2014年6月28日土曜日

大自然と人工物と私


19:00でもこんなに明るい。


家の跡地に点々とフサフサ草。
これを触ってみたら、触り心地も思った通りフサフサだった。


経年劣化


アートは人の営みの中に宿るもの
人を介してはじめて生まれるもの
だから人がいればそこにアートはある
切り離せないもの
何故人は絵を描くのか
も気になるけど
絵を描く人たちそれぞれの心の中のほうが気になるな。
自分に自信のない私は自分をかなり低めに見積もって、いつもデコボコに物を見てる。
絵を描くことで、静かに真っ平らに自分と自分のいる場が繋がる気がする。



今日はこの景色を描いた。
私は細かいとこに目がいく。
細かいの全部描こうとする。
そういうのがいつも作品に出てるんだな。
全部くまなく全て描きたい

でも絵画表現で一つの画面に全部描こうとするのは集中力散漫で良くない。

思考も構造物、心だって重力がある。
それを反転させたり、無重力にするにはより不自然な力が必要になる。

自然に生きることってなんなのだろう。
私にとっての自然って。

自然淘汰とゆう言葉がある。
自然は厳しい。
人の理想と自然の姿は相反する。

自然現象は輪廻の中の出来事。
達磨大師みたいに座禅し続けて手足なくなって丸くなるとか、不自然なこと。そうゆうことしないと解脱はできない。

どこまでも不自然な力の向きで
現実を掘り起こす

それがアーティストの自然の姿なのかな。

2014年6月26日木曜日

草と木のパラダイス 金砂郷




これが金砂郷の赤土町という場所。いい場所だなあ。
草がぼーぼー
山が近くて、目の前でふさふさ揺れるのを見るのが楽しい。
人がぽてん ぽてん と点在してて でっかい自然に囲まれてぽつん
ふさふさ それが良い感じ。

2014年6月22日日曜日

ひとこきゅう

やっぱり本調子じゃない。珈琲で動悸がひどい。

一ヶ月に一度、一泊か二泊くらいしか戻れなかった実家。
今回は五泊。良いのか悪いのかわからない。空気読めてるのか不安になる。
でもほんと大事なこと沢山はっけんした日々で必要な期間だった。
陶芸やって、美術館行って、大好きな友達と会って、都市の生活空間を歩いて。
心の故郷たくさんあることを再確認した。
私はここで26年生きてきたんだもんな。

アトリエ来客用の珈琲カップなどを制作。これはサプライズのつもりだから誰にも言ってない。




私の隙間にすぽっとはまるような感情、いつか見つかるのかもしれないし、見つからないのかもしれない。



2014年6月16日月曜日

昨日と今日の日記






病み上がりで節々痛い。
コーヒーでもう数時間、動悸が苦しい。
自律神経のバランスが崩れているのかな。病み上がりの影響かもしれない。
二日酔いでバクバクするみたいに、病み上がりでハードだったからバクバクしてるのかもしれない。
涙がぼろぼろ出るのもそういった理由かもしれない。

満月を期に切り替わった。
6月の半ばを過ぎて、切り替わった。
一昨日は完全に床に臥していたけど、昨日は朝から晩まで活動し
本日もなんだかんだで、朝から晩まで活動しているう!
気持ち良いのは心だけで・・・
体はまだ本調子じゃない。心身のバランスをとることが大事なので、ちょっとはゆったり過ごさないといけない。

そしてコツコツ痩せよう。引き締めよう。すでに、5月よりはマシだと思います。


昨日のこと。
昨日は朝から昼までこども会でグラスデコのワークショップだった。
朝、市の方がお迎えに来てくださった。
そのときにちょうどお隣のひろしさんが通りかかり、「おう、今日、庭の草刈っといてやっから!」と言ってくださる。
まず話しかけられるだけで嬉しい。小柄なのにたくましく、かわいいのに渋い男気のあるひろしさんだから。
ありがとございます!と言って、仕事にでかけた。
(お隣さんは旦那さんと奥さんが登場するので、ブログでは苗字じゃなく名前で区別しています)

こども会は34人のこどもがいるが、そのうちの31人が来てくれた。
親と幼児を含め60人近く来てくれた。みんなでグラスデコやり、昼は流しうどんを食べた。
そのワークショップの反省。
アーティストなのだから、もう一歩先にいけただろうということ。
一回目で大人数でまだ画材がどれくらい必要かも未知数だったのでさぐりさぐりになるのは仕方ないけど、それをふまえても工夫のできる部分はあった。
同じサイズのシートであっても、小さい絵を沢山描くのか、大きな1つの絵を描くのかというのでも変化があるし、色を選ぶ楽しさや画面に表れる現象に揺さぶられるワクワク感を、より意識的に感じてもらうことができたはず。
また、せっかく私がアーティストとしてグラスデコで作品制作を行って来ているんだから、その作品をどかーんと見せてあげられたらよかった。
なんじゃこりゃあああああって、なっただろうし、子供受けがいいのは知っているから。
次はもっと大胆に。そしてもっともっと自分に自信を持ち、もっと客観的に自身の面白い部分見つけて引きだして、提示してトライ!一緒にどこまでいけるか試そうぜ!って言える。絶対言える。
悔しい。
子供たちのパワーや気持ちもいろんな有様があり、それぞれの姿勢があり、そういうのも目の当たりにできていい機会になった。

最近ずっと自分の作品制作で葛藤していて、自信も無くしていて、自分の良さもこれからどう作品展開してくかもモヤモヤして全然作品作りたくなかったし作っても楽しくなかったし胃腸炎で上から下からげーげーだったしフラフラだった。そんな精神状態と体調だったんだけど、ワークショップやって、ワークショップの反省してるうちに自分についても客観的にポジティブに今後どうすべきか考えられるようになって。
ワークショップの出来映えで言ったら、講師の私はかなり改善点も工夫のしがいもあった。しかし第一歩目のトライとしていっぱい学ぶことがあり、次に繋げられることがあり、やってよかったと思う。
前向きに反省しています。そういう姿勢は大事。

帰宅したら、ボーボーに生い茂っていた雑草が草刈り機で綺麗に刈り取られていた。
刈った草が山になって数カ所に積もってた。もさ、もさ、もささ。
うほあああーー!
早速キリンビール2本とポカリスエットを買って、お隣にお礼を言いにいく。
朝と同じ、タンクトップにオヘソの上までスッポリの、真っ青なズボン。
そのスタイルがとても愛らしい。

そのあとロケハンへ。
ロケハンは楽しかったな。あれも救われた。
終わったあとうちの縁側でおしゃべりしてさ。空見上げながら。
その間に犬の散歩してるご近所のおじさんに「いいねぇ〜」と言われる。
またしばらくして散歩の帰り道に同じおじさんが通って「・・・いいねぇ〜」と言って去っていった。
おじさんが良いよ!

途中でひろしさんがやって来て、どうだ?草どうだ?て言う。
ありがとうございます!すごく綺麗です!とお返しする。
ひろしさんは色あせた綺麗な紫色のズボンに履き替えていた。
オヘソの上まですっぽりなのは一緒。
すぐ家に戻ったひろしさん。
それを見てたお友達が、ピンクと紫のクロックスのサンダルがキュートだったね!と言う。
そこに気付くのがすごいと思う。

ながながとおしゃべりを楽しんでいたら、今度はひろしさんの奥さんが来て、おもむろに細かい雑草取りをしはじめる。私もすかさずお手伝いする。
さらにおもむろに、きゅうりをくれる。
ともみ、きゅうりを握ったまま、お手伝いする。
お友達も見てるだけってわけにゃいかないのでお手伝いしてくれる。笑
みんなで草刈り開始。
一通り終わったあと、勝手口の草がボーボーで、木も伸びてちょっと通りづらくなっていることに気付いて、「明日も家にいる?勝手口、通りづらいでしょう?ここの木切ってやるから!3時くらいになれば陽が入って陰になっから、一緒に草刈ろう!いい?」と言ってくださる。
嬉しかった。ともみ、お隣さんと仲を深めるチャンス!明日は3時までに一通り仕事終わらせる決意!

そしてきゅうりをかじりながら一日が終わる。みずみずしい!!

本日。
本日は朝から市に依頼された仕事をしていた。うふふ。
常陸太田市合併10周年のロゴのデザイン。
ミヤタと林の複数のアイデアから選定されるので、自分のが採用されるとは限らない。
採用されなくても良く出来たので、一部は何かの機会で必ず使う!!
早く見せたい。
イラレだけで絵を描くことははじめて。めちゃかわいい。自画自賛。

午後は約束していた草刈り。
奥さんと一緒に草をムチムチむしりとる。
草の名前を教えてくれるので、色々こっちも聞く。
ちっちゃいオクラみたいなのがあって、「これ、オクラみたいですね!」て言うと「それは草だよ」と言われる。笑
わかっている。オクラじゃないことはわかっている。笑

奥さんは、カマ、はさみ、のこぎり、5種類くらいを使いこなしてかっこよかった。


作業の最中、隣の家からずっとこちらを見ているひろし家のわんこ。りんちゃん。

りんちゃん利口だから、吠えないでただじっと見てる。

家の裏に住んでるサングラスのいつもおしゃれなおばさまが通りかかり、手伝ってくれる。
大家さんが植えた水仙を「こんなものいらないわよ」と刈る。
木のどこを切るかを話しながら、塀に上って器用に枝を手際よく切り落としてゆく奥さん。かっこいい。
70歳過ぎているのよ。
ともみもやる!って言って高いとこのやったけど、うまく切れなくて苦戦。
ノコギリとか多少は慣れてるけど、全然かなわぬ。
ほい!もうちょっと!がんばれい!なんてお二人に応援されながら切り落とす。
わーい。
枝をノコギリで細かくして、袋にぎゅっぎゅと詰めていく。
途中で木の枝にそっくりな芋虫が剪定した枝にくっついてるのを発見!


この芋虫初めて見た。
見つけた瞬間は枝に擬態するように後ろ足だけでびーーんと伸びてて、枝そのものだった。
剪定した枝をずっと行ったり来たりしてて、申し訳ない気持ちと、ずっと見てても飽きないなーボケ〜とゆう気持ちで五分五分でした。

奥さんが畑で作物をひっこぬいてるところ、草刈りしてるところ、木の枝を切っているところを見て来たけれど、全ての手際がかっこいい。
日比野さんの腕に似てた。
太陽でこんがりと焼けて、必要な分の筋肉が必要な場所についていて、色んなものを大切にしている偉大な腕。
小柄なおばあちゃんのたくましい腕。
かっこいい。
私の白くてぷよぷよの腕とは、比べ物にならない。
こっち来てから少し筋肉ついたけど、やっぱり比べ物にならない。

ジュースを届けに左隣のご近所さんが飼い犬のジャッキーちゃんを抱いて来てくれた。
いつのまにかサングラスのご近所さんはいなくなっていた。(気付かなくて申し訳なかった)

庭中の草を全部刈り取って、木もこざっぱりして、差し入れのジュースを飲みながら縁側でおしゃべりをした。
はーー!おいしーー!って言っててかわいかった。
ともみは見た目が真っ黒のエスプレッソの400ml缶という超ハードな方を飲んだ。
奥さんはそれをコーラだと思ったらしく、「コーラは林さん飲みなぁ」って言ってた。
色んな話をしたよ。
息子さんが東京でケーキ屋さんを経営していること。
そのケーキ屋さんが親友の家のすぐ近くだったこと。
マンゴーを使ったお菓子を開発していて、カスタードはどこに頼み、ロールケーキはどこに頼み、マンゴーはインドから輸入しているなどの話を聞く。
ホームページを検索して、写真を見つけてみせてあげると「あら!うちの息子だわ!」と驚いて喜んでる。
そしたらひろしさんが登場する。
今日はともみが好きなひろしファッションだった。
色褪せた使い古しの綺麗なピンク色のネルシャツに、ピンクと紫の色あせたズボン。(もちろんオヘソまですっぽり)
そしてピンクと紫のクロックス。
灰色の使い古しのキャップも古着屋さんで売ってそうな風合いでかっこいい。
ひろしさんが着るからこそ、天使のようにかわいい。
ちなみに奥さんもクロックス。みんなクロックスを履きこなしててなんだかとってもそれが愛らしいんだ〜〜〜〜〜。

旦那様と奥様にはさまれて、3人で縁側でお話。
息子のホームページの話を奥さんがして、iPhoneの画面を息子さんのアップにして、見せてあげる。
「おおお!息子だよ!」と目がキラキラする。
どっちに似てる?って聞かれて、目はひろしさんに似てる。口元とか眉毛とかは奥さんに似てるって言うと笑ってる。
息子の話ってきっと嬉しいんだね。
ともみもすんごく嬉しかった。
そしたらお隣じゃないご近所さんがひろし夫妻を尋ねてやってきた。
奥さんが畑でとれた野菜をお裾分けしたのだが、それを天ぷらにしてお裾分け返しに来てくれたそうで、アルミホイルでフタをした天ぷらを手渡して帰っていった。
それをさらにお裾分けしていただき、さっき食べたら感動するほど美味しかった。
細谷さんちの美味しい野菜を、美味しく調理した愛情の味・・・・・・。


長くて長くてびっくりですね。
これは読み切れませんね。
これは日記だから。
私は全てを残したいほど、昨日と今日のありとあらゆる出来事が嬉しかったのだ。


草刈りしている途中、あー写真を撮ってフェイスブックにあげたいなあとか思った。
でもなんとなく写真じゃ普通だし、簡単に撮れちゃうし、お手伝いしてくださってる人の写真を撮って「お手伝いしてくれました♡」なんてブログにアップするのってなんか違うな、なんとなく軽いな、と思ったので、絶対絵にしよう。と決めた。
絵にしようと思っていたから、通りがかった人、犬、景色、細谷夫妻、つぶさに観察して心に焼き付けた。

さっき一通りの仕事を終えて、絵を描きはじめた。
描きながら涙がこみあげてきた。
私はこんな風に、同じ場所に住んでいるというだけの縁から、こんな風に関係を構築していくのは初めてだから。
他人が他人じゃなくなっていくことがとっても嬉しかったから。
私にはおじいちゃんもおばあちゃんもいないから。

こんなにもいいものなのかとね。
子供とかおじいちゃんとか、年は関係ないということを知らなかったんだ。ずっとさ。


ああ。途中で通りかかった小学生の男の子もめっちゃ良かった。
こんにちはー。って言ったら。「あ、こんちゃっす!コンニチワ♡コンニチワー♡」とか声色変えてふざけてて、1人でそのあともずっとなんか喋りながら歩いてて、
底抜けに、ひょうきん!!と驚嘆した。

だから好きだよ小学生男子。言動も行動も全部面白いよ。





心がきゅっとなるような愛がそこにあったら、それだけで胸の灯りがともる気がするよ。
味わえないような気持ちを教えてくれる色んな人達、みんな素敵な人達だとおもうよ。

格別な人はその中にいるよ。

格別な人は、誰とも違うからすぐわかるよ。



友達に宛てた言葉だったんだけど、あとから読み返してともみいいこと言う!て思った。





ひとつ残らず書き残した。

感謝の気持ちは、言葉にするのがとても難しい。
このなんともいえない感激、感動、感謝。そういうの、表現ができないなと思った。
だからひとつのこらず書いてみた。

超長いだろうな。


2014年6月15日日曜日

病み上がり ver.






感情は揺さぶられるもので、そこに軸を持つことはできない。
軸はもっと奥深く、命が生きることを求めるその根源に突き刺さるもの。

午前は大中のこども達とワークショップをしてきた。
私は一部の小学生男子にめっぽう弱いというか・・変質的に溺愛しているのだけど
久しぶりにストライク(語弊ある)の子たちがいて、まじで友達になりたくなった。
心の中にいる小学生の自分が、仲間に入れて!!!って叫び出す感じ。

午後、常陸太田の友人と絵本作りのロケハンをしてきた。
私は、金砂郷の鬱蒼と繁る草が好き。木が好き。山が近くて、山のすぐそばに人がちょこんちょこんと住んでいる空間が好き。金砂郷大好き。
場所によってそれぞれ色んな雰囲気がある。地区として分かれているようで、分かれていない部分だってある。そういう地続きのものも、地区ごとの特有の雰囲気も、全部絵本で表したい。
絵本の目的は色々あるんだけど、そういうものを越えてやり抜きたい、やり遂げたい、表現し尽くしたいと思えるものがどんどんと溢れてきた。
共に絵本を作る彼女のおかげもある。
彼女が見せてくれる世界のおかげでもある。
こんなにこの土地を見つめて、愛しさを募らせている乙女がいることは幸せなことだと思うよ。常陸太田さん。

その子は「白」になりたいと言っていた。
どんな白?
白昼夢のような・・もやがかかってうっすら先が見えるような・・
真珠のように白のなかに色んな色が隠れているような・・
そんな白だと言っていた。
私が思い浮かべたのは貝殻の裏側だった。
白いけど、光の加減で虹色に見える。真珠と同じだね。

白かあ。空を見上げたら雲が浮いてた。ぷたぷた。
その白は、真っ白ではない。空の青に重なって、うっすらと青がにじむ白。
彼女がなりたいのは、きっとこういう白なんじゃないかと勝手に思った。
白といっても、場所や環境によって色味は変わる。雲も真っ白ではない。
シロツメクサの白も、朝もやの白も、真珠の白も。
どこに言っても浮いてしまう、漂白された白ではなく、どこにいても光を吸収して輝く白。
白って華奢そうだけど、とても強い色だと思ってる。
白はいつも光を反射していてシャンと強い。それでいて無垢な色だから、彼女にぴったりだと思う。

私は「透明」になりたいと言った。
澄んだ湖の水面のように、空も山も月も全てを反射して映し出す鏡でありたい。
そして、水底まで透過してしまうくらい透明でありたい。
全てを反射し、全てを透過する透明な人になりたいというのが昔からの気持ち。

似てるようで違うところが面白い。

彼女はふとした時に発する表現に愛がこもってる。
めちゃめちゃギュっとこもってる。
細かすぎて、いっつも脳内にメモするんだけど、時間が経つと忘れちゃう・・・。次はほんとのメモをとろう!
それだけで、彼女が愛にまっすぐで、誠実だということは伝わるんだ。
それだけでも相手にはわかるんだyo!


はあ。6月に入ってから、ずっとへこんでばかりだった。
人前で泣いたり、電話で泣いたり、泣きながら寝たり、泣いてばっかだった。
どこにもいけない、逃がせない気持ちと、ゆきばのない自分と対峙していた。
どうしようもない絵を描いて。絵画表現の難しさにあらためて直面して。
構成力のなさとかさ。
愛がないと絵が描けない。その愛に浸かって心を踊らせないと展開しない。
愛が先立つから絵を描く場合もあるし、描いている間にどんどん募る場合もある。
もはや絵と人の区別もなく、私にとってはどちらも謎。どちらもなぜ好きなのかわからない。
でも向き合う。同じように向き合うだけだ。

昔はへこんだらどこまでもどこまでも落ち続けてた。
でも今は暗闇に見えても、うっすらと光が漏れててなんとか動ける。
悲しみであろうが喜びであろうが、全身で享受することが愛だ、闘争だと考えていたけれど
私も私の愛し方を心得て来たのでしょうね。

優しい人が沢山いるから、すぐその人たちに頼れるようになったのはかなりの変化だと思う。
昔は無理だったもん。我慢するとだめな爆発の仕方するから、それが一番いやだから、ていうか辛くてしょうがないから優しいとわかってる人に優しい言葉をねだる・・
いやん。ほんとに助かります。

たまにメールしたり電話したり弱音吐かせてくださる方々、いつもありがとうございます。
(誰もこれ読んでないと思うけど!)


昨日まで寝込んでいたので、ほんとの病み上がりです。
優しい歌を聴いて今日もゆっくり休もう。

ともみは十分愛されている。

ともみは今とっても幸せだ。

2014年6月12日木曜日

思考に費やす時間の蓄えが足りない。

夏の展示のために制作中です。
破裂しそうな創作意欲からストーリーを繋いで行く描き方ではなくて
なんとなくこんなイメージに仕上げたい、からはじまった描き方だったので
途中で手詰まりになってしまいました。

辻褄を合わせなければなりません。
あーでもない、こーでもない・・・少し間を置かなきゃ・・・。

私の人生で出会った人のほとんどが物作りをする人たちでした。
こちらではアーティストではない人たちとの関わりが主です。
都会から田舎へ、芸術畑から社会へ。
環境のギャップはすごいと思います。
内部からしか見ていなかった世界を、初めて外部から感じています。

移住してから7ヶ月経ち、コミュニケーションでも会議でも色んなギャップがあることに気付きはじめました。
自分はよく変だと言われるし話すとポカンとされることが多いです。
でも同様に、私は会議の内容を聞いていてボカンとすることがあります。
どうやらみんな本質についてはあまり語らないようです。
めちゃくちゃ不思議です。
そんな日々で、自分のうっかりしている性格や常識はずれな行動だけでなく、母が天然ボケで、父は変人であるということにも気付かされました。

時々友達のアーティストと話すとハッとします。
私と同じ世界の人だ!と驚きます。
そうして、あー、自分は「アーティスト」なのかあ・・・・。ふうん。
と、謎の自覚をしてみます。



会議はもちろん「アーティスト」とか「アート」って言葉が何度も出てきます。
役所の人たちがその言葉を発するだけでときめきます。
みんなの中にもやもやと「アート」ていうものが浮かんでて、ぽやんぽやんと漂ってるのを掴もうとしているコミュニケーションは興味深いです。
そして私は「アーティスト」として扱われていて、それも面白いです。
今までの「アーティスト」しかいない環境では「お互い人間である」という感覚でしたから、「アーティスト」として役所や地域や社会と結びついている状況はなんだか不思議だし新鮮だし、これは本当に本当にワクワクすることなの、わかりますか!
アートの力を一番に信じているのはきっとアーティストでしょう。
その力を発揮する場は美術館だけではない。

この思考を、この感性を、この視点を、まちづくりにいかせる。


私が生きていた世界はとてつもなく狭かったということを知ったのです。
環境もあるし、他ならぬ私が作り出した観念でもあったわけです。


先日の会議の充実感を誰かに共有したい。
役所の仕組みも社会の仕組みもほんとに全然わかってないし、会議でみんなが話している次元と別次元にいるため、会議に出るとめちゃくちゃ楽しいのです。
制作活動に専念するだけじゃつまんない。
自分の行動範囲外のことに首を突っ込み続けたい。
腑に落ちる部分や居所をその都度見つけて行くのが楽しい。

こんな風に思えるくらい、常陸太田での出来事をやっと客観視できるようになったのです。


いろんなアーティストが遊びに来てくれたらいいなと思う。
物作りをする人たちの感性にはっとする。
自分と近い目線を持っていて、ほっとする。
一緒に散歩をしたらとってもとっても楽しいことを確信してる。


SNS、疲れちゃう。
話したり調べたり考えたりすることがどんなに大事か。
それは何にたいしても言える。
考えるだけじゃなくて、話すことも、また考えてゆくためにすっっっごく大事だ。
話し相手は1人でもいいと思う。

先日の会議で思ったけど、逆転の発想とポジティブに頭を切り替えることって、すっっごくすっっっごく生きるために必要な能力よね。

直感は知恵と繋がっている。
直感を鍛えることは知恵を持つために必要なんだ。
直感磨いて、理解できないことは調べて、考える・・・それしかない。
インターネットの中も本の中もさんざん迷子になって混乱するけど、自分の直感、頑張れ!

いつか常陸太田を離れたとしても定住するなら直売所の近くがいい。

2014年6月9日月曜日

ちょうどいい重力




最近呼吸が浅いのが悩み。気付くと胸がきつい。

何息止めてんだ!呼吸はバランスのいい心身を保つ要です。

怒ることも泣くことも笑うことも、心の中の核の震え方と、全身への伝わり方の違いでしかないんだな。


1人だからさみしいんじゃなくて、心の距離が遠いからさみしいんだな。

自分の体の中の地図と、他者との間の地図、そういう、この世界を担っている関係性や座標や曼陀羅を、観察したり分析することが日常になっているな。
小さい頃からずっとずっと続けていることだから、どんどん解像度も増して、新たな未知が見えてくるんだな。
アーティストの性なんかな。

作家、芸術家、美術家、アーティスト

いろいろ名前があるな。人それぞれ使い分けているけど。

私は絵描きって自分のこと言ってるな。
画家と絵描き。
家、がつくのとつかないので、何か差があるのかな。

私は家出中なのかな。

家と一緒に旅に出てる人もいるし、それは「家と出る」と書いて「家出」と言えるのかな。


なんか、、ん、 謎の言葉遊びがはじまってしまった。


壁画集中して書いたりさ。ピリピリ神経とがらせたりさ。大事な会議したりさ。緊張感のある作業したりさ。


最近鼻歌歌いながら側転したり、スキップしたり、両手を広げて空に掲げたり、誰かと満面の笑みを贈呈しあったり、そういうのが足りないぞ!


どうりで肺が痛いわけだ。


ま、とりあえず心と世界を繋げるかな。


好きな写真
田植えする前の、水を張ったばかりの田んぼ

2014年6月7日土曜日

雨と風と水星逆行と重い精神が今日も私をどんよりさせた。
そんな心細い夜に電話があり、かかってきただけで泣きそうに。
それだけでとても救われた。
ほっとして、うるっとして、切った後また落ち込んだ。
瞬時に元気にはなれないけど、元気になる支度は整った。
電話のコミュニケーションは難しいけど、ひとりぼっちでどこにも逃げ出せない今の自分にはとってもありがたいものだった。

今日は関東の形が変わって、茨城がぎゅーっと神奈川まで延びる夢を見た。
願望!
それほど恋しいとは。

梅雨。神奈川も雨、茨城も雨。
東北も梅雨入りしたから東北も雨。
日本全体が雨。

私は高校三年生のとき芸術学科に所属していたので、卒業作品ではなく論文を書いた。
フンデルトヴァッサーという建築家でありパフォーマーであり画家である芸術家についての論文を書いた。
ただ彼の軌跡を追い、自分なりに言葉にするのでは中身がない。ちゃんと自分で感じたことだけを言葉にしなければならない。だから、彼の気持ちになろうとし、彼の文章を沢山読み、絵を解読し、かなりどっぷり浸かった。学部1・2年の頃まで影響受け過ぎて自分の考えだかフンデルトヴァッサーの考えだか、わからなくなって。危うかった。
そんな風になるくらいフンデルトヴァッサーの気持ちになって世界を見てた。
彼は好きなモチーフがいくつかあって、その中の一つが渦巻き模様だった。
また、彼は雨が大好きで、自分の家である船に「雨の日号」と名付けるくらいだった。

渦巻き模様は絵の中で記号の役割をするものだし、自然なエネルギーの動きを表現するのに適した形だから、納得できる。
雨が天地を循環する命の源でありエネルギーであるから雨が好きなのも、なんとなく理解できた。
でも雨は自然現象そのものだ。理屈ではない。彼は直感に生きる人だ。雨とゆう現象自体に、どこか、惹かれるところがあったはずだ。
それがなんなのか、ずっとひっかかってた。

いつかは忘れてしまったけど、大学に入ってからかなあ。取手校舎を大雨の中傘を差しながら歩いてた時、地面を見てびっくりした。

雨が地面に当たってできる模様が、フンデルトヴァッサーの描く渦巻き模様にそっくりだった。

足元だけでなく、そこらじゅう、地面一体が雫の波紋で覆われていた。
それを見て私はとっても嬉しくなった。
フンデルトヴァッサーの見ていたもの、感動した雨の風景はこれなんじゃないかって。
水面に打ち付ける雨が作り出す、波紋の浪を、彼は見ていたのではないかって。

これは私だけの気づきだ!!

って少し得意げになった思い出。

フンデルトヴァッサーがそこに感動したかどうかはわからないけど、それからずっと、雨の日はコンクリートや水たまりの波紋を見て楽しむようになった。

雨が降ると思い出すんだ。

といって、波紋の写真じゃなくてごめんなさい。
今日撮った写真。






2014年6月5日木曜日

今日は山下達郎

たたかっている
こころぼそい

無音で無表情

外に一歩出れば変わる

ここに留まることで、空っぽな自分に気付く。

エネルギーが足りない時もたまにはある。

お休みもらったので家で休んだ。
今日の昼から夕方は、和室で毛布かぶって寝てた。
お客さん用の布団で。
かぼそい神経が何度もわたしをゆさぶり起こす。


飲みに誘ってほしい気分
仕事をして、飲みに行って、話してほろ酔いで帰宅できたら良いのにな。
帰ると、雨の音、空気、しっとりした暗闇。ふんわり軽い風。そういうので酔いを醒ましながら足下に気をつけながら どうせ暗闇だ、前を見ても上を見ても同じだ。って、空を見上げながらふらふら歩きたい。
自然の中に住むの素敵だ。
田んぼも素敵だ。
ゴミ出しのときご近所さんとおしゃべりするの素敵だ。

カエルが合唱してる。

カエル苦手な人が周りに沢山いるんだけど、私は苦手じゃなくってほんとーによかった。


実家の洗剤は無香。
だから私にとって服の匂いは他人の匂い。
匂いがする時点でよそゆきのような気がする。
ちょぴっと柔軟剤を混ぜて洗濯してみると、自分じゃない匂いがしてくる。
嗅いで、ひとりじゃないみたいで安心する。



さ、元気出さなきゃ。


大好きな占い、2014年の運勢、何度も何度も見ちゃう。
2011年から変化してるって、まず人は変化するのは当たり前だよなと思ったり
震災もあったしなと思ったりする。


もっともっともっと深く深く描いて描いて描いて
編まなきゃと思う。でも、今日は、休み。

休む方が疲れるって話もある。

2014年6月4日水曜日

Mind Circus

自分の心にこもるときだいじ
見つめ直すのがだいじ
自分に自分をさらけ出すのだいじ
秩序の中に自分を留まらせることが日常で
逸脱したときが潜るタイミング

涙で洗い流すのもだいじ
過去をにくんでもいい
未来を危惧してもいい
現実に虚しさを覚えてもいい

職場の人に涙を見せてしまった


悲しい道と平行して次に繋がる道がある。
悲しい道は途中までしか続かない。
ゆるやかに移動しよう
道なき道をかきわけて取り戻そう

2014年6月3日火曜日

現象と心象を描いて向き合うこと

文章のはじまりで日記のリズムが決まる。

うちはテレビがない。向き合う相手もいない。
茶の間で1人は物悲しくて、自分の部屋で過ごす。
何も観るものがない。でも目の前にパソコンがある。
radikoを聴きながらブログを書くことにした。
ちょっと疲れて心が狭くなっていて。
そういう時こそ言語化して心を整理したくなる。

チャキチャキ、好きなギターの音がしてる。

内容を忘れないように、タイトルに書きたいことをメモする。


はろー ワールド

自分がいつも聴いている曲でも、ラジオから流れると気分が全然違う。
生な感じがするからなのかな。世界中の空中を漂ってる感じがするからなのかな。
音が呼吸してるように感じる。

でもトークタイムに入ったので矢野顕子に変えちゃった。

大寒町。

原付での帰り道は、いつも肌寒い。
真っ暗なのでケモノが飛び出してくるのをおそれてのんびり走る。


このごろ、2人の友達に「根っからの絵描き」って言われた。
ふむ、そうか。自分のことをそう名付けることができるのか。と思った。
根っからの。絵(落書き)描き。
研修とかフォーラムでは落書きしないようにしてるけど、会議とかだと・・・
失礼だけど描いてしまう。

先日慧くんが来てたとき、慧くんの後ろから家を描いた。
これまで家を「生で見て」描くことはほとんどなかったし、大体空想のイメージばかり描いていたので、一手一手加えるたびにいつもと違う神経がぴきぴきと動き出して、色んな記憶をたぐり寄せ、俄然集中力が増し、最後までひたすら新鮮な気持ちで描けた。

私の頭の中で「住居」という存在が、その定義が、その概念が、その現象が、その物質感が、慧くんの活動や存在とも結びつきながら、私の感覚と結びつきながら、目の前の「家」を黒いペンで「描く」ことによってどんどんと流れ、立ち上がり、変化した。

頭の中で起きている出来事、運動と、私の目が家を捉えて右手に預ける出来事、運動が、ピタリとくっついてバランスを取り合っている状態。
目に見えない心象と、目に見える現象が「描く」ことによって結びついている状態。

それが好きなんだよねえ。 空想も好きだし、言語化するのも好き。
運動も好きだし、外の世界の様々なものを愛でたり、観察したり、向き合うことが好き。
そんな自分には「描く」ことはとても心地よい表現手段。

空想、夢想、幻の世界、ともみワールドが頭の中にあって
その世界は確実に外の世界と結びついてて
でもなんとなくいつも垣根があって
私はいつもそこを越えて自由に繋がりたい気持ちがあって

描くことってほんとに面白くて興奮する。


家描くの、楽しかった。
そしてそれ以降、家を見る目が変わった。
完全に、家を三次元的に受け入れるようになった。
なんかこれまではもうすこし二次元に近かった気がするんだ。
ドアあけたら中、ていう程度というか。
窓あけたら庭、ていう当たり前のもの。
屋根、壁、ドア。住むのが普通。いるのが普通。出入りするのが普通。
他人の家はただのかたまり。のっぺらぼうで平ら。

今や、そこに色んなストーリーを感じるようになった。
家は色んな構造や素材の組み合わせで重力に沿ってストンと建っているんだ。
外部も内部も緻密で、1つ1つに目を向けるとこんな表情があるんだって驚く。
種類も沢山あるし。同じ家なんてないし。住んでる人も違う。
別々のストーリーを持ってる。
これは三次元より四次元かなあ??三次元??

お。慧くんと宇宙の本読んでなんじゃこりゃー!てなったのを思い出した。


5月中旬か下旬くらいから、運動公園の休憩スペースの壁に絵を描かせてもらっている。
それも自分の超個人的なイメージの世界ではなく、常陸太田の4地区を描いているのでとても現実的。かわいらしい雰囲気を出しつつ、確実に描写する。それって大変。
辻褄を合わせなきゃいけないから大変なの。

終盤になって、ここは友深のいつもの絵描いていいよ、って言われたので描いてみたら、まじで意味わかんないカオスな空間が出来てしまった。
そこだけで見ると好きなんだけど。意味わかんなすぎて放置した。
明日も放置したい。

しかし久しぶりにめちゃくちゃ自分のイメージで絵を描くと、あらためて自分の脳内ナゾって思うね。
ちょっと異物感。


現象と、心象。
目に見えるものと、目に見えないもの。


観察すること、向き合うこと。

描くこと。愛すること。


考えたり感じたり、ゆっくりしたり、のびのびしたり、深呼吸したり息を止めたり、そんな感じで生きているな。


私、ほっとくとどんどん人の世界から離れてしまいそうな危なっかしい人間なんだけど
ほんとに、いつ死ぬかわかんないなってよく思うんだけどさ・・・

お母さんと姉はいつも心配してるんだろうなー
私も心配だよ、私が

それでもねえ 今がいちばん幸せな気がするよ とてもありがたいんだ

これまではすごく辛かったなあ 全然違う人みたいに思える。
どうしてこんなに変わったんだろう?
同じなんだけどね。ずっと同じなんだけど。
孤独に真っ向勝負を挑んで負けまくってきた。

生きるの大変だ。
星野源の「変わらないまま」聴いてると、そうだなって思う。
わかんないまま生きてる。


制作中聴いていた大滝詠一の「1969年のドラッグレース」で「景色のように 未来は変わる」と言ってるように感じて感激していたけど、実際は「景色だけが変わり 未来は過去になる」だった。
頭の中で解釈してた意味自体は、変わらない。
深い。
でも、時を猛スピードで味わっている、という感覚自体は、非日常かも。


今日の気付き。
あの人がいい。あの子に会いたい。会いたい会いたい
などは
目の前にいる人たちと比較して目の前にいる人たちと向き合えないノイズになることがある。

素直に素朴に目の前の人たちと 心を込めて向き合おう。

遠くの人々は、休み時間に愛でよう。