2015年1月30日金曜日

だいすきな

だーーつうううーー!
ショーヘイあーてぃすと つだしょーへい
現代美術家の津田翔平が、常陸太田アーティスト・イン・レジデンスの「ヒタチオオタ芸術会議」での展示や地域のこと、なんてなんてなんて、丁寧に、なんてなんて優しいんだ・・という、一つのご飯粒も残さずじっくりよく噛んで食べてくれてる感じで、書いてくれてる。途中までしか読めてない。心がじーんとしすぎてしまって。
すきだー!
というわけで読んでね。
津田さんの振り返るヒタチオオタ芸術会議


そしてようやく、これまでAIRで招聘したゲストたちのプロフィールが!!!

やっとーー!

ゲストのプロフィール


たった6人なのに佐藤が2人って。やっぱ佐藤の勢力はすごいな。日本一勢いのある名字。


ここに村上慧のせられないのがなー 早く正式に招聘しなきゃ

というわけでよろしくさとしくん
よろしくなー!私以外にも呼びたがっている人がいるんだよ!
またメールするよー!(みてるかなー)


愛の温度と距離

喋る言葉は茨城の人たちや一緒に住んでいる人に影響をうける。
好きな人とメールしていると好きな人の言葉遣いに似ちゃう。
もう恥ずかしがらず受け止めるしかない。

あゆねに会って、まっっっったくネガティブな気持ちにならない自分に気付いた。

普段、人に会うことだけで常にマイナス要素がつきまとっている自分に気付いた。
とても大事なところに気付けたなあ。
あゆねと話す時は、どう思われてしまうか考えない。考えなくてもいいから。
そうか。こうやって他の人とも話せばいいんだって思えた。
一瞬、つかみ取れるものがあった。
この感覚にまた触れたいなって思った。

昨日ある人に、ブログに恋のことばっかり書いてると思ったら、意外とまじめにブログ書いてるねって言われて

あらためてさらっと流し見してみたら、ほんとだった。
まじめやん。


今日もいっぱいワークショップとか思いついたし、自分の表現をもっともっと、素直に、誠実に、じっくりと、一番だいじなのは「コツコツ」と!!!!


やっていこうって思った。強く。萎えずにやろうって。私の軸はわかってる。

この歪み、変さ、独特な部分、それが味なんだよ。
社会的には押し殺して、さらりと受け流しつつも、自分の世界の扉は開けておく。
気持ちよく生きよう。ようやくね。


絵ってビジュアルの表現だし、自分と向き合う行為でもあるから、どんどん内にこもりやすい。絵が好きってとこからはじまって絵を描く人も多いので、愛が依存や執着にもなりやすい。

密室に一ヶ月こもってましたっていう匂いがプーンと漂って野暮ったくなりやすい。
距離感を保つのがとっても難しい。
インスタレーション作品のように色んな要素が絡み合うものだと様々な視点を持てる。
立体作品も、3Dで捉えるから様々な視点を持つことができる。リアルな作業だし。
どちらも色んな行程があるおかげで、視点を複数持ちやすい部分はあると思う。
絵画は、つい立体であること、世界は動画であることを忘れがちになる。
私は、絵も動画だと思ってる。人の目にうつり、その人の中で像が揺れ動くようじゃないと、だめなんだ。って言葉にしてみると、停止させてみたい。なんて思いも生じてしまう。。笑

突き放し過ぎても愛がない。距離を置いても温度が保てること。それがすごく大事。

密室の体臭じゃなく、風通しのいい空間を意識したい。
私はそういう心地のいい絵画を描きたい。
たしかに密室の面白さはあるから、それが駄目とは言わない。
ただ、執着も度を越えないと面白みには繋がらない。

とにかくアートに否定や肯定、正しいや間違いという観念は持たないほうがいい。

だから否定ではない。しかし、おもしろくない絵画作品がどうしてそんなに野暮ったくなるか。そこは考える余地がある。
芸大の絵画の展示たのしみ。超冷静に、超情熱を持って、見てやる。


人には好みがあるんだ。でも、好みを越えてしまう強度ってのもある。

そういうことですね。
価値なんてのは外から勝手につけるもので、作品自体が持つものじゃない。
だから価値があるかないかなんてのは、自分がそこに温度を込められたかどうか、でもいい。
その温度が、26℃でもマイナス5℃でもいい。


あら。てきとうにitunes流してたら、なんか懐かしいとおもたら、あれやん。

名前おもいだせない。
夏よく聴いてたのに。
名前なんだっけ。
あえて名前みない。みちゃった。すぱるたろーかるずね。


距離を置いても温度を保つ作品。

それが愛だね。


愚か者たちに聞かせたい。

そして自分の胸には常に唱え続けたい。


悲しいくらいそれだ。



めくるめく翠由子との出会い

大切な人がまた1人増えちゃいました。

小学校1年生から同じクラス、中学も同じ、一緒に受験勉強して知らぬ間に志望校がかぶり、気付いたら高校も同じクラス。そんな幼なじみの親友あゆね。

私の運命の人、あゆね。

あゆねの旦那は中学生の時から髪を切ってくれてる美容師さん、えいじ。

私も中学の時から知っている。

あゆねとえいじの子供が11月20日にうまれた。

蠍座の女 すゆこ!!!

すーゆこ!って書いたあとに、横にすゆこスマイルの絵文字があったら付けたい。

もー脳裏に焼き付いちゃっった。声もかわいいんだ。すげえかわいいんだ。

人の赤ちゃん可愛いなと思うのとは違う次元で愛おしい。

あゆねに似てる、えいじに似てる、この表情はあゆだ!これはえいじだな!
半分ずつ入ってる女の子。最高だ。なんとなくたまにともみにも似ている。
おでこ広くて、眉毛があほで、でぶなとこ。笑
常に変わり続ける表情をみて、仕草をみて、二人でずっとアテレコする遊び楽しかった。
私たちの遊びもどんどん変化する。
変わらないのは二人の想い合う心かな♡なんつて
こういうこと言っても「あはは、それそれ。それやな。ふふふ」って当然のことのように受け入れてくれるのがまた良い。
しょっちゅう泣いてぐずるので、だっこしてゆさゆさしながら、色んな歌をうたった。
すごく陽気な曲でスっと寝たりしてしまう。ちゃうやろと思いながら。
どんな曲がいいかなって考えるのも、いつもと違う脳を使うので面白い。
小学生の時二人で作った歌をすゆこに歌ってあげた。まるで有名な曲かのように歌い継ぐのだ。ふふふ。

人が寝入る瞬間を見ることって、滅多にない。

目がふわっと閉じて、すーっと寝る。そしてピギャアと目覚める。君はなんて自然でオリジナルなリズムの中で生きているんだい。
今から、自分の身体がどこまであるのか、知るんだね。
そして、這いつくばって移動する方法を知るんだね。
立ち上がって二本足で歩くことを覚え、噛んで食べることを覚え、自分の名前を覚え、ボタンの留め方も、箸の持ち方も、いっぱいいっぱい覚えていくんだね。
すゆこが20歳のとき、ともみとあゆねは46さいだね。
えいじは57歳だ!きっと金髪のおじちゃんだ。
三人で、まずは梅酒でも飲んでみたいね。

まだ二回しか会ったことがないすゆこ。

初めてのときは、まだ手のひらサイズでお腹の中にいたね。
いっぱい栄養もらって、ちゃーんと出てきて、綺麗な鼻の穴ですうすう息をしている。
偉いなあ。




すゆこ。とにかくどうしても言いたかった。







2015年1月28日水曜日

めくるめく想いと 身近な手触りを通した表現

創造は破壊から。
積み上げたものもぶち壊せる。
なぜか。実体がなくても本質はあるからだ。
心にはそのエネルギーがみえている。
壊れて失われてしまうものも沢山ある。
そこから芽吹くものもちゃんとある。
エネルギーは損なわれないから。
永遠に失われるものはひとつもないから。
だから壊せる。壊しちゃいけないものは目に見えないところにちゃんとあるから大丈夫。
過去にも未来にも、そこに在るものがその瞬間の全てだ。
という現実でしかない。
現実は嘘とか真実とか、全部ふくんでいるんだ。
現象は、エネルギーがちょうど静止した一瞬の輪郭でしかない。

様々な憎たらしい気持ちがこみあげるとき

情けないとか、悔しいとか
盲目的に燃え上がる炎が心には映る。
もっと五感を研ぎすましてみる。
自分が次第にみえてくる。

うまく言葉にできないけど、

現実の目を閉じて心の目を開いていくのを感じた。
そこに言葉はちらほらとしかなく、色と流れがあった。

私のすべきことは私の魂が教えてくれる。


心を静かに研ぎすますと、変な雑念は消えてく。

しょうもないことは薄れてく。
ぼんやりと景色が見える。それだ。私が描くべきものはそれ。
シャーマン、新しい世界へ。
新たなる次元へ。(これまでが低すぎたんですが)
この一歩を成長と呼ぼう。ここからはじまる旅を、私は感謝と呼ぼう。
私のもとめているものの微かな香りに誘われて。


すごくさみしがりやで甘えん坊なのはファザコンってことかもしれない。

おじさんの匂いに敏感なのも、ファザコンってことかもしれない。
臭いこと、苦いこと、痛いこと、そういうもので快楽を感じる私は変態かもしれない。
どMかもしれない。

でもいい匂いも好き。無香料じゃないと気持ち悪いので全部無香なので、たまにはいい匂いのものをそばに置いてみようと思う。



絵本制作でこれまで描いたものを描き直す決意をしたのだ。

遅過ぎる決意だ。
2月中に描き上げるんだ。
死にものぐるいで描くんだ。
壊す勇気!!!
破壊からはじまる創造。


大橋トリオって間違いなく良いな。

本日は「めくるめく僕らの出会い」とゆう曲ばかり聴いていた。
CDショップで借りなくちゃ。カリカチュア!


シャルリー・エブド。


イスラム。



世界が大変なことになる。


身近な手触りは、世界にちゃんと繋がっているはずだ。



だから忘れるな!






お隣さん宅でのお昼。

2015年1月26日月曜日

感謝と成長(決意)

思考を外の世界に繋げていくこと。
外の世界の出来事と自分の思考を客観的に俯瞰しながら結びつけていくこと。
共通の言語を模索すること。
人と対面しながら心の殻にもぐらないこと。
外では外での勝負をすること。

楽な方へ逃げないこと。
境界と限度を作らないこと。
常に多様で、常に破壊できる柔らかさを忘れないこと。
自分の弱さと向き合うことを、存分に楽しむこと。
弱さをひけらかすこともせず、隠し通すこともせず、あたりまえに無視せず、傍らに感じていること。
破壊からはじまる。弱さを知る。甘えずに大切にする。


ダライ・ラマ瞑想入門を読んで心を落ち着けた。
そして、北川フラムのインタビューと様々なニュース記事を読んで、外の世界を冷静に真面目に分析していた。

若手アーティストたちにインタビューがしたいと思った。
みやたさんは地域からアートを掘り出していく方向性を持っているので、私は現代アートを伝えていく方向性を持つのも良いんじゃないかと考えていた。
アーティストだし。物を作る人間だし。
地域から学ぶこと沢山ある。そしてアーティストたちから学ぶことも沢山ある。
地域を体験することができて良かった。それをいかさないわけにはいかない。
体験すること。アートも地域も、体験が全て。
シンプルになっていけ。私の精神は至極単純なのでごちゃごちゃは苦手なんだ。
そのための思考の整理なはずだ。より複雑にしてどうする。

子供たち、教育文化、現代アート。
境界のない場。まじりあう場。観念が驚き弾けてしまう場。
優劣のない場。集中力で満たされた間。
場と間。境界。限界芸術の無限さ。

自分のこれまでの経験をいかせ。


文殊菩薩の甚深なる智慧。弥勒菩薩の広大な行。


私、村上慧の活動について文章を書きたい。
論文書きたい。

彼は人間の色んな可能性を背負って歩いてる。



2015年1月25日日曜日

カフェ・イン・水戸R 公開ミーティングに参加


「カフェ・イン・水戸R」の第二回公開ミーティングに行ってみた。
知ってる人も数人いた。茶の間の若旦那とか。
8月からはじまるカフェ・イン・水戸Rに向けて、RE MITO100(リミット100)という、水戸の人しか知らないような些細なこと、たわいもないことから町を考え、町のネットワークを浮き彫りにしていくプロジェクトが進行している。
水戸の町で巻き起こる100のプログラムを企画するため、皆で水戸のことを考えた。偕楽園や梅の木などの大看板はあるが、表にどんどん出ている情報ではなく、ものすごくローカルな、ディープな、当たり前のなかにひそんでいる、たわいもない日常のなかに潜んでいる魅力をチームごとに話し合いながら引き出していった。
「個人のなかの水戸を見つけあう」のが、昨日の公開ミーティングの内容でした。

水戸の数少ない知識を駆使して、水戸について沢山考えた。
おかま坂とか、ロマンス坂とか、はってん場とか、そういう情報しか覚えてなかった。
卵焼きの美味しいジャズバーは有名だった。散歩の達人とかに載るくらいだもんな。
話しながら気付いたことだけど、水戸の人って名前をつけるのが得意だなって思った。
おかま坂もそうだけど、いろんな場所にいろんな通称があるし、ミヤタさんやチホさんが私のことを「ネガティヴポップ」という言葉で端的にまとめあげたのもそうだし。
物語をちゃんといかして名前をつける。
他にも、水戸出身の人にコドモ妖怪スグイビキと名付けられたし。
何でも名付けてしまう水戸の人たち。

川崎の人たちってどんななんだろうな。
わかんなくて「川崎人あるある」で検索してみたらまとめサイトに「麻生区民と多摩区民は川崎のことをよく知らない」って書いてあった。そうなんだよねえ。
だって同じ沿線上に新宿や下北沢があったら、わざわざ乗り換えて川崎駅とか溝ノ口とか行かないし。町田は東京だしな!!
最寄りの沿線によってもかなり変わる。
県境にすんでいるとね。小学校から東京の学校だし、そりゃあ東京でしか遊ばないよね。
学校の子はみんな東京都民だから、神奈川県民である少数派という誇らしさは多少あった。

都心の人ってすごく似たような街並のなかで育ってるから、土地に対するアイデンティティみたいなものって全然ない人が多いと思う。
こんな話を一度、二子玉川が地元の同窓生と話したことがある。
だから自分の地元を振り返る行為とか、見つめ直す行為とかもあんまりない。
正直、地元ではスーパーくらいしか利用しない。もったいないことだ。
近所の仲良い子、島根出身だしな。


少しずつだけど自分を作り替えていきたい。
どうしてここまで人の言葉を気にするのだろう。
この「どうして」を突き詰めて考えることより、大事なのは「切り替え」の技術を磨くことだ。
そこが、これまでの林式禅問答によるスパイラルから抜け出す手段だ。
うまくできるようになりたい。
もっともっと苦労しないと。人に裏切られて劇的に成長した一年前のように。
沢山苦い思いをするんだ。
絶対に「甘んじない」んだ。勝負し続けるんだ。


私のような人間は、旦那さんは自分と似た人がいいのだろう。
毎日顔を突き合わせる人だもんね。
どうしても私には、人には、「拠り所」が必要なんだ。
自分の安心できる居場所が。


そいや、昨日は「夕映え」という言い方に美しさを感じた。


はあーそして「たま」さいこうだなあ。
イカ天初登場の動画みた。最初からこんなに世界観の仕上がってるバンドあるか。
そんでそのあとの芸能人たちの感想もよい。
こういうのわかるって言っちゃだめなんだよね。わからないけどなんかすごくいい。って言ってるおじさんいた。
なんか好き!涙出て来たけど笑いも出て来た。っていうのも良かった。

ビートルズの「girl」のカバーとかもーめちゃいいしなあ。
こんくらい突き抜けてしまおう。
突き抜けた愛のある社会人を目指そう。
悪意のない。雑味のない。しっかりダシをとった美味しい汁のような人になるのだ。




勝負する

信念によって歪ませた現実は、その人自身の迷妄となる。

私は勝負が嫌いだった。負けるのが嫌だから。
でも、勝ち負けはほんとはとても大事なんだ。
勝ちってのはある。負けってのもある。それは真実なんだ。
勝ち負けじゃない、ってのも真実なんだけど
勝ちと負けがあるおかげで成長できる視点も絶対にある。

自分と向き合うことが人と向き合うことに繋がるのはもっともだ。
だけど、何もかもを「自分と対話する」というパターンに回収してしまうことは、主観に振り回されやすい、非常に危険な習慣だ。
脆い刃を振り回し、独学で自己を警備する。意味もなく。
攻撃は最大の防御という言葉もある。
心をあたたかく保つために内にこもるのではなく、外に飛び出していくことのほうが健全ていう場合はある。

とにかく行動。とにかく外へ。客観的な視点でものをみる。自分を読む。

バランス感覚を養っていく。

自分に自信がないことを言い訳にしていい時期はもう終わった。

おっかない言葉はいやだけど、優しい言葉は人をふわふわ系にしすぎる。

大好き大好きと言えば言うほど私の重みは増すけれど、その分、受け取った相手は気持ちを軽量化していく。それがバランスの話。
言葉や思考、自分の主観に重きを置き過ぎて、実はその薄っぺらい自我に翻弄され続けていたのだ。

私の弱みは
稚拙さと、主観性の強さ。

良い大人になる。

尊敬する大人たちの指摘に感謝します。
そして、尊敬できる人生の先輩たちの、振る舞いそのものからも沢山学ぶことができる。
感謝。


いやーとにかく甘いなー。甘かった。自分の甘んじていた部分はっきりした。
自分の甘さに負けない。

勝負しろ。


2015年1月21日水曜日

アルベトレッペサロンでしたー!

言葉にして言葉にして言葉にして言葉にして言葉にして尚感じるのは、どんなに言葉にしても言葉にできない部分にぶち当たるということ。

今日は水戸市国際交流センターでアルベトレッペさんが主催する「アルベトレッペサロン」に常陸太田AIRとして登壇ささていただき、事業の説明やアーティストの紹介、意見交換を行ってまいりました。

言葉にするほど言葉で物語りきれないモノにぶつかり、そのシルエットに触れることができる。
言葉にできないモノにぶつかることも、言葉で説明しきってしまうことも、どちらにしても悶々としたモヤモヤ気分を残すなあ。
もちろんそれは良いことである。
作家としてワクワクする瞬間である!
いつも何かを観察して分析すること。それが新たなる思考、新たなる展開へと結びついてく。

決して新しい物好きなわけではない。
いつもお日様の香りのするまっさらなシーツで眠りたいとゆうこと!


人にはそれぞれ、困った時に戻る「拠り所」があり、迷った時に立ち返る「原点」があるんだなあと今日のトークでいろんな方と話して思った。

私の場合は、地域に重きを置いた話でも絶対「アート的な見地」から物事を捉え直そうとするんだよね。やはり芸高や芸大で学んできた視点が私の拠り所なんだな。甘んじる部分でもあり、大切な部分でもあるんだな。


人前で話したり、初対面の人の質問に答えたり、こういう機会のたびに何かが体内で更新される。塗り替えられる。面白いなあ。そういう体験をART作品にしてみたい。新たな作品の着想を得た。


あまりうまくは説明できなかったし、伝わる表現がどれくらいできたかはわからい。でも最低限伝えたかったことはちゃんと言えたと思う。
私が「制作」でも「活動」でも常に心がけていることは「安易に消費されないこと」。

本質が本質に響く、何かしらの現象として他者に「体験」を突き付けること。それがアートだと思う。
そこを目指してる。


将来どうなっていきたいのか聞かれて、正直どんなことを仕事にするかよりも結婚とか子育てとか家庭とか生活とか、そうゆう方向を思い浮かべてしまった。
あらためて考えてみても、自分の内面を磨いて透き通った湖面のようにしたい、自我を越えたい、やはりそこに行き着いてしまった。

世俗的な欲求と、悟りの境地の希求。
その間にあるのが社会的な活動としてのお仕事ってやつと、表現する、作るって活動なんだろーなー。

一番大事なこと、一番どこにウエイトを置くか。そこを定めない限り選択肢を狭められない。色んな可能性をちゃんと調べて行動していかなくちゃな。

一番現実的な部分。


とりあえず、本日のメモ。

2015年1月19日月曜日

今の気持ち:とにかくきつい

真面目に文章書いてたらすっかり寝るのが遅くなってしまった。
真面目に書きすぎて、端折れず。お蔵入り。
原稿でも絵でも1枚目ってこうゆうものだ。2枚目、3枚目からどんどん良くなるものだ。
外に出るもの、出ないもの、どちらも大切にできるってことも「無駄なく持て余さずフル活用する」ことなんだな!
心に余裕持てないけど笑っておこう。


地域での面白さは、私のこれまでの観念や経験と、今ここにある世界、人、要素、構成、関係からなる景色や彩りを観察して、自分のものと照らし合わせて新たなる価値や新たなる自分、新たなる境地を追求していくところにある。

芸術家なんていらないんじゃないかと本気で思ったり、おばさまたちの技術と発想に勝てないと思ったり、私の存在ってなんなんだろうと考えたり、アートってなんだ、作品ってなんだ、私は何をしたいんだ、何をすればこの地で「仕事をしている」と言えるんだ、そんな不安や疑問や苦悩をしながら、私は私のできる仕事を探す。
意義を見つけ出したらしっかり取り組む。
そして芸術家としてどう生きるべきか、自分が思う芸術家はどのようなものか、芸術活動をどう続けていくか、自分の経験や思考をいかしてどんな社会貢献ができるか。それを考え続ける。


私は自分に自信がないもので、なんらかの形で社会に必要とされないと鬱になります。
芸術家としても堂々と、そして社会人としても堂々と仕事をし、やりたいことをし、ちゃんとお金も稼いで生きていきたい。


できれば福利厚生が整った職場でも数年働きたい。


最近へこんだり鼓舞したり繰り返しで情緒不安定だな…







11月 荒蒔邸の展示

荒蒔邸とゆう常陸太田市の里美にある古民家の展示作品です。
神域をテーマに。祈りをテーマに。
こんな表現の場を与えられたことに感謝します。
しかも常設されてます。ありがたい!!

すっごい寒い地域なので……冬の間は厳しい寒さに耐えて…がんばれ!絵!






2015年1月16日金曜日

be blind

人と関わることで人は狂気を発散するんだね。
完全に黙る時間、私が私の中を彷徨い歩く感覚がする。
誰にも、何にも語りかけないのに、誰かに、何かに生かされている。
こうやって言葉にすることでも、私は狂気を解き放っているんだね。

誰にも干渉されない生きた自分と語り合う時間。


本日の部会、そして県庁の方々との意見交換会。
大事なことを話したし、たくさん気付くことがあった。
引っ込み思案な自分はこうやって社会的な役割を与えられることで鬱にならずに済む。
しっかり刻み付いた。色んな考え。視点。魅力。
あらためていずれ。

心と体の健康な女性たち。
生活体験に基づいた提言。
なんてすばらしんだろう。
茨城は安泰だな、なんて思ってしまいました。
県庁から水戸の町へ戻り、ふらふらと歩いているときの安心感は不思議だ。
愛着が湧くほど出歩いていない水戸のまち。
でもすごく好きだ。
そこに住む色んな人のことを思い浮かべて歩くのが良いのだ。


多分押し黙っていれば、自然と解決する。
内臓の温度に心を傾けていたら、手先が凍り付くように冷たいことに気付けない。
不意に他者があたためてくれる。



あーこれさいこうだなー!

http://youtu.be/hDeXBdWutxo




2015年1月15日木曜日

続・星を食べる

感極まって、武者震いしながらギターを手にとった。

昨年の4月から星野源を軽い気持ちでコピーしはじめたおかげでコードチェンジがスムーズになってきた!
星野源、1文字ずつコードチェンジしたりするんだ。バレーコードも多い!
いつの間にか弾けるようになってた!
わあいわあい!!
このコード見たことあるから弾ける!初見で弾ける!というのも増えてきた!
わあいわあい!!

「星を食べる」を弾いてみた。
みてください。



このコード進行。
マイナーは暗いイメージをさせる短調。
メジャーコードは明るいイメージをさせる長調。
短調と長調が交互。AmとEはノッシ、ノッシと地面を歩いている感じがする。
Fで空を見上げて、Cで星空に励まされ、Gで希望を感じ、E7で堅実にまた一歩踏み出す。
AmとEでまた歩いていく。

そんな感じがした。

1曲の中に隠れているコード進行と歌詞とメロディの繋がり。
それぞれの奏でる音の繋がり。
雰囲気、外に表れるものが一体何から発せられているのか。
本体はなんなのか。
それを知る道しるべが構成要素だよね。
全体を作り出す要素と、真髄となる本質。

ギターを弾くことも心を開く大事な行為だなあ。
音楽をこうやって解体して味わうことができるって素晴らしいことだ。
神様、お母様、ギターを与えてくれてありがとう。

星を食べる

ときどき悪い気持ちにおかされて悪いこと言いたくなる。
そういうときはわざと憂いを帯びることで抑える。
悲しみのほうへ流れて、不安を意欲に変える。
したくないことをすること、したいことをすること、果たして違いがあるだろうか。
「したい」か「したくない」かより、1つ1つにやりがいと意思を持つべきだと考える。

コミュニケーションの幅広さと、伝わることの温度差。
自分を責めることって無意味。
責めることより考えること、次を考えることが大事なのに。
現状をしっかり把握することは大事だけど
己の感情がいかに浅いものか 変わりやすいか 翻弄されやすいか
無自覚に覆われているか
己の限界を知らないとわからない。
立派な人と立派じゃない人に分けられない。
人はみんな愚か者だ。

私は思春期に、自分の隙という隙を、悪という悪を、罪という罪をえぐり出しては問いただしてきた。
そんな癖が今も少なからず残っている。だけど、聡明な人間が世の諸問題について丁寧に手厚く触れている文章を読むと、やはり芸術しかない。目に見えないものを伝え続けるしかない。私の信じるものをしっかりと信じ切るだけの努力と問答をしていくんだ。と、少し救われます。


たまの「星を食べる」は永遠に聴いていられる。
永遠にこれを聴きながら、無言で友人たちと鍋を囲みたい。
無言で焼酎をお湯で割ってあげたい。
かつお節と昆布と梅を入れると美味しいらしい。
「ずず」とお湯割りをすすり、鼻から大きく息を吐くその音色に耳を傾けたい。

星を食べる は 永遠を食べている無常の現実を歌っている気がする。
食べることが愛なのか 食い殺すという罪なのか
永遠は愛なのか 無常が愛なのか

歌詞には闇と光が登場する。
この世界は、闇と光が関係している。

矢野顕子や岸田繁の歌詞でよく登場するのは「距離」の概念。
遠くにいても感じられるとか、会いに行くよとか、旅をするとか。
遠くにいったり、近付いたりする。
人と人を繋ぐコミュニケーション、場所と場所を繋ぐ移動距離。

私はエネルギーにどこまでも着目して、その真髄へ迫らなければならない。


心のねじれが自分の創作意欲を引き出している。
私は内にこもりやすいけど、今日のように、気合いをいれて勢いよく外に飛び出してみると、案外心が晴れるものだ。

1つ弱音を吐いていいですか。
私はなんて中途半端な芸術家なんだ。



椎名林檎のインタビュー、今日とてもグっときた。
読んで欲しい。

椎名林檎「いつも死を意識」「子供5、6人産む」5年半ぶり新作




2015年1月13日火曜日

浜辺と海と蝶

http://d.hatena.ne.jp/papilloner/20101119/1290180225

FC2、ハテナ、bloggerとブログを転々としてきたけど
ハテナブログは10日分くらいしか投稿がなかった。
プロフィールに「言語、絵画、音楽を中心に活動」と書いてあって笑った。
昔の言葉遣いや考え方は逆に新鮮だな。
直感で書いた言葉があると、すごく謎と未知が膨らんで面白い。
だからこの投稿のタイトルは直感で浮かんだキーワードにしてみた。
あとで読み返して「お?」てなれるように。

学生のいいとこは定期的に作家と作品の両方を見られるとこかな。
他人も自分も精査する、そういう機会は大事だなあと思う。
私はアーティストだからこんなに沢山刺激をもらって勉強になって、人間関係が恵まれているのかなあと思ったけど多分そういうことじゃない。
光の当て方。光の向け具合。光を放つエネルギーの作り方。

私なんて、人に偉そうなこといえるような人間ではない。
でもいつからこんなに前向きになったのかなあ。

2015年1月12日月曜日

絵と夢

常陸太田の生活に慣れてきて、あらためて「絵を描く」ことともキチンと向き合おうとしている。
いちいち能書き垂れていないで、描けばいい。それだけでいいのかもしれない。
考え過ぎだ、とも言われる。
作家は考えながら動く。動いてまた考えが膨らむ。変化を拒まない。
目に見えない物語を大切にする。
入り口から出口、ドアtoドアではない。
電車で一気にショートカットすることはある部分で思考停止している。
でも作家は、土地と土地がしっかり道と営みと歴史で繋がっていることを感じ取る。
人がショートカットして出口と入り口しか気にかけないことも、ちゃんと繋がっていることを形にして表現する。
ワープしている間の重さ、深さ、厚さを体現しようとする。

こんな風に日々、作家てなんなのかも考える。

誤解されるかもしれないので言っておきたい。
私は、作家と一般人は違うんだ的な主張をしたいのではないです!
誰がどうと言わなくても、自分は幼い頃から「作家」という意識を持って生きています。


最近仲良くしている子は年下が多い。
そして弱い部分や戦っていることが自分に近い人が多いかもしれない。
気付かない間に、やかましいおじさんのように説教していたらごめんね。


絵を描くことと夢を見ることは似ているなと感じる。
夢にはその日の出来事やこれからの出来事、過去の出来事がイッショクタになって現われる。
絵も、すっと引いた線が雪の中で見たイナミちゃんの帽子になっていたりする。
見たものが心の中で再構築されて、画面に自然と表れてくる。
そうか。私にとって絵を描くことと夢を見ることは、精神的な流れや意識の出方が似ているんだな。だからか。



ともちゃんの絵は素敵だねと言われるたびに、その人の眼差しに応えられるような画面にしなければ、と思う。

私はどう転んでも絵で表現し続けたいんだから、どんな不幸でも、どんな幸せでも、描くことで命を示したい。

それが職業と結びつくかはどうでもよいことだと最近思う。
私はどんな仕事をしていても絵描きであることはブレないなって、思えるようになったから。

そして、絵を描く以外にもやり甲斐のあることって沢山あることに気付いたから。


能ある鷹は爪を隠すという言葉のとおり、頭のいい人たちは賢さをひけらかさないからこそ利口さが際立つな。
そんな頭のいい人たちも好きだし、がむしゃらに人間がぶち当たらざるを得ない壁にぶつかっていく人たちも好きだな。
考え過ぎだとか、生産性ないよとか、滑稽な行為として捉える人も中にはいるけど、作家同士でもつい大人なアドバイスをしてしまう人はいるけど、私はぶつかり続けて壁が破壊できなくても良いと思ってる。壁じゃなく自分が壊れることが本当は大切だったりもするので、立ち向かえ、そんな自分を貫け、と鼓舞する。

莇平は人がたくさん来て一緒に色んなことをするので、人見知りで集団行動が苦手な私には居心地の悪い空間にもなり得るんだけどそうならない。
あそこにいると心と体が解き放たれて気が緩むけど、足を運ぶ作家のそれぞれが何らかの普遍的なでっかい壁に立ち向かっていて、その眼差しや熱い言葉に触れることができる。それが毎回、輝かしい。

一度会っただけで好きになり、1年ぶりに会ってお互いに笑みが溢れる、そんな関係も嬉しい。そいで「林さんは最高です」て言われてすごく嬉しかった!(女性)


先輩にじっと顔を覗き込まれて、老けたななんて失礼なこと言われるのも嬉しい。ちょっと今、肌荒れてるんだよなあ。それもやはり老けたとゆうことなのかな。

先輩の意見に同意したり疑問をぶつけたり、自分はそうは思わない、と意見したり。
抱き合ったり崖から落とされたり炭を顔に塗られたり酒を注がれたり。

なんとなく思ったのは、どんな男性も根底にあるエネルギーの源は「性欲」なのかもなってこと。
そして女性は「母性」なのかな。

ぼんやりそんな気がした。


考え過ぎて動けなくなったら、考えるのをやめて動けば良い。
考えること自体をやめたら、心はどんどん遠ざかって逃げていく。
人は変化する。心は動く。どこへでもすり抜けていくもの。
でも考えれば、想像すれば、心はどこにでも結びつく。
遠くに消えた気持ちともまた再会できる。

安易に気持ちを言葉にすることによって、掴みとれそうな実感を逃さない。
人を褒めて気持ちを放出したい時もあるけど、褒め過ぎて自分をないがしろにしない。

言葉にせず考えることも、考えて言葉にすることも、同じくらい大切なことだ。
人を褒めることで気持ちが癒されたり鼓舞されることも沢山ある。
けど、他人をしっかり客観視することも大切。
自分がどうして苦しいのか、全部まっさらにして、想像しよう。


小学生の頃は、自分の気持ちを文章にすること、物語を書くこと、絵を描くこと、アニメを作って声を入れること、踊ること、漫画を描くことが日課だった。
日課多いな。

言葉にすることも、絵を描くことも、漫画を描くこともそれぞれ大事だから私は全部やるだけ。
漫画は根気がないと描けないので遠ざかってしまったけど。あれはなかなか大変な作業だ。
漫画にはネガティブなことを沢山描けた。くだらないことも描けた。感情を丸出しにしても歪まない媒体だし、逆にものすごく表現の仕方を繊細に考えなければいけない媒体でもある。
漫画描こうかな。
フラストレーションが溜まらないと漫画描けないんだよな。


私は私の生を持て余したくない。
結ばれても離れても、私が私であることは変わらない。


執着や依存から少し距離をとることはご飯をよく噛んで食べることに似ている。


私が大切だと思う人たちが苦しむ姿は見たくないものだけど
苦しみの中でも、ひたすら瑞々しい眼光で温度を上げようとする表情を見ればグッとくる。
そういう人でありたいし、私の大切な人たちがそんな眼差しで生きぬいてくれることを願う。


しおりちゃんと代々木八幡から新宿まで散歩した。
そして中華料理を食べ過ぎた。
またしても説教臭いことを喋り過ぎた気がする。
私はまるで自分のことのようにしおりちゃんを見ているなって思う。
そのせいで、より冷静により現実的にシビアに考えてしまう。
一緒になって考え込んでしまって、話を聞いても「うんうん、いいんじゃないかな」と言えない。ほんとにそれが良いのかどうかなんて、まじでわからん。誰にもわからん。
だから、自分が感じたこと、わかること、考えていること、全部しおりちゃんに伝えたくなってしまう。
だけど言葉なんて脆いものだ。
何一つ確かに伝えられない。
だから私は「体験」で伝えたい。
表現でちゃんと伝えたい。


みんな私にないものを沢山持ってる。
なかなか自分って見えないものだと思う。
普通でも変でもいいから、生きたい方向に踏み出していく体力と度胸があればいい。
そうだ。女は度胸。
度胸があるというのは最高の褒め言葉だと思う。





2015年1月8日木曜日

方向感覚を失う

以前書き留めたブログを公開にした。

いきもののこころ。うんどう篇。

身体のこと、建築のこと、運動のこと、生き物であること、こころのこと。目、彩り、鮮やかに浮かび上がるもの、靄にかかって消えてゆくもの。

途中になっちゃったからやめてたけど、そのまま公開。

さて、1月8日だね。

積読で溢れる中、ヤンキー人類学を読む。読書って途中で頭がキラキラ明滅し始めるので読み進むのが難しい。

原因はこれだ!
・読書に本気すぎる
・感覚が刺激されて、いてもたってもいられなくなっちゃう

冒頭から面白すぎるよ。
いい気分。熱くなるなあ。


年始は病み上がりで居酒屋に行ったな。
途中から生き物が声を発してコミュニケーションしている様子自体が面白くなっちゃったな。
私はいっちゃってるのかな。
思えば空鼠で出会った人たちとは空鼠や吉原でしか会ったことなかった。
どうりでこの前は変な感じだったな。

いつも人の家で会うから、もはや人と外で会うことが不思議になりつつある。

実家の近くと水戸以外は不自然に感じる。
生活と結びついてない感じが変な感じなのかもしれない。

全部赤の他人ってゆう感じが変な感じなのかな。


風邪から復活してからすごくぼけっとしてる。
なんとなく感情が薄くて。まだら。

でも絵は楽しい。
思い出してきゅんとすることもある。

沈黙と孤独が足りないのかもしれない。

刺激が足りないのかもしれない。

なんかぼんやりしてる。あれかね。休みぼけ?

10日の雪国で、心も体も真っ白になってこよう。


人の温度に触れたいな。
触れられないから、真っ白な雪の中に全身を投げうって、熱い酒を飲み込んで、自分の体温を感じよう。

昨年、北澤潤さんと日比野さんと雪の中で酒を飲んだのが懐かしい。
3人で川を渡って向こう岸まで行ったな。
久しぶりに悠くんに会えるな。
同期の純ちゃんもいるな。
なんだか長い付き合いだなあ。
人見知りなので、とりあえずその辺にくっついてよっと。

私、自分のキャラクターとか考えちゃう。
これこそ観念だよなあ。
余計なことだよなあ。

交流とかね、私にはとても難しいんだ。
素敵な編み物もわあ、素敵だなあって思っても「あらー!すごーい!すてきー!」なんて言えないもの。
「ふわあ、すごいなあ」しか言えないもの。
そうやって人影にどんどん隠れてしまいます。

そんなだから、私は絵に気持ち込めてるんだな………

あと、世間話が不得意で、長話になると途中から布団に飛び込みたくなる。





なぜ人は人と比較するんだろう。
人が相対的なものであることと、比較して卑屈になってしまうことは必ずしも一致しない。
認識と現象にはずれがある。
心は透明にしないと濁ってしまうけど、透明でも不和が混じれば像は歪む。

2015年1月5日月曜日

いきもののこころ-うんどう-

年末年始で二度、作家の友人たちに会うことができた。
4日寝込んだぶりの外界は、未知のできごとで溢れかえっていた。
私はそこで、喜んだり、驚いたり、物を避けてみたり、線を踏んでみたり、目で追ってみたり、近付いてみたりした。
自分は背が高かったらいいなと思うこともあるけど、実は低くて良かったなと思ってる。
背が低いと、地面が近いから。
幼児の頃ほどではないけど、地面のディテールがはっきり目に見える。

病み上がりのまっさら状態だったからか、お酒でぼうっとしていたせいなのか、私の心はぶよぶよのゴムみたいだった。

人も自分もそれぞれ別のことを言う。
色んなことを言う。
それはもう、勝手なことばかりを言い合っている。
笑ったり、苦悩したり、そこから全然違う話に飛んだり。
私は真剣に話を聞いている振りをしながら好きな人のことを考えてる時もあった。
私の頭の中は誰にも見えやしないんだってことがその瞬間面白く感じた。

だんだん、自分も含めた人間たちがさとし26歳男性、なおこ27歳女性、とかそういうものから逸脱してゆく感覚に陥った。ふぬふぬの物体からほなほなの声が発せられて、ぬほぬほ絡み合ってるの。て、私どんな境地だよ。
病み上がり飲酒おそろしい。


私は彼らの話をちゃんと理解できてるんだろうか?
さとしくんの「やれやれ、もっとやれ」でつい調子に乗って語気を強めてしまったりもした。