまって。

今の私には客観性が必要だ。
そうでありながら、自分の創作活動に専念することが必要だ。

色んな外の息吹。私に未知の主体を与えてくれる。




壁が山に見えた。ここから新たな発想が芽生える。