2020年5月26日火曜日

草に水

楽しい時間を自分の中に抱きしめて、こっそりと楽しむ感覚。

似ているのは、
昼間に寝転んだ布団の感触とか、
自分とぬいぐるみが育んできた時間と匂いの交わりとか。

嬉しいなって気持ちと、新鮮さと、感動と、居心地のよさと、懐かしさと、ありがたさ。
今までめっちゃ窮屈だったものがほどけたよ。
ありがとう。

1月からの私のキーワードは秘密、かくすこと、心の中にしまっておくこと、言葉にできないものをしっかりと受け止めること。
最近はなんでもかんでも出来事をぺらぺら喋って消費しちゃわずに、よく噛んでよく噛んで噛み締めて、幸せ〜な気持ちをいろんな感覚器官で味わって、最終的に絵に込めていくことが人生なのだ。

秘密が必要だ。余韻が必要だ。
余白の中に自分だけの核心が隠れているんだ。

夜中の楽しいひとときは、自分たちだけが知ってる秘密の花園みたいな感じだった。

家にこもって一人で散歩して家族とだけ話をして絵を描いて仕事を時々ちょっとだけしている時間は自分がいつもどんなことを感じているのかをひとつひとつ思い出したり、確かめる機会になっていた。

自分しかいないから、単なる自分の気持ちというよりも、他者が一切ない空間における私、たったひとりの私の気持ちっていう感じ。
今日はそこから展開があった。
その気持ち、人肌の温度、心地みたいなもの、自分だけで感じていた肌感覚が人に伝わっていくのを味わったんのだ。


たくさんの人に共有される言葉をつい疑ったり抗ったりしたくなる。
言葉の上べで繋がろうとしても本当には繋がれない。
つながったのは、自分にとってはなんだったろう?

私は友達の愛情を素直に感じとり、嬉しくなった。
自分の気持ちを伝えるとか伝えなきゃとか伝わってるかな、じゃなくて、伝わっているものが伝わっているなっていう肌感覚。
なんともいえないバランスの時間を穏やかに享受した。

友達と話すのが新鮮。
絵を描きながら喋るのが最高。
新しい出会い。
人が描いている絵をみるのが好きなのね。
感性がにじみでる人間性も好きなのね。
素直さ、純粋さ、優しさ、熱さがなんかにじみでちゃう人って魅力的なの。
ていうかものすごいみんな魅力的だなって思ったし
そう思えた自分も、閉じてないじゃん、よかったって思った

なんだかこれ人に見られると恥ずかしいかも

絵を描くことも好きだし友達も好きだ
友達と超いい時間をすごせてハッピーだ

どんどんおばかになってきたぞ
多分さっきまでクラムボン聴いてたけど今無音だからだ

誰かの横槍で壊されるものにしたくないから、あえてペラペラ人に話したくないなって私は思う。
でもブログにはかく。
これは緊急事態だからこそ噛み締められるのかもしれないし、書き残したいのだ。
stay homeとかいうのもあれなんですけどね。みんなと同じ言葉使いたくないっていう。


私は自粛生活で得たものが確かにあるな。


ちなみに今日は記念日なのだ。

夜更かしの林 3:33

いい絵は「描く」ものじゃなくて「なる」ものなのかもしれないぞ


いつもの夜更かしとは違う夜

遠足みたいだな

パレットと汚れた水とかぴかぴのグレープフルーツと濡れた筆が目の前にあって
絵が机に立てかけてある

林小林林小林
最後は林小林林
林林小林
小林林林

友達と喋りながらいっしょに絵描いた
もうねむくてなんもかけないけど
高校生の頃ってクラスメイト全員絵を描く人だったよなって思い出して
絵を描く人に囲まれて一緒に絵を描く状況っていうのは私の懐かしい情景の1つなんだなって原体験の1つなのかなって思い出したよ。
嬉しいなこんな純粋にお絵かきして互いの絵を慶びあって

こんなに素直に話せたのはだいぶ久しぶりだ
なんでかってのは わかってるけど頭が動かないので夢の中で

嬉しい変化を書き留めて次また同じところでつまづいても歩けるようにしときたいな

楽しいな〜〜

優しいな〜〜

あずさちゃんはいつもこういうのを楽しんでたのね。これはリア充と言って間違いない!

2020年5月6日水曜日

5.6 雷

人の考えたアイデア(課題)を享受することって結局自分と他人のズレを認識する機会なんだなって思った。そういう意味でクリエイティヴな面はある。
授業をうける機会も減ったけど。

人から人への伝達っていろんな形があって興味深いな。
授業とか。会話とか。作品とか。読書とか。


学問研究とか、勉強とは、またちょっと違う軸の話。

違和感を拾い上げる

世の中でよいとされているものに惑わされない感覚を持つと、おのずと自分らしさが浮きがってくる。

子供の頃に体験した
ロウでバラのキャンドルを作ろうとか、起き上がり小法師を作ろうとか、楽しいワークショップのあとの充実感とわくわく感と、そして違和感を思い出す
できあがったものに納得できない感覚、完成に到達できてない感覚
そりゃそうなんだ。ワークショップで出会う素材と向き合う時間は短いし。

いろんなことを教わっても自分の作品じゃないという感覚
自分が作り出したものなんだけど、先生のように洗練されていないし、なんかイメージと違って物足りない感覚
この感覚を1回きりで終わらせてはいけないのだと思った。
ここからのステップのほうが、より一層豊かなワークショップが待っているんじゃないかと思う。

だから、自分が講座なり授業なり、単発の企画なりをやるときは、「先生と一緒に作ってみた」の「その先」を用意したいなと思った。
これは、お膳立てをするということではなくて
「やってみた」からの展開を作家は想像することができるだろう、という気概のこと。
「わたしがつくったんだ」という実感へと近づくための、企画の想像力のこと

作家がすべきことは1回だけの楽しいイベントなのだろうか。
これは連続していくべきなんじゃないか。
作家の観察眼で、生徒のモチベーションや主体性と向かい合い、別の次元に一緒に歩み出すことができた瞬間の楽しさは最上のもの。
なんか、思ったのとは違うけど、これは大変なことだね笑
とか、本人も笑っちゃう楽しい世界
二人で一緒に歩む世界

自分なりに、作家としての企画との向き合い方を考え直してみる。

2020年5月5日火曜日

kotoba wo nokosu syoudou

日記を書くことで定着する記憶、忘れてしまっても外部に記録する装置になる日記

言語化することには様々なあり方がある
わかりやすく説明するためのもの
目に見えない感覚を省みて検証するためのもの
思いを言葉として刻みつけることによってより強く心に定着させるためのもの
誰かに心のうちをさらけ出すためのもの

言葉は嘘になってしまうことも、高まってしまうことも、縛り付けられることもある

私は何かを積極的に肯定しながら、省察の余地を残すために言語化を試みる

絵を描くことは何を意味するのだろう
絵を描くときにはまた、いろんなテンションがあって
最初は違うんだけど、途中からどこか懐かしい獣道を駆け回るような感覚に戻っていく


意味は社会的なものになってもいいし、個人的なものでもいいと思う
意味自体に意味があったらそれはもしかしたら意味じゃないかもしれない

湖の波紋が地面にたどり着いた途端に消えるとは限らないんじゃないか

これを読んで、私はこのときの自分を思い出すだろうか?
多分思い出さない。

ほこりっぽくて敬遠していた作業場を使い始めて2週間か3週間になる。
暇だから毎日絵を描くことができる。
何かに急かされることのない時間がものすごい癒しだ、そして活力だ。
活力だけど、怠惰だ。ごろごろと、めきめきが、ともにある。
どちらかではなくて、両方ある日々。
いいのかわるいのかまじめに考えるとだめな気がしてしまうけど
今はこれが私にとって支えになっているし、喜びになっている

好きな絵を描くこと
好きな絵
好きっていう気持ち
描きたいっていう気持ち
他人にうける、うけないじゃなくて、のめりこむ感覚。


久々に長居している作業場の本棚から、そういえばこれなんだっけと手にとったファイルには映画のチラシがファイリングされていて
お母さんとよく映画を観ていたことを思い出した。

お母さんだって、映画が好きだったのだ。

今のうち、母とたくさん映画を観たいな。