2016年10月26日水曜日

心の宇宙とこの世の広がりと目に見えない深い銀河

浅草・千束にある吉原弁財天。
遊女の供養と弁財天への祈りを壁画として奉納します。
怒り、苦しみ、嫉妬、負けん気、報われない死、きっと色んな情念が渦巻いているあの場所。
私も知らぬ間に巻き込まれて、干渉されているような日々の中。
タイトルを「愛の供養」にしました。
過去の自分を振り返ると、恋人に愛を押し付けたこともあるし、家庭のある男性に愛を押しつけられたこともある。
愛って万能じゃないし、愛ってすごく暴力的だし、愛ゆえに、人はその重さで傷ついてしまう。
そんな、不完全な愛たち。かなわなかった愛たちは、暴力的だけど、やっぱり強いエネルギーを持っていて、ピュアな気持ちも多分に含まれている。
だから、私はそんな不完全な愛を否定をしないし、受け止められないものもあるけど、許したい。
人の愛も、罪も、暴力も、悲しい出来事も否定せず、許したい。

遊女をかわいそうに、かわいそうにと言うだけじゃなくて
もうしがみつくのをやめて、忘れないから、絶対忘れないからここにとどまらなくていいんだよ、変わっていいんだよと伝えたい。

いろんな形の情念を、人はやたら「愛」って言って正当化しようとする。
いいよいいよ。それでもいいよ。
私たちは銀河の1つぶだよ。

そんな意味をこめて、「愛の供養」というタイトルにしました。

https://youtu.be/4OwfY-zcnq8?t=4m4s

関連したらくがきは下にあります。

愛の供養

 





人間の欲にさいなまれる

あぁ、私は自我や承認欲求を消したいと思っているのに
作品を発表するということは
認められたい、愛されたい、誰かと繋がりたいという欲望ではないのかね

でもね、表現しなかったら絶対死んじゃうんだ。
様々な煩悩や観念を乗り越えるために
目に見えないエネルギーと対話するために
私は表現をするんだよ。

2016年10月23日日曜日

あったかい牛乳

https://youtu.be/QbmLx727aAI

遊歩道

奇蹟

https://youtu.be/dwWiXVT99bQ

涙に温度があるように
心からこぼれ出す感情にも温度がある。
悲しくても、辛くても、苦しくても、そこには温度がある。


人と共有できない遊びを
人と共有できない孤独を
抱きしめるように
あたためるように

寄り添うだけの時間


勇気を与えるのは自分の心

私は私を大切にする。
聞こえない声に色を与えて、表現する。


今年もやるぞ 吉原芸術大サービス 2016


私はおなじみの吉原弁財天に壁画を書き足しています。
吉原さんと私のフリースタイルバトル(?)楽しんでください。 
華やかだけど重たい歴史を持つ、芸術と文化の発信地「新吉原」
遊女と真剣に遊びます。

>>>>>> 吉原芸術大サービス 2016 <<<<<<
今年もやります!
現代アートと伝統芸能のお祭り、4回目!

秋の吉原へおいでください。お待ちしています!
〈開催概要〉
吉原芸術大サービス 2016
日程:10月29日(土)・30日(日)11:00~18:00
会場:吉原神社、吉原弁財天 ほか
吉原界隈(台東区千束3丁目・4丁目周辺)

〈参加アーティスト〉
大井健司
オートモアイ
岸井大輔
きむらとしろうじんじん
熊倉涼子
山山山
田上碧
茶番組合(Chaban-Guild)
津田翔平
舞踊ユニット「てんつく」
濵田明李
林友深
マーマレードボーイ
村上慧
宮澤やすみ
渡辺俊介

〈公式サイト〉
パフォーマンスやイベント情報などは随時発表!
詳しくはこちらから。
http://yoshiwara-artsuperservice.com/

週末は吉原弁財天で制作中

すぐ知った気になり、わかった気になり、全てをコントロールできてる感覚に陥る。絶好調の瞬間は実体を離れフワフワしてるのかもしれない。
常に疑い、常に奥深くまで探る。
嘘も抜かりもないというくらい突っ込んで、彷徨い歩いて、線が迷って迷ってまったく未知の筆致を生む。

自分の作品というか、アートというか、遊女たちの歴史に、因果に、悲しみに寄り添いたいという一心。

私が他の誰よりも遊女を想い、弁天様に祈りを捧げようという情熱。

吉原芸術大サービスで一番すごい作品にしてやる、と思って挑んでるけど、なかなか難しい。あー難しい。

やたら色っぽくて下着っぽい絵になる。
いい絵が描けたら神様に会える気がする。





縁とルーツ

渡辺真也さんの「ユーラシアを探して」を観て、宮本常一の「民俗のふるさと」を読みながら浮かんだ最近のキーワード。


2016年10月7日金曜日

娯楽が飽和する世の中で

「楽しむ」「遊ぶ」
それは、本来の自分を思い出す行動なんだろう。

「筆の遊び(すさび)」ということばがある。
ここでいう「遊び」は人知を超えた自由でためらいのない筆致を指している。
私が描いたものではなく、きっと人間でも物質でもない頃の、原初の記憶が描いたものだ。
芸術は自己表現ではない。
芸人は人間ではなく、その延長にあるもう一つの世界の声を届ける「間の人」なのだ。

昔、芸能者の階級は非人と呼ばれていた。もともとは「非人」に差別的な意味はなく、仏教の用語だったらしい。
wikipediaより抜粋↓

非人という言葉は仏教に由来するとも言われ、『法華経』「提婆品」などにこの単語が見られる。しかし、そこでは差別的な含蓄は一切なく、単に比丘比丘尼などの人間(mānuṣa)に対してそれ以外の者(amānuṣa)、具体的には釈迦如来眷属である天人といった八部衆を指す言葉として用いられている。日本では平安時代橘逸勢842年(承和9年)に反逆罪に問われ、官位を剥奪されて「非人」の姓を天皇から与えられたのが文献上の初例とされる[2]


芸能者は人を楽しませたり、娯楽を提供する。彼ら自身ももともとは「遊び」や「楽しさ」がきっかけで芸に目覚めるのだろう。
しかし、その追求の先にあるのは苦しみと向き合う鍛錬であり、自らに問い続ける修行だ。

現代は娯楽があまりにもたくさんあって、安易に「遊び」が消費されやすい。
「遊び」という言葉のランクも、「仕事」より下に思われやすい。仕事は立派だけど、遊びは低俗だったり、気を紛らわせるものとされてしまう。

現代では「遊び」自体が劣化してるようにも思える。

先日の個展のタイトルを決める際、最後まで「在りの遊び」と迷っていた。
ことば自体はそんなに前向きな意味ではないようだが、この頃「遊び」がとてもとても重要に感じていて、悩んだ。

「遊び」は「余白」という意味も持っている。
線も、音も、遊びがないと、余白がないと、伸びることも縮むこともできない。なにもない空間が人間には必要なんだ。

いろんな単語を調べると仏教や信仰に繋がる。

私は仏教を、やっぱり、信じているんだろうな。学問だといいつつも、そこに希望を感じてる。
仏教というか、仏性の存在を信じてる。
帰依はできているかわからない。
でも、自分よりさらに奥にあるメッセージを伝えたいと思ってる。それは仏性のことだと思う。無我の境地、悟りの境地。光そのもの。
自我に悩まされながら……




2016年10月6日木曜日

全感覚でビタミン補給

気圧の変化に翻弄されています。めまいが。まだまだ未熟だなと思うことばかりです。なんだか今日は「あーみんな愛してるよー!」という気分です。風邪をひいていましたが、寝ながら好きな本をパラパラめくって過ごしていました。
くるり聴きながらお日様の光を浴びてるとビタミン補給できます。すごいいい天気!よっしゃあー!
最近は南方熊楠にハマっていて、南方熊楠の随筆や土宜法竜との往復書簡を読んだり、水木しげるの「猫楠」という漫画を読んだりしています。
私は顕教より密教が好きです。曼荼羅はもっぱらチベットの極彩色のものが好きです。私にとって宗教は学問です。信じる、信じないというより、自分の声に素直になるだけです。
嘘は直観を濁すのでなるべく正直に生きよう!
最近の課題は、本気で、丁寧に仕事する。です。あとは自分は先生じゃなくて芸術家だと思うほうが生徒たちの表現に敏感になれる気がします。先生だ!と思っちゃうと、ルールを守らなきゃ、学校休んじゃダメ、みたいなことに縛られはじめるからです。自分で考えて、自分の言葉で話すことが一番大事。みんなの本音を拾えるよう頑張る。


2016年10月1日土曜日

どこも井の中

へとへとで作品持っての満員電車はきつい…
満員電車に乗る人にはそれぞれの理由がある。
それを甘えとかリスク予測して防げとか言えない。
なんでこんなにぎゅうぎゅうで乗るのよ!と思いながらも、自分の体積が人に圧を与えている。
私は作品持ってるんだ!渋滞で電車が遅れたんだ!体調が悪いんだ!リュックがずり落ちた!目の前のおじさんに胸が当たるのを防ぎたいので猫背になるせいだ!おじさんから熱い香りが漂ってくる。そんなに押したら、作品が折れちゃうよ!うわーーーんうわーーーーーーん

しくしく

へとへと


でも話したらいい人たちなんだろうなぁ。
誰も悪くないのに、みんなが嫌な気分になる満員電車ってほんと辛いよね。

水戸からの帰りだからこそ、この温度差がすごい。
譲り合ったり、微笑みかけたり、相手を気遣う距離を保てないくらいぎゅうぎゅう詰めで内向きな関係。
切なくて悲しい。
みんなのポテンシャルをいかせない距離感。



空気、時間、自然、季節、調和、健全


これが足りない。

どこにいってもそこは井の中。
誰もが蛙に見えてしまう私は彼らの心の大海を知らず。