謎の筆記体で心のビート。
心の中でばかり刻み付けてる。
どこに向かうのかこの気持ち。
自分も他人も美しくたくましくなるために、この気持ちを使う。
大切なのは自分の命に限らない。
根と葉
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孤独と愛について考える。
1人で叫びたいほど幸せなとき私はほんとに叫ぶのか。
友達に電話するのか。
演じてしまう
いかんともしがたいジレンマとは
頭の中であてはまる居所を探す。
ショッピングしてるとき、こんなイメージの女の子になりたいって思ってるのに
何を買ってもそこにたどり着かない。
なんとなく自分は自分のままでしかない。
そのイメージには近づけず、ともみがともみを更新するのみ。
それに似てる。
色んな言葉で装飾したり、表情を作ってみたりするのに
飛び出してくる文章は、一体、過去、未来、現在、どこから飛び出した言葉なのだろう。
過去と、未来と、現在が結びついた表情が広がるのだろう。
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1人であろうと2人であろうと私は変わりたくない
変えようとも思わなくなった
変えてほしいとも思わなくなった
ずっと前はそんなことで悲しんだり戸惑ったりしていた。
私が愛、と美しい言葉で優越感に浸って見せつけてるそれは、醜いごちゃまぜの等身大の、単なる自分だった
まあそんなもんなんだけどね
愛は自然物だ 有機的だ
とはいえ、どんどん変わってゆく人は格好いい
きらきらと輝いている。
私はそういう人を尊敬する。
星野源には
好きを越えた何かを感じる
楽曲が凄く好きなわけではないけど
星は空に輝くから見上げる形になるけどさ
宇宙の目線で見ると、上も下もないよね
ほんとは全部同じ目線なのだろう
次元が違っても同じ目線で向き合いたいと思う。
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こんな風に、色んな想いを馳せながら、色んな気持ちがこみ上げるとき
ついカモフラージュにビールを飲んでしまう
愛おしいとともに心細いのだろう
愛と孤独は背中合わせだから
そういうこと、ちゃんとわかっているから私は私でいられるんだな
くるりとひっくり返っても自分は自分
でも、かぼちゃの種を植えて気付いたんだ。
土に潜る向きがある。芽が伸び育つための向きがあるってこと。
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最近わかったこと沢山あるよ。
最近、色んな出来事が、一つの方向に結びついている。そんな時期なんだと思うの。
教えてくれたのは日々出会う人々
日々交わすやりとり
日々の空気と呼吸だ。
原付乗ってる時、呼吸がとても浅い。
座禅を組むと呼吸が整って管がすっと通る。
ガツガツもしないし、誰かを求めることもない
誰かに恋することで他人や自分をがんじがらめに縛ることもない
軽率に誑かすこともない
狂うことなく愛しさに身を委ねながら意思の疎通を図りたい
心を通わせて笑い合えることを願うばかりだよ。
なんだかんだで、いつも愛や恋のこと考えているのね。
ロマンチックもナチュラルに。
2014年5月30日金曜日
2014年5月27日火曜日
5月23日の日記
5月23日の日記
1ヶ月ぶりの東京なう。
多摩川を越えれば神奈川県に入る。小田急線が地下に入るとそわそわする。
現象としても、心象としても、光の世界から闇の世界に突入する。
人が渦のように波のように表情を固定して滑らかに流れ散ってゆく。
人は地面を歩き、ハトは天井の端っこを歩く。
女の人が重たくて分厚い靴を履いてボテボテ歩いている。
それじゃ美しくない。
手に入れただけでは獲得はできない、と言いたい。
白いレースのミニスカートから黒のTバックが透けてる。
都会では色んな刺激が薄まるね。
地元を夕方歩いてみるとそこらじゅうに人がいて、そこらじゅうで何かが巻き起こってて、そのエネルギーの量に笑ってしまった。
昨日水府を散歩したときには、田園から県道を走る車たちを指して「都会の喧騒だ!」なんて騒いでいたのに。
常陸太田の風景や時間や記憶を、都会で持ち歩く。
最近人に言われた褒め言葉や、その表情を全部リストアップして並べてウキウキしながら電車を待つ。
乗りたい電車が10分後ってだけで、遅く感じる。
常陸太田では、バス2時間半後とかだったのに!時間の流れが違う。
お母さんが水府の鯉のぼりを使って小さな鯉を作っていた。
それ、きっとつなげたら大きな鯉になるね!
2014年5月26日月曜日
スケッチ旅行の村上さんきたる
書きたいことが沢山ある。
ついさっきまで書きたい様々なことが頭の中を飛び交っていたのに
なんでか今は空っぽ。
脳天がぼやぼやと熱を帯びていて、
心はとても静かなの。
風が吹くのをやめたからかな。
それとも、心が奪われてしまったの。
正解は、疲れてねむいからでした。
色んなことがあって、書きたいのに、思考したいのに、言葉にしたいのに。
ここ数日、いや1ヶ月かもしれない。
ずっとずっと自分の内外が変化し続けていて明らかになるものも多いが、暗黒も多い。
集中して1人で絵を描きたい。
月曜日から木曜日まで美術家 村上慧が滞在していた。
あまりにも自然にさらりと我が家に溶け込むので、なんの違和感もなく日々が過ぎ、旅立ちの日を迎えた。
と、23日にフェイスブックにこんなことを書いていたけど、慧くんのブログにも同じことが書いてあった。
私にとって最重要ともいえる吉原の壁画制作のプロジェクトを共にした仲であり、尊敬する美術家でもあったけれど、1対1で腹を割って話す機会はほとんどなかったので、とてもとてもとても新鮮だった。かけがえのないひとときになった。
これも変化の一部。慧くんていうこれまでの存在イメージと今が異なっていて、ぐらぐらと残像が。どっちも慧くんだけど。
もしかしたら、だいたい冬場しか会っていないせいかなと思った。
Tシャツの慧くん初めて見た気が。
きっと、これまでの慧くんとこのまえの慧くんが繋がる瞬間がいずれ来るのだろうな。
慧くんて鋭いこと言うんだけど、全部本質を射抜いているから、そこから面白さが生まれる。
人の鈍感さゆえの面白ポイントではなく、あまりに鋭敏なとこが面白い。
その面白さは、私にものすごく創造的なエネルギーを与える。
色々言われたけど全部輝いてた。
お互い、生きることに情熱と根性、注ぎまくってるからなのかな。
色々言われたけど全部輝いてた。
お互い、生きることに情熱と根性、注ぎまくってるからなのかな。
じっくり思考して、残りはまた明日。
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