2012年3月26日月曜日

今の自分の声明

              2011.11 「瞑る」 サイズ可変  素材:グラスデコ 


statement

 私は(自分-他人)(夢-現実)(物質-幻)の間にある境界線や、それを越える出来事を表現によって捉え、見つめ続けている。
 私にとっての制作の原点は、自身の子供時代の記憶である。
 地面にうつる自分の影を追いかけ、ビー玉やおはじきやしゃぼん玉などのきらきらとした輝きを放つ透明な物を好み、動くものに喜びを感じていたあの頃の感覚。子供は目の前の世界に対し、意味を求めるのではなく知覚を先行させる。ただ目の前で起きたことに感動し、好奇心を働かせ、現象への興味が丸出しだ。無意識の中からとりだされた感覚、無選別に歓喜し恐怖する心。そこには人間の本質や潜在的な意識が強く現れており、理論や観念に捕われぬ本質的な欲求や感情がある。私はそこを常に見つけ、確かめ、深めていくことを制作の動機としている。
 また、私の描く絵はカラフルなキャラクターにあふれている。それも幼少期に触れた物、子供向けの教育番組からインスピレーションを得ている。私にとって教育番組の歌やアニメも心のときめきを担う重要な存在であるのだ。

 私の興味は、宗教や古代文明に関連するモチーフや形態へも向いている。
 アボリジニやマヤ文明の遺跡、チベット密教の教えとそれにまつわる曼荼羅に、理屈よりも先に心に届く「得体のしれない強さ」を感じている。無意識の世界から受け取った論理や構造というべきか。真理、というものかもしれない。そのエネルギーを目の当たりにし、ただわけもわからず心を揺さぶられる感覚があるのだ。
 そういった「神」や「精神」などを表現するものに惹かれる理由と自身の絵画表現の接点は「幻だけど幻じゃない」というキーワードで関係している。
 そもそも私は中学2年生の時の「曼荼羅を描こう」という美術の課題をきっかけに作家を志しはじめた。その時点から「曼荼羅」の構造や形態を表現に用い続け、曼荼羅の持つ「中心から外に向かって飛び出す形態の構造」に着目し、大学入学以降も蝶々や花、放射状の線などを描き続けた。そこから派生して仏像やキリスト像の後光、教会のステンドグラス等の「光」を用いた表現について考えを拡張するに至った。
 「光」は目に見えるが触れられない。物質ではないような物質だ。幻なのに幻でないもの。透明なのに存在するもの。光と透明という曖昧な現象をヒントに、ガラス面に透明な絵の具で絵を描く手法は導き出された。
 思えば、私はずっと心の豊かな人になりたい、悟りを開きたいと考えて生きてきた。例えるならば、私の心は美しい湖の水面のようでありたい。昼間は太陽の光を透過し湖底をも映し出し、夜は月の光をあるがままに反射する。光を捉え自らの心を外側へ解放し、外部のあらゆる現象を心に反射させたい。
 私は絵画においてその実践をしていると言える。
 ガラスに描いた半透明な絵は、外界と光を透過し、輝く影を地面に落とす。鑑賞者が見つめている作品は物質であり同時に現象でもある。「透明」とはその間のようなものだ。そこに内面から生起したイメージをのせる。すると絵が媒体となって鑑賞者に光を意識させると同時に、光を引用して絵の心情を伝える表現が成立する、というのが私の思惑だ。作品というフィルターによって(物質-現象)(夢-現実)(自己-他者)の境界を横断するのである。

 あるかないかわからない「自我」と向き合うことは、自分という他人と向き合うことだと私は思う。他人と自分。現実と夢。今確かに目の前にそれらは存在している。しかし、曖昧で確実な手応えというものがない。あるのか?ないのか?これは幻影なのだろうか、それとも絶対的な真実なのか。何が正しく何が意味を持ち、何のために存在しているのか何一つ定かではない。もはやこの世にあるものに意味などない。生きることにも、死ぬことにも、意味がない。

 無意識からうけとった論理や構造を、きっと幼い頃から感じ取って生きている。そこには覆らない真理や、科学で理解しきれない謎や、あらゆる不思議と神秘が満ちている。感覚とはあらゆる謎とともに、あらゆる矛盾、あらゆる手応えを受け止める器官である。同時に、謎に対して手応えを求める欲求そのものであると考える。だから私は実感したり共感することや、確実に感情を捕まえる瞬間を求め続け、表現し続けているのではないだろうか。
 幼少期から私はよく虚無感に襲われる子供だった。楽しく遊んでいても急に体が動かなくなり、感覚が遠のくことがあるのだ。それを虚無感と気付いたのは大学生になってからだったが、生きている意味がわからなくなったときはいつもそのような状態におちいっていた。
 何故生まれたのか、何故死ぬのか、本当に死ぬのか?死ぬなら何故生きているのか?どうしてここに生きているのか。そんなことを考え、不意に心と体が停止する。そして、24歳を目前に控えた今の私はとうとう、生きていることに意味はないのだと勇気を持って結論づけた。

 生死の繰り返しに意味を求めても仕方ないと気付いていたと思う。それをひたすらに教えて教えてと求めることは、は空っぽの心を一生懸命掻き回すように、虚ろさを深めるだけだった。私は「生きている意味」という言い方で、実は生きてゆく「自分の意志の在処」を探し求めていたのだろう。
 結局私は生きていることには意味を見出せない。しかし、実感や共感による手応えには意味を見出せる。だから謎を手放さないで作品にし続ける。それが、私の人生における「生きている意味」を表す行為だ。

 私の心は「中心から外へ広がる形態」と同じく、外に向かって飛び出している。他人のことを考えることが好きだし、お互いにお互いを何か素敵なことの手がかりにしたいと思っている。だからこそ、私は作品を見て元気が出たり、救われたいと思っている。私は人を救う表現しかしたくない。
 てらいもなく、壁もなく、人の懐にすっと入っていく表現を、透過と反射の原理で導きだしてゆくのだ。