2016年7月29日金曜日

私はたまたま私で、私は私の心の動きや心の中に広がる風景や、私を形作る現象を記録し、描写しているだけ。
我を越えた目線で、心の有り様の地図を描く。
自己表現とはほんとのところ、なんなのだろうな。

翻弄される慶び

最近、色んな言葉の意味が変わってきていると感じる。
自分の中だけの出来事かもしれないけど、世の中と繋がってる。
社会の中にいることで、私の違和感が膨らんでいるのだと思う。
「教育」も怖い言葉に思えてくる。
美術教育で大切なのはなんだろうと考えていた。私は、美術だろうと他の教科であろうと、同じだと思う。
教えるんじゃない。相手の力を心底信じることなのだと思う。
熱烈に向き合うことなのだと思う。

子供を見てると面白い。面白くてよく学べる。
どんな大人になるのかなあ〜って考える。
ハヤシ先生のおかげでぼくは芸術家になりました!など都合のいい妄想をしたりもする。
知ってる?想像するのは自由なんだぜ!!
これがモチベーションになるならオッケーだよね。

友人が、ポケモンGOに関する陰謀論的なのを教えてくれた。
ネットで調べてみたけど、明らかにデマばっかり載せてるサイトだった。
真偽はわからないけど、そういう予測を立てることもできるんだろう。だから真っ赤な嘘とも言えないはず。
携帯電話からインターネットから、沢山の個人情報が流出し、悪用される時代だ。
そんな時代においてブログはどういった意味を持つのだろう。
今日はちょー久しぶりに青山ブックセンターに行きました。プライベート漏れ漏れ。
ABCはコンテンツ満載で、面食らったしなんか悔しくなったりしたけど、久しぶりに遊んでるなあって気持ちになれた。これが遊びだよなあって。楽しかった。
この本買おうか買うまいか。何かを選ぶのが楽しい。
言葉にびびびっときたり、吸い込まれる感覚。本の見出しと装丁はみんな発情期のオスみたいにアピールしてくる。「面白いからあ!損させないからあ!買って買ってええ!」って。
世の中にあるもの、別の目線で観察してみると、「金をくれえ!名誉をくえれ!もっともっと!」という風に聞こえてくるものが沢山。
効率とか、合理性とか、理屈とか、言い訳とか多いねえ。
私は自分で線を引きたいし、自分で選びたい。

私の心まで操作できるならしてみればいい。
どれほど翻弄されても鍛えた体幹で起き上がる小法師なのさ。



2016年7月25日月曜日

傷の末路

嫉妬、猜疑心、正義感、囚われ、煩悩
人を多角的に縛り付ける様々なもの
色々なコンプレックスに対応する答え。
それが創造性だ。
何かを、別の何かに作り変えてしまえる力だ。
いい作品作らないと、乗り越えられないんだろう。
私の方程式の全てを書き出して浮かび上がらせよう。

歌詞がいいので是非みてくれさい。

LOBRO 音信
やれる?やめる? 何言われても続けてく
ふてぶてしさ ぶつけてく
オリジナルなんだし違和感があっていい
踊らなくても うなずくだけでいい
形と中身で主張していくカラー
違いに気がつけば 大丈夫だから
力の大きさより その働きに
特化して肩並べる輝き
出せるか否か ごまかさないで
焦らない 勘ぐらない 怖がらないで
お金以前に勇気が必要な
場面の態度 問われてる実情
お前の出番は必ずくる
今じゃない、と嘘つく 自分を見抜く
あらめて心と懐 温めてくために
高めていく強度

2016年7月21日木曜日

地域アートの原体験

私の「アートプロジェクト」の原体験。21歳の頃。
2009年、別府の混浴温泉世界。
町内の盆踊りで、山中カメラさんが作詞した「別府最適音頭」を地域住民の人たちに混じって踊った。みんな、見よう見まねで踊った。
まったく知らない人たちと、一つ輪になって踊るっていう一体感とか、あたたかさとかが凄く新鮮で、驚きで、その上これがまた、めっちゃいい曲で、、、、、、私はすこしべそをかいた。
今でも聴くと泣きそうになる。
地域アートって色々考えちゃうけど、私の原点はここかもしれないなあ。
ただただ純粋に一体になれたことが嬉しかったし、感動的だったなあ。
28さい、、薄汚れた社会人になっても、初心を思い出しつづけよう!
ぜったい、ずっと芸術つづけるんだ!!
ほんとにこの曲がすきだ!!!!
(サックス入ってるversionちょっと違和感あるけど)
 

2016年7月13日水曜日

望月ゆうさくの公演をみて

先週、大学院の同期である望月ゆうさくのパフォーマンスをみた。
ジャグリングの世界大会で優勝したり、enraとしてカンヌ国際映画祭のオープニングアクトを務めたり、めちゃスゴイっていうのは知ってたんだけど、生で見たら(私にとっての)人間の上限を越えてた。そして、彼が根っからのアーティストだということが伝わってきた。「エンターテインメント」としての面白さが強調されがちで、そこで消費されやすいメディアだと思う。でもゆうさくはそれ以上のことを目指しているのがわかる。彼だけの「表現」で、どこまでも遠くにはばたいてほしいので、この技術と表現力をいかして色んな人と共作したり、作品を展開していってほしい。

私のような「小さな頃から絵を描くのが好き」な人が芸術の道に向かうことはよくある。だけど、彼のようにジャグリングを通してアートを思考するというのは、けっこう新しい視点なんじゃないかな。私から見たら新しいんだけど、彼にとってはとても自然なことなんだろう。技術と表現のバランスがまだ技術に寄っていた頃、毛色の違う先端で、芸術とは何か、表現とは何かを考えて挑戦して、ほんとに頑張っていた。

ジャグリングは物理法則によって身体性や目に見えないエネルギーを可視化する。遠心力とか重力とか、いろんな物理現象が肉体の与えるエネルギーによって変化して、突拍子もない動きを生み出す。人間の「意思」が肉体の運動に変わり、運動が目の前の現象を動かす。その現象をつぶさに観察し、肉体が反応する。運動はスピードを上げていつのまにか意思すら超越する。精神と肉体が一体になってジャグリングの動きを生み出しているんだけど、そのシンクロ率が高過ぎて、目の前で起きていることをうまく処理できなくなる。今までに見たことがないような駒の動きが、物理法則を上回って見える。ゆうさくがやっていることが魔法のように見えてくる。呼吸の音が動きと動きの間の静寂を切り裂く。人が呼吸をしているということを思い出す。ヒモがムチのようにしなり乾いた音を立てる。駒がヒモとの摩擦でシュルシュルと鳴る。ものすごい力が接地面にかかっていることがわかる。駒が変な動きするの。なんで飛んだ駒が、振り回したヒモの上に着地できるのか謎でしかない。エネルギーがすごすぎて圧倒された。

パフォーマーは見た方がいいと思った。みんな、最近のゆうさくは尋常じゃないよ。とくにここ最近、顔つきが違う。なにがあったんだろ?
彼のパフォーマンスを見て、プロフェッショナルてこういうことか!!と思いました。こんなに輝いている生命とか、肉体を目の当たりにできることって、スゴイな、すごい瞬間だなって思う。

ゆうさくを見ていると、希望が差し込む。大学院の時のことも知っているから、尚更、今の表現ができることは彼にとって、とってもとっても嬉しいことなんだろうとわかるし。

この映像は、ゆうさくの競技者として表現者としての凄さや、ジャグリングという行為が生み出すエネルギーや激しさがわかる。

https://youtu.be/TcwG4vjEbqI

2016年7月8日金曜日

言語化し続けていると、この文章だけではこの反対側の側面が伝わらない・・・こういう意味にとられてしまったらどうしよう・・・そういうつもりじゃないんだ・・・・と不安になってしまうのであまり書き過ぎてもバランスが良くないと自覚している。
フェイスブックに色々書いたけど、読む人は少ないんだろう。
このブログでは、もう少し私なりにとんがったことを言っていきたい。
色んなことがあったし、色んな意見を見てきた。本当に人それぞれだと思う。私は人気者でも権力者でもないし、一作家として等身大で発言をしているだけ。
わかろうと思ったら、わかる。口当たりのいい作品を作っている人を否定しているわけではない。常識を否定しているわけじゃない。一般論もある程度は認識しているし。言い方とか時と場合によるし。とにかく特定の誰かを吊るし上げたり、殴ったり、否定したいわけじゃない。そういう風に誰かに思わせたくないと思う。そりゃあむかつくこととか、おかしい!て思うことはあるけど、ケンカや殴り合いがしたいんじゃなくて、歩み寄りたいだけ。心から憎んでいる人というのは、思いつかない。怒りも憎しみも恨みも、一過性の感情だと思う。その人の感覚がナチュラルにヘルシーに更新されていけば、ね。
立ち止まる時間もあるけど。

私も、人をおおらかな気持ちにさせたいなとか、ときめいてほしいと思うし、あんまり残虐なイメージとか猥雑なイメージは表現したくない。
でもそれは自分のあらゆる選択肢の中から選びとった手段であって、決めつけられたものではない。スリリングな表現をしたこともあるし、暗い絵、こわい絵もたくさん描いた結果のことだから。
他人の評価に沿って自分を歪める行為はどうしてもできない性分だし。

井の中の蛙になっていないか、と自分へも他人へも問いかけたかった。
そんなわけで、フェイスブックに長文を書いてみた。

私は、少しは自分を正当化しないと。けっこう自分を否定しがちだから。
人に言われたり世の中では当たり前なんだけど、経験しないと実感できないことって色々ある。
大学時代は、先生の言っていることが理屈でわかってもどう実践していいかわからなかったり。たとえば「作品の強度を上げるためにはどうしたらいいか」とか。想いを込めることだ!みたいな結論にいたっても、想いを込めるためにはこれをすればいい、という決まったルールはないから。タイミング、技術、精神の状態、いろんな条件に左右されるし、その中で自分の軸をどこに持っていくか、超繊細なバランス感覚があると思う。「説得力のある作品」であることは変わらなくても、選び方によって大胆にも鋭利にも柔和にもなる。

他のことでいうと「自分を愛せないと他人を愛せない」とか「自分のペースで、ゆっくりでいいよ」とか。実際辛い時って、ゆっくりでいいよと言われても不安が消えなかったりするし。言われた瞬間できないこともあるし、たとえばそんなようなこと。
この言葉ではわかりづらかった、あとになってようやくわかる瞬間が来た、みたいなことってあるよね。
私はそういうことがあったとき、 自分も他人に対して色んな励ましやアドバイスをすることがあるけど、その人のその状態にちゃんと響いていないかもしれない、と考える。
もっと違う言い方、もっと違う視点で、何か表現する方法はないかなあと考える。
たとえば、元気ない人に「元気出せ!」て言っても元気出ないと思うんだけど、それを「今日飲みに行こう!」に変えたり、「話してごらん」と言ったりすると、気分転換をしたり人に打ち明けることで元気になるかもしれない。簡単に言うとそういうこと。
人にかける言葉ひとつひとつも緻密に丁寧に選びたい。時には強く、時にはふんわり、時には間接的に、時にはズバリと。
私はこういう辛いとき、こんなことに気付けたらもっと助かったかもなー、みたいなことを振り返って、今の自分ならどんなことを言えるか考える。これは私の性質の一つかな。

28年生きてきて気付けたことを言葉にしてみよう。

一般に言われる「クズ」とか「変」は気にする必要がない。

私の基準として、暴力や薬物は周囲の大事な人たちをたくさん傷つけるし、もちろん暴力を受けた人も激しく傷つくし、おそらく自分自身も傷つくので良くないことだと思う。

でも、それが悪いことだからといって、本人の「反省の余地」や「自分自身と向き合う時間」までもを奪うことはできないと思う。

沢山の人が「おかしい」と言うと、起きてしまった出来事や人物が「おかしい」と決めつけられてそれ以外の選択肢が奪われてしまう、そんな議論や問題をたびたび見かける。特に最近は「炎上」などの形で顕著だ。

反省の余地も、考え直す時間も、チャンスも奪われた人はどうやって問題を乗り越えればいいのだろう。

自分の人生や他人の人生を心から喜べるだろうか。逃げることも立ち向かうことも許されない社会なんて、人間関係なんて、それって「いじめ」と同じだし、それで追い込まれてもしその人が生きる場所を失ったら、心を失ったら、生きる気力を失ったら、それはもう暴力どころか殺人なんじゃないか。


私は思う。炎上騒ぎに加担する人や、いじめに加担する人、あるいはそれを傍観する人は、自分自身についてすら考えることをやめてしまった人なのではないか、と。

相手の気持ちを推し量るとき、自分の身になって考えたりするけど、相手の気持ちを想像できない人は、自分の身に起きている出来事についても深く思考をするのをやめてしまっているんじゃないか。

政治はねじれにねじれているし、社会もねじ曲がっている。人間の尊厳というのがどれだけ尊重されているかというと、どうも軽視、いやガン無視されてるウンザリな社会であることは明らかだ。

みんな苦しい、自分だけじゃない、だからそのことについては考えずに切り替えて、切り替えて、切り替えているうちに問題は借金みたいに膨れ上がって、どこかで歪みが生まれて崩壊していく。そんな悪い循環の中に日本はあるのだろうと思う。


その世の中に対して、私はどんな姿勢でいるかというと。


シンプルに言うと、いろんな人を見ている。よく観察している。

レッテルは貼らない。たとえ多くの人がその人を「クズ」と言っても、明らかに人格が破綻している猟奇殺人をしてきた死刑囚だとしても、その人間の命を否定しない。

きっとわからない人にはわからないことだけど、どんなに悪いことでも、否定はできない。「悪」と「否定」は違うんだ。

悪はみんなで決めた基準。否定は全てをぶっ潰して殺す行為。と私の心は語っているんだな。


私の父は、父としては「クズ」と言える部分がある。本人が見たらかわいそうなのでこれくらいにしておくけど、私は子供の頃お父さんとよく衝突したし、たくさん傷ついた記憶がある。それはほんとになくなることはない。

離婚して以降、何年も父を心の中で「いなかったこと」にしていた。完全に存在を「否定」していた。私の心の中では、父は死んだことになっていた。

でも、大学の課題で「家族」がテーマになったとき、いやでも噴き出してきたのは父の記憶、父の残り香だった。

それから私は少しずつ、父という存在と向き合うようになった。実際とても辛かった。否定して考えないようにしていた問題だったから。

最初は連絡先の交換から。電話で少し話したり、姉から父の近況を聞いたり。そして8年ぶりくらいに父に再会。

最初の頃は、会った帰りは毎回泣いていた。辛かった頃の自分が溢れてきてしまい、父の存在をまだうまく受け入れられず、ぐじゃぐじゃに壊れてしまうからだった。

父と娘の関係を新しく積み重ねたことによって、今は笑って話せるようになった。父はクズとか最低とかじゃない。その言葉だけでは、私の気持ちは説明できない。私はきっと父が好きだ。親としてどうなのか、社会人としてどうなのか、人間としてどうなのかと言われると言葉に詰まってしまうけど、それでもなんか、死ねとか殺すとか嫌いとかにならない。憎んでいた時期を経て、ここが良いところだな、面白いな、凄いなあと魅力を感じている。今までのことはなかったことにはならないけど、ここまでに至る心の葛藤、気持ちの成長は一体誰のおかげだろう?実はめぐりめぐって父はとても親として素晴らしいとも言えるかもしれないぞ?


そんな感じで、今は「父は父だな」って思えるんだ。


私の場合はこんなだけど、逆もあるだろう。父が本当に亡くなって、でも、心の中に父は存在している。それも、出来事や存在を抹消できないことの一つの証明だと思う。


荒川修作の言う「死なない」ことというのは、私の言葉で置き換えれば「否定はできない」ということなのかもしれない。(荒川修作の説明は省略します)

「否定」を「否定」する「肯定的」な力の向きを感じる。言葉にするとややこしい。複雑だ。こういうのを物理のグラフみたいな、幾何学的な何かで表現できそうだなあ。


こんな経験を通して、いろんな人と出会い、いろんな人と関わりあっていろんな摩擦があり、いろんな発見があった。

人を見ていると、発見がいくらでもある。

私はこの発見が大好きで、大好物で、エネルギー源で、モチベーションなんだろう。私はきっとそういう生き物なのだろう。

だから、いろんな人と出会うほど成長できると実感している。

私は自分のこの姿勢がとても気に入っている。


この人は「クズ」だとか、「バカ」だとか「変」だとか決めつけずに、いろんな視点からその人を見る。その人のニュアンス(表現)を洞察し、そこにその人の生き様を垣間見る。そうすると、一言では言い表せない「その人」が立体的に、もはや三次元ではなく四次元、五次元となって立ち現れてくる。


そこまで味わう。

ご飯と一緒。噛めば噛むほど味がする。

みんなほんとに面白い。


さんきゅー!!






2016年7月5日火曜日

I was you

時々、ブログを更新したい。
文章を書くときは、sugar plantがいい。
sugar olant / rainy day

金がない、こんなんで芸術なんてやっていけるんだろうか。と考えていたら仕事が舞い込んだり。
食いつないでいるなあ。

山はいいなあ。川はいいなあ。音楽はいいなあ。酒はいいなあ。
慧くんに会ったとき、帰り際に「飲み物買いたい」って言ってビール買ったら、「そういうところがともちゃんのいいところだ」 と言われて嬉しかった。
私がよく「だめ」とされるところを良いって言ってもらえて嬉しかった。
あと、人っていちいち、そこがいいところって言わないから、そういうのを言ってくれる人と友達であることが嬉しかった。

人と土地と出来事って、記憶という形で強く結びついていて、何かの出来事を思い出すと、一緒に過ごした人が鮮明に蘇ってくる。
 まあなんとなくそんなことを思った。

仏関連のツイッターアカウントで見かけた寺の御札がかわいくてびっくりした。
慈恵大使である良源の別称で角大師というらしい。つのの生えたやつ。
味があって、いいなあ。


良源

この前、四ッ谷の田宮神社に行った。
こぢんまりとしていながら、とてもエネルギーのある神社だった。
あと、ついこの間は長野のおっきな神社も2つお参りした。
山があるってのはすごい。演出がすごい。壮観。
きっと良い縁が繋がっていく。