2014年9月25日木曜日

熱と低気圧



自分に悩みがあることに気付いた。
1 心の温度の低さ。
2 タダ飯を食っているような気持ち。

人に感情を出せない。
本当の気持ちを言えない。
素直な態度で接することができない。
熱くなれなくて冷めてる。
どうしたどうした。
何が足りない。

地域での取組みもアーティストとしての成長も、すぐに成果が見えるものじゃない。

モヤモヤすることが多い生活をしている。
何か、自分だけで立っていない感、ちょっとした不和。
そういう感じのとき、自分を戒める、自分に言い聞かせる、ゆがんでいるぞ、「物の見方が」って。

いつもいつも主観的。
ひと呼吸どころか、ふた呼吸くらいおいて、ようやく客観的な捉え方ができ、自分に言い聞かせることができる。

なんで、大切な人と、どうでもいい人がいるんだ。
どうして、それが自分の都合で変化するんだ。
なんで平等に対等に全ての人に優しく、素直に接することができないのだ。
全ての人を大切にしたいのに、なんで自分のことすら大切にできないのだ。



なんとなく思考も少しずつ大人になってきて手に入れた能力は「諦める」こと。
いろいろ、考えないようにしたり、考え方を変えたり、もう諦める。
諦めてたらなんとなくいろいろ、感情が薄れる。
人を区別する見方をする。誰の気持ちもわからないし、わかりたくないし、わかろうとも思えなくなる。すべてがどうでもいい。


アーティストとしても社会人としても人間としても中途半端、事業も関係性も途上だから焦ってるんだな。


誰かが言う。正しいことを。
私は思う。「それ知ってる」。
「それはわかりきったことだろ」とは言わない。
「でもそこにはこういう裏があるじゃないか、読み取れよ」とも言わない。

考えたフリ、知ってるフリ、わかっているから何もしない、フリ。

みたいに思える。

自分は、頭で考えただけだと、だめなんだ。
なんでも言わなきゃ、伝えなきゃ、だめなんだ。

これは私の真面目なところかもしれない。良い意味でも悪い意味でも。

私が目指していることには形がない。見本もない。
ルールもない。自由でも、不自由でもない。
だから判断しなきゃならない。選ばなきゃならない。色んな場面で。


最近読書欲、研究欲が増している。
寒くなってくるし、冬場はなるべく読書やデスクワークで過ごしたい。
小さな絵を描きためたり。やりたいことを書きためたり。

でも、そんな弱気ではいられないよ。
もっと寒い思いをして、それも乗り越えて、活動している同志がいるんだから。


心強い、大切な人ってのは、きまって、
自分が弱っている瞬間に心に現われる。
誰が大切なのか、それですぐにわかる。

そして現われるたびに「ありがとう」って思う。
生きてると少しずつ、そういう人が増えていくね。

ああ。エゴを捨てたい。


今日は今日で沢山の気付きがあったんだ。
岡崎乾二郎の「ジャクソン・ポロック再考」を読んだりして。
高かった。ART TRANCE PRESSのほうが高いけど、そっち買えばよかった。

でもどうせ読まないと思って、我慢する。これだけ、じっくりじっくり、何度も読もう。


明日は楽しみにしていた月に一度の会議的なやつ。

ともみはあれが好きだ。会議とか。好きなんだわ。


ああ、文章まとまらなかったから、めっちゃモヤっとする!!


朝早いんだから寝よう。

最近お布団はいるとめっちゃウキウキします。

2014年9月22日月曜日

私の疑問

表面の言葉や行為がにがて。
逆に何もかも包み隠さずオープンで素直で純粋な人は、とびきり偉大で凄くて感心する。そうであるということは、その分自分の内面と向き合っている証拠だしね。
とても偉いと思う、というか、私はそういう人間を目指しているから。
でもそんな人なかなかいない。

私がすきなのは「散歩」
風景とも相手とも会話ができる。自分の心とも体とも会話できるから。
全方向から光が射して透明に広がれるような、そんな心地というか〜
自分の特質に合ってるんだろうな
観察して分析するのが好きってところ
空に向かって喋るってところ

誰かに向けて話すのはとても緊張するけど
空に向かって話すとリラックスできる。


そうだ。私、人と分かり合えないことを受け入れるべきなんだ。
そうでないと、相手も自分も、許すことができないままだから。
それじゃいつまでも忘れられないから。
もう心にも、視界にも、一生映らないでほしいのは
その濁った関係性だから。

この葛藤を解くのは未来の恋人とかじゃなく、今の私なんだろうな。

絵画の在りか展を観て

18日、合間をぬって初台のオペラシティのアートギャラリーで行われている「絵画の在りか」展に行ってきた。

展覧会というのはそれぞれの作家のストーリー、作品のストーリーから大きなストーリーを組み立てるスペースだ。
展覧会自体のストーリー。そして立ち並ぶ作品たちのストーリー。そして作家自身のストーリー。
そういう3つくらいの視点を今は冷静に持つことができる。
これで展覧会を以前より楽しめるようになった。
最近、色んなことがわかるようになってきたなあ。
その分、わからないことへのワクワクの強さが際立つ。
さいこーだぜ。

何よりも「体験」だ!

そんで色々思ったのだ

ってここまで書いて放置していたこの投稿。
長くて厄介だったんだ。まとめるのが。まとまらない。


絵描きは色んなものの表面を、表面に描くのが基本。
木の葉、表と裏、どっちにしろ外側から見えるもの。見えている表面の他方に向いた側面を描く。立体感を描く。
何もかもが、多重の側面で、多重の表面で構成されている。
絵画も平面で、現実も平面なんじゃないかと思った。
逆転の発想だ。
多重の平面が、この立体的な世界を作りだしている。
それをさらに平面の1つの側面へと写す。それが描くこと。


イメージは湧いているけど言葉がどこかに消えてしまったかもしれない。
もうすこし早く言語化するべきだった。そしてもっと掘り下げないと。


とにかく今は、眠い人は明日にそなえて寝るべきだ。


色んなことを言語化したい。

分かり合えないことのすばらしさ

自分ちの駐車場で横転した。
両ひざから血が出た。
あほな感じだった。エンジン切らないまま降りて手で押したらグーンと前に走り出してしまった。
軽い事故でも、音は本格的だし、傷も痛い。生傷に絆創膏、小学生の時のよう。
原付は重たいから、横転した原付を起こすのが大変だった。
眠気と疲れだ。これが油断だ。
道路でなくてよかった。庭先でよかった。みやたさんの車に突っ込んだりしなくてよかった。コンクリートに一本、線ができた。
ふー。
とにかく今後はより気をつけます。メンテナンスとね、誤操作しないこととね、注意することね。

確実に「眠気」が危険だと実感。
この眠気は昨晩の湯浅政明オールナイト映画イベントの影響だな。
睡眠不足の時は運転しない。睡眠不足にならないようによく寝る。これだ。

イベントはとても素晴らしかった。
観たことあるのが5作中3作。でも面白いから眠れなかった。
湯浅さんの世界はすごいし自分を形づくる成分にとても響く。

作品を観ると「やりたい」「私ならこんなふうに」と思う。
私なら、という気持ちが出る。
私と違うところが見えてくる。自分のイメージが違う方向に湧いてくる。
そしてそれを表に出したくなる。

そこから考えたけど、人と人はやっぱり違うし分かり合うことなんてできないんだろう。
でも作ることは語りかけることであり聞こうとすること。
観ることもそうだと思う。
分かり合えないから会話する。違うから表現する。
分かり合えないから分かり合おうとする。
永遠に同じにはなれないから、受け止めようとするし伝えようとする。
分かり合えないことは悲しいことじゃなくて素晴らしいこと。

2014年9月21日日曜日

人が起こす自然現象

これまでの当たり前が覆ってしまう出来事は、良いことの場合でも、悪いことの場合でも、人生の中で時々起こる。

失って気付くこと、気付いたからこそ失うもの、そこから得るもの…
それを善や悪、正しいか間違いかで判断したくない。


小さな小さな認識と感覚の違いが現象の中には紛れている。
人が起こす自然現象を、私はそのまま感じ取り、まっすぐに受け止めようと思った。

認識のズレ。それ自体も魅力的な現象だ。
人は常に本質を見ることができるわけじゃない。
自我中心で生きているから、少しゆがんだり、モヤがかかったりもするもんだ。なかなか透明になるのは難しいもんだ。




2014年9月20日土曜日

会う

会わなきゃはじまらない
会わなきゃおわれない
「会う」のだいじ。
めぐりあう、出会う、対面することだいじ。
全ては「体験」なのだから。


本当に出会えて良かったと思う人
今日その人にほぼ4ヶ月ぶりに会えた
今生においても、今日に関しても、会えてよかった!

うんうん。


私はなぜこんなに素直な気持ちになれるのだろうと思っていたんだ。
少し悩ましいくらいに、考えていたんだ。
でもやっぱわかったよ。
やっぱそうだったよ。
ブログで以前書いたようなこととおんなじだったよ。
愛なんだね。

2014年9月15日月曜日

2014年9月14日日曜日

WALKING IN THE RHYTHM

fishmansのwalking in the rhythmというアルバムを聴きながら外を歩いてきた。
お勝手から外に出ると途端に黒い自然に覆われる。
すっぽりと覆われる。
空を見ながら歩いているだけで、空という地面を見つめながら歩いている気分になる。
空に着地して地面が揺れる。
地面のような空が、歩いている方向と逆に流れてゆく。

瞬く間に星が2つ流れた。
流れた星の光の跡には1人の内臓と透明の衣服がただよう。
fishmansは色んな記憶を呼び起こす。
亡くなった友達がくれた服を着て、出会った思い出の曲を聴いているから。

星空からはいつもインスピレーションをもらう。
何かと繋がっている感覚をもらう。
暗闇に光があるせいだ。

灯りの少ない田舎ですら、外灯が眩しくて邪魔になる。

3日ほど、風邪で寝込んでいた。
その間中、夢と現のはざまにいた。
私の夢によると、このブログの読者は5人いる。

惚」で検索したら意味に「魅力または呪文によるように影響される」と出て来てその文章が呪文みたいだと思った。

歩く流れ。
歩かざるなかれ。

RHYTHM ギリシア語で「流れ」

いつも愛らしい手紙を受け取る。
葉とか花とか空気とか。毎日違う風とか。そういうの「便り」って言うよね。
お返事を書くよ。そんな気分で絵を描くんだ。

2014年9月10日水曜日

Yogee New Waves

焦がれる
憧れる
キラキラした気持ちを与えてくれる
色んな声が混ざったような1つの音
色んな気持ちを代弁してくれる1つの曲

描くことは観察し、分析し、行動することで対話を試み、そこから知恵を付け、自分から伝わる波動にすることだ。
美意識を表現することはそれぞれの愛の形をしめすことでもある。
世界への愛を。目の前の壁に向き合う拳を。
私という塊に光を透過することがインプット
その光を反射し発光することがアウトプット

またしても恋についてなど考えた。
あの娘はきっと恋をしないと宙ぶらりんになりそうなんだ。
でもそんなことないよ。
恋焦がれる気持ちは、どんな気持ちかな。何に似ているでしょう。
私はYogee New Wavesの音楽を聴いて気付いたよ。
彼らの曲からとても感じる、同じ気持ち。
同じっていうのは 説明が難しいな。
人はみんな同じもので構成されてるけど、全然ちがう。
それはその要素の混ざり方とか、レイヤーの重なり方とかで変わるんだと思う。
でもやっぱり要素は同じなんだと思う。
その要素ってとても根源的なエキスで、心の奥底に源泉があって、ぷるぷる、揺れてるんじゃないかと思う。きっと綺麗なんだろう。
そこに響くのはそのエキスをちゃんと見つめてる表現だと思う。
そして、波動が近ければ近いほど、響きやすいんじゃないかと思う。
Yogeeの音楽はまさにそんな感じがした。
波長が似ているから同じ気持ちって思える。

その同じ気持ちが響き合って「焦がれる」想いを巻き起こすんじゃないだろうか。

草引きは瞑想です


10月に常陸太田市の美術協会による展示に出展する作品を作っている。

昨日と今日で3作描いた。まだぜんぶ、描き途中。同時開催のチャリティー展用なので小さい。
作品てなんなのか。このハートのやつなんなのか。何描くのか。なんで絵描いてるんだっけ。てなった。
そうなっちゃうと迷ってしまう。行き詰まってしまう。

一息ついて先日庭を草引きしたときの乾いた草をゴミ袋に詰める作業をはじめた。
これが1人でやると結構かかるんだな。おっきな袋、4個分になった。


やっとゴミ袋に詰め終わったところで、もう生えはじめている雑草引きにとりかかった。
まったくすごいんだ。雑草は。クローバーちゃんはさ。
根がぎゅうぎゅうにひしめき合って地面にへばりついてる。
なんというネットワークだ。
これは刈り払い機では刈り取れない。手作業でしか摘めない。



越して来たばかりのときは植物を摘むのに抵抗があったけど、私は家を守らなきゃいけない。
最近は家を守っている意識がとても強い。
家は人がいなくなった途端、生気を失う。
人の住む場としての機能がどんどん衰えていく。
虫が入り草が生える。
自然の力はすごいんだ。
住んでいる以上、その自然の力に多少は抗わないといけない。

草引きをしている時、人は無言になる。
絵を描いているときみたい。
一心に地面と向き合う。
草引き、それは瞑想だ。
張り巡らされた根を円滑に取り除いてゆくこの作業には知恵と対話が必要なのだ。
心が鎮まり、思考は深まり、肉体が日常と切り離されていく。

そんなとき心を乱すのが蚊だ。
せっかく神経を集中して瞑想に入っているのに、すかさず邪魔をしてくる。
さながら煩悩である。
かゆい、うるさい、不快な音。ぷうーん。ぷうーん。
しつこくつきまとう煩悩に効果抜群なのは蚊取り線香である。
お香をまとって煩悩を退け、ひたすら瞑想に励む。
これが草引きである。

草引きをしているとき、ほんとに色んなことを考えた。
大事な時間だね。

アートとか絵を描くとか。
作るというのは原始の記憶ではないかと思った。
だって今は家も家具も器も作らず買える。
私は庭を持って初めて草引きを体験したみたいに、マンションの人には草引きは縁遠い。
草引かないから草引きによる瞑想や気付きは体験できない。
そんな感じで沢山の「手仕事」が遠ざかっている。
それは「瞑想」の時間が遠ざかっているってことでもある。
時間に追われて仕事中心に生きなきゃいけないから、離れていく手作業。
その中の1つが「作る」ことじゃないかなと思う。
絵を描くこと、それは当たり前であるべきなのかもしれない。

絵画を中心に生活しないといけないと思っている。
私はとにかく絵を描きまくるためにここにいるのだ。
要するに、それを許される環境なのだ。
全てを絵で表現し、絵で共有し、絵で対話を試みてみよう。
それが私だけの絵画表現になっていくんじゃないかと考える。
私なりのアーティスト・イン・レジデンスにしたい。
アイデア、打ち合わせ、全部絵になってしまうのだ。

ああ。絵が迷いまくっている。辛いぜ。
自我を否定するのも肯定するのも違うんだ。
描いている時は自我にとらわれてちゃ不自由なんだ。

なんで描くんだ。どうやって描くんだ。

友達の絵を思い出す。イラスト描いてる子。
おしゃれな絵を描く。イラストレーションという雑誌を開いてみる。
おしゃれな配置。なんかおしゃれだ。なんでおしゃれなんだろう。
それで気付く。それぞれの美意識や「かっこよさ」を求めて描くとこうなるんだ。
すげーかっこいいの描くぞって思って描いてるんだ。
それがちゃんと突き抜けててオリジナリティを持っているとますますかっこよくなるんだ。
私は何を求めて描いているのだろう。
少なくとも、かっこよさというか、美意識というものの方向は、あのオシャレなイラストレーターたちとは違う気がする。
誰と近いのだろう。と考えてみて、ヒントを探す。
私は誰と親和性が高いのだろう。

誰かに電話をして話したい。
人と話すと、実は整ったりする。
見えてきたりする。
私とはなんなのか、私の口が勝手に喋り出すと思う。

何を描きたいのだ。







2014年9月8日月曜日

呪詛の筆致

土曜日、守谷のアーカスで今年のレジデンスアーティストいらっしゃいパーティーがあった。
夜、小泉明朗さんの2003年の作品映像などを拝見した。
その映像で守谷の子供たちが歌っていた「まっかだな」が頭から離れずに目が覚めて、この日記をしたためている。
面白い作品だった。
前年度のキュレーターの方に「you're welcome.」の発音がよいと褒められた。
しかし褒めてくれた英語が聞き取れなかった。
隣の人が教えてくれた。

日曜日は後輩でお友達の山田愛ちゃんが同学年の3人で結成した「らくだいぬ」の第一回朗読会を3331の3階「日々の明々後日」スペースにて拝見した。
最後の回に遅れてしまい、メンバーの彼氏と私だけのために再演してくれた。
ごめんなさい。ありがとう。

セットが綺麗だった。繊細に張り巡らされた薄い膜。きちんとしていた。
言葉への意識はとても自覚的にあるようだが、声への意識は少し低かったように思えた。
朗読である以上、言葉をのせる声にも「人に伝える」質というのが、技術ともいえるものが必要になる。
わざとの棒読み、わざとの舌ったらずなのかなとは思うんだけど、お客さんに声が届くところまでは質を上げないとならないな。
しかし面白い部分もある。自覚と無自覚の境界のようなところでふわりと浮かぶ言葉。どこにもたどりつけない言葉。スっとお客さんに響く言葉。
お客さんは朗読者3人に囲まれて朗読を聴く形になっているので、3方向から言葉が飛び交っている感覚があった。
面白いな。未熟な部分もちゃんとその空間ににじみ出ていた。
空間と質が一致していることがなんだか面白いな。
ゆるいタイムであった。

面白さはなんにでもあるのだ。
地域おこしもそうだ。教育もそうだ。地域の魅力、子供たちの魅力、それぞれの面白さを見つけ、引っ張り出していく。
そういう部分が楽しいんだ。


5日〜7日は藝祭だったようで、夕方は移動した。
藝祭のフリマで素敵な後輩たちのグッズ販売を拝見した。
これかわいいのう、と言ったらプレゼントしてくれた。
それがなんかずるい気がして申し訳なくて、何故私はお金を置いてこなかったんだ、と今もずるずる引きずっている。
今度、お茶をおごろう。そして、ポストカードなどをプレゼントしよう。
おごれる身か?やはりポストカードだけにしよう。
あの良心的なお値段。次はぜったい買おう。
絵がとてもキレイなんだな。

サンバは最高だった。
芸大生の青春はやはりサンバ。
1年生の時は戸惑った。なんでサンバなの!?とびびった。

今のわたしは永遠に踊っていられる。
あのグルーヴ感はやばい。
サンバ隊は、この祭を盛り上げるのは俺たちだってわかってるからかっこいい。
そしてめっちゃ練習してるからクオリティがめちゃ高い。
サンバ聴くと超楽しくなっちゃう、それが芸大生の共通点ではないかしら。


ひとしきりサンバで遊び、飲み、移動して素敵なメンツで回転寿司食べた。
さんま美味しかった。

都会はいやなことも思い出させるので、少し涙ぐんだ。
何故いやか。
それは覚えているからだ。
恋愛の溝は恋愛にしか埋められないのだろう。しかしその溝は急いで埋めなければならないような致命的な溝ではない。
命はちゃんとまわる。
まわるようでなきゃならないし、まわることで忘れるんだろう。

日常は過去を洗い流し、物事を風化させる。
相手の匂いが消えるまで日常を繰り返さなければならなかった。

命をちゃんとまわす。
反復のエネルギーを筆触にのせて
画面にめぐらせるんだ。

呪詛の筆致は祈りの墨蹟に変えよう。


2014年9月3日水曜日

呼吸はグラデーション

山洋平さんという方の展示を見に行った。
母の陶芸教室に通っている方が展示のお手伝いをしてるからと、母に誘われて行った。
展示会場が見えてきて、透明なガラス越しに絵が見えてきてすぐに「うわ、これいいぞ」とわかった。
どうやら波長や感性が合うらしく、絵が発するものがどんどん言葉で浮かんだ。

ともみは絶対この人を忘れない。
絵からもらったエネルギーを忘れない。
山さんの全てを心に刻んだ。

あの場での出会いの全てがとても不思議で引き寄せ合う力を感じた。
なるほどここでこう出会う運命だったのかと思った。

山さんの展示からふっと湧いたのが「呼吸はグラデーション」という言葉だった。


山さんの絵は、夜は一点から発光していた。宇宙の創生のような。暗闇から生まれた光。
昼間は光を放出して、画廊全体がきらきらに包まれていた。光の中にたたずむ温もり。
光と闇、陽と陰、明と暗、太陽と月、生と死、赤と青、天と地などなどなどなど、対になるもの同士が画面の中でいっぱい描かれていた。
いつも一緒なのね。

to Uの最初の歌詞に「光と影 表と裏 矛盾も無く寄り添ってるよ 私達がこんな風であれたら」というフレーズがある。

愛の奥深さ。山さん自身も絵も、奥深すぎて愛という言葉は出てこなかった。
それは奥にひそみながら、全体に融けていた。
闇と光の関係みたいに。

言葉にすればきりがないというほど言葉が浮かぶ。
私のどこかのスイッチを押されて、どんどん溢れてくる。
ひとみさんに会った時に入るスイッチと同じ。
潜在意識のスイッチだ。

私は絵を描くとき何かが降りて来るタイプだから
いつでも潜在意識が丸出しのタイプだから
スイッチさえ入れば世界はいかようにも見える。
目に見えないものが沢山見える。見えるというのは心の目に映るという意味で、いきなりオバケが見えるとかそういうことではない。

山さんも、ひとみさんの名前も、素敵だ。
ひとみさんは 名前の意味は「瞳」なのに、字は「仁美」だった。
目という意味を持ちながら、字は「美しい魂」という意味じゃないか。
あるいは「優しい心」でもいい。「美しい心を持った人」という感じ。
心の目と、肉体の目が繋がっている。そんな感じのいい名前だ。

いい名前の人ばかり。
みんな名前をちゃんと受け止めて生きているところが素敵だ。
名前は呪いじゃない。祈りだ。

山さんの絵は祈りとまじないだった。
ちゃんと▲があって、それは家だと思った。
拠り所がちゃんとある。
飛び出してもちゃんと戻るところを描いてる。
優しくて優しくてたまらない。

そして私は、色んなことを慧くんと結びつけて考えてしまう。

山さんはフランス人(多分)の方と結婚してフランスに住んでる。
5月にお子さんが生まれたらしく、その名前がすごかった。
「ルアプカシ」
アイヌ語で、意味は ルが「道」アプカシは「歩く」
道を歩くという名前。
(ルーアプカシかもしれない。むずかしい)
山さんはなんかその流れで、「旅だ」って言ってた。
何が、なのか、忘れたけど「旅だ」って言葉がとても強くのこってる。

今までの私は、旅なんて、煩悩の1つだと思って少し馬鹿にしていた。
自分探しとか、温泉とか、牡蠣とか。本気で求めてないだろって思ってた。
こうして「旅」を自分の思考から追い出していたけど最近変わってきた。
身近な友達が移住を生活するという活動をしていて、家を背負って歩いて日本をめぐっていることが大きなきっかけだった。
彼がヒタチオオタに寄ったことでかなりかなりかなりそれが自分の身近なことになった。
それまでとは全然違うものになった。
もっともっともっと遠くから、「さとしがんばれ」「さとしすごいな」と思ってみてたのに話してみたらとっても共感して、そしてやはりすごいなと思ったり、感心して。
こんなにアートのことすんなり話せたの、はじめてだったんだ!
それは私にとってちょーーすごいこと
ちょーーーすごいこと
だった

今、アートの話、けっこう色んな人と話せる。
それもすっっっごい不思議だ。今までできなかったのに。すごく嬉しい。
でも慧くんは同じ感覚というか、波というか、空気を少し感じて、それがまたとてつもなく嬉しかった。

これが山さんにもあった。もしこの感覚を第七感(慧覚)と名付けるのならば、山さんにもこの第七感を感じたのだ。

めっっちゃ嬉しい!!

なんか話がとってもずれてしまったけど、歩くとか、旅とか、そういうことの凄さ、強さ、面白さ、ものすごくものすごく感じる日々の中で、山さんの子供の名前が道を歩くって名前だったことがものすごくて。

しかもしかもしかも私の小学校からの唯一の親友の名前は「歩音」なんだよ。

しかもしかもしかもこの前スバラシイ「サカキマンゴー」さんのライブの時に見えたビジョンがさ、子供に「足歩」って名付けるというものだったんだよ。そんな予言みたいなビジョンみたんだよ。ビジョンみるって、ただ知覚したってことだよ。目の前に見えるわけじゃないよ何度も言ってるけど。


旅への感覚が超変わったんだ。
人は旅が大好きなんだな。
人は何故えがくのか。と同時に
人はなぜ旅にでるのか。だと思うよ。

そして私ぜったい旅しなきゃと思ったんだよね。

私は1人で、歩いて、知らない土地にいったことがない。
私がもしそんなことしたら、私、私、私、私、ものすごい心がとけて、地面とつながって、日本全体を知覚してしまう気がした。

東京では人混みの中でいくら歌っても誰も気にしないから歌ったりする。
地元では人がいてもいなくても自分の庭だから踊りながら歩いたりする。

それが別の見知らぬ土地でもできてしまう感じ。
そんな感じがする。

ここ最近の興奮を言葉にするのが難しい。
冷静にはまだなれない。
冷静になると恥ずかしくなる気がする。

毎日「愛!」って思ってる

大海原のような人とか、風のような人とか・・・
なんでそんな人がこの世の中にいるんだい
しあわせ

またブログに神経と能力を使ってしまった・・・。

明日がんばれるかな。ブログに書かないとおさまらない気持ちを書くと今度はエネルギー消耗するんだよな。

いや、これを糧に。

ブログより会話がしたいね。いつも思うことだけど。


ああ。ほんとに山さんありがとう。








一番すてきだと思った絵の写真は撮れてない。
全部載せたいけど多いので出し惜しみする。