2014年7月30日水曜日

23歳の声明を振り返る

アクセスの統計みたいなのが見られるんだけど(誰が見てるか等はわからない。ページビューとアクセスされてる国だけわかる)
自分が2012年3月に書いたステイトメントのページビューがのびてるようだった。

そいで読み返してみた。

じーん。


http://hayashi-tomomi.blogspot.jp/2012/03/blog-post.html

誤字あるし多少補足をしたいけど

今も変わっていない。

そして今は、絵画表現だけでなく、ワークショップや美術教育(っていうのかな)や地域などにたいしても、このような気持ちで表現している。
アートには幅がある。
自分にも幅があった。

私はずっとずっと幼稚園の頃からずっとずっと、いろーんなことがやりたかった。
幼稚園のとき「本をつくる人」になりたかったのも、高校でデザインコースを選んだのも、大学で先端芸術表現科を選んだのも、全部いろーーんなことがやりたかったから。

そしたらやっっとやっと今できてるじゃん!
と 気付く!

おおお!

色々考えた日でした。

高校三年生の時に書いた「フンデルトヴァッサー」についての論文を友達に見せたら、その場で最後まで読み切ってくれた。
びっくり。

以前このブログにも書いた、フンデルトヴァッサーの雨好きの理由。論文に書いてあったので高校三年生の時の発見だったことがわかった。
論文で言及できてたことが嬉しい。

アーティストとかアートとか作品とか色んなことについて考える。
学生と社会人では意識のあり方が全然違うと感じる。
先日空鼠に行ったとき、そうか彼らは壁画を描いていたとき既に学生ではなかったんだよな。ということを思い知った。


今日行ったイベント、トークの内容が薄くて不思議だった。
誰に向けてるの?アニメ初心者向け?クリエイター向け?
どういう立場で聞けばよいのかよくわからず。
文句言うのはいやだけど、やる気なさすぎじゃないかと感じてしまった。

アーティストは作品作っていればそれでいいのか。
こういうイベント開いた以上、しっかり言語で伝えてほしい。
と、主催者に言いたい。

作家の方々の作品は、ちょーーーーよかった。
その分、残念度が高すぎる!( ; ; )

懇親会も狭過ぎて全然喋れないし。もーぜんっぜん何も考えてないだろ!
作家さんとはあんまり話す機会ないし、懇親会とはいえ、そんなに長く話せないとは思ってた。だから、だからこそ、トークでもっともっと掘り下げてほしかった・・・
トークが薄かったので懇親会で話したいなと思ったけど、やっぱりあんまり話せず。

時間短かったんだろうね。そこなんだろう。
短い中で頑張ったんだろう。
超短い中で深い話するのは作家もMCも難しいと思う。
あの時間じゃ、難しいよねほんと難しいよね。うんうん。

盛り込み過ぎで中途半端でした。


色々と勉強になりました。

素晴らしい作品見て、ほんの少し作家と話したために、熱が下がらなくてギンギンでARTの話めっっちゃバリバリ話したい気分が続いています。
でも感情の高ぶりも同時にあるので、話したらけんか腰になりそうです。

冷静になるためにセーラームーン(古いやつ)の第1話見て素麺食べました。
セーラームーン〜〜〜〜〜!


明日は実家の引越し第一弾。
そして常陸太田に帰る日でもある。

引越しの日取りくらい、教えてくれよな。バタバタするなー。
疲れても疲れても走り続けるのが気持ちいい。
てか休んでると気持ち悪い。テスト直前にゲームしてるような罪悪感。毎日常にプレッシャーを感じて生きてるんですね。
これが生きるってことかな。なんて思う。

私には、私にできることしかできないけど。

考えるのは「不安」や「恐怖」や「焦り」についてではない。
それを引き起こす源自体には、そのような感情はくっついていない。それが本質だ。
その本質と向き合うことだ。それが考えること。
不安に取り憑かれると、不安そのものについて考えはじめると、負のループになる。
ってことを昔の自分に教えてあげたい。
教えてできることじゃないけど。

最近、大人になったなあ。ほんの少しだけ。

2014年7月29日火曜日

ラブソング

これからどこにでもいける。
今までしらなかった自分と、いままでみたことのなかった他人に出会って自分は移り変わってゆく。
はじめてしった感性はあなたの知性を輝かせる。
本に射し込む
たからもの

くるりのラブソングっていう曲きいて
愛について考える

私はアートって難しくてわからなかった
祈りや愛を表現してきた
自分でもそれを忘れていた
必死で心を込めることが愛なのだった
それが人に伝わったとき、初めて、これでよかったんだと思った。
ともみの想いを思い知った。


好きな作家

今日はタナカカツキのアニメの時間というイベントに遊びに行きます。
先輩や好きな作家とお話できるチャンス。
パソコンにのんびりと向き合える時間があまりなく、日記を書けずにいた。
昨日書いたのもあほみたいで公開は取りやめた。
好きな作家がもっといるはずだけど今思いつくのはこれだけだった。


菅井汲
海老原喜之助
高嶺格
デイビッド・ホックニー
アーシル・ゴーキー
李禹煥
高松二郎
原口典之






ギュスターヴ・ド・スメット


だれかわからない。


 ギュスターヴ・ヴァン・ド・ウーステイヌ 「春」


ヒエロニムス・ボッシュ「聖アントニウスの誘惑」 高校時代模写した。

2014年7月17日木曜日

YUKAちゃんがやってくる

最近きゅうに、きゅうに私、なまりはじめました。

みんなと親しく話していると同じリズムになっていくんだねえ。
なまってきたってことは、仲良くなってきたってことなんだと思う。
だから嬉しいな。
照れくさいんだけどね。

15日の気付きがすごすぎて、友達に電話して1時間半くらい話してしまった。
3回ほど言語化したから、きっとブログにも書けるはずだ!
そんな濃密な日の夜に見た夢
左の乳首から母乳ではなく体液まじりの血液が噴出する夢。
最初は押すと出てくるからちょっと面白いなと思ってたら止まらなくなって、すんごいこわくて、しかも脇の下とか腕とかがしびれて痛くて、貧血にもなってきて、とても不安になった。
女子はそういう血液には慣れているから、血の怖さはなかった。でも現象としておそろしすぎるよね。原因もわからないし。
この夢みて、なんとなく、あーこれはいい兆しだって思った。
エネルギーが外に噴射するほどの意欲。そしてプレッシャー。緊張感。そういうのが出てる。

根っからの都会っ子、天才ゆかちゃんが休暇で遊びに来てくれた。
髪の毛がピンクなので話題になる。
私が仕事している間に近所で友達を増やしてる。
そーゆーとこ好きだしすごい。ともみの友達って最高な人ばっかだなー。
人がつくる動きとか繋がりとか工夫、見ていて発見ばかりだよ。

今日は4Hクラブの方たちが看板を取りに来たこともあり、どんどん人が集まって記念写真まで撮って面白かった。
お隣さんは、ともみの絵いいねーって言って、何故か絵を持ってうつってくれた。

4Hは地元の農家さんたちの青年組織。
ボランティアで飾る植木の看板が腐ってしまったということで看板制作を頼まれて、ともみがトンカントンカン釘打って作ったのだ!それを取りにきたのだ。

飾った様子を送ってくれた。仕事がお早い。キュンとしてしまったぜ。




はあ。ねえ。プレッシャーがあっても、いきいきとしているよ。
生みの苦しみを味わう前の、子供を授かった喜び。
大事なのはこれからだ。

またこういう日がくるのだろう。とっても楽しみだ。

どうして私はこんなに明るくなったのだろう。
きっと泥の中で暗中模索してたら、ポコっと外界に飛び出して、光に包まれて、お花がぱあーっと咲いたということなんだな。

常に人は変化している。動き続けている。それはけしてネガティブなことじゃない。
自然現象だ。素敵なことだ。うむ。

これまでの物語

はじめから今までの気付き、変化を言葉にする。

本日中に言語化予定。

まとめの日

明朝。薄く、空に色味が広がっていく。
梅雨と夏のまじった虫の音がする。
ここに海がなくても、海をつくれる。
それが人の想像力だ。

そういう単純なことに気付く日々。

15日は地域アドバイザーの方が来ていて、アートやアーティストについても、きちんと言語化してくださった。
それはアーティストではないフラットな目線だからこそ、素直に受け入れられる新鮮で感嘆に満ちた言葉だった。
自分の言葉か、ミヤタさんの言葉を借りてしか言語化できなかった世界だったから、別の視座から本質を理解した上で話してくれたので、自分の頭の中の整理ができて、とてもよい機会だった。

12日、13日あたりの記憶がない。
13日はバーベキューをした。
アーティストの支援もしてくださっているNPOの一員であり、水府のこしらえ館で陶芸を教えている陶芸家の方とその生徒さんたちが集まったバーベキュー。
私のバーベキューのイメージって、野菜と肉を焼くものだったけど、秋刀魚をまるごと焼いていたり、イカとかとても豪華で盛りだくさんだった。
皆さんの持ち寄りの一品たちは全部美味しかった。
私の作った茄子の南蛮とインゲン豆の和え物も美味しかった。

そこで、アートってなんなの?現代芸術ってなんなの?という話で盛り上がった。
ここ数ヶ月、常陸太田アーティスト・イン・レジデンスの理念の説明をしているミヤタさんを見てきたし、自分もアートとはなんなのかというのを説明してきた経験がいかされて、またこれまでの活動も少しずつ積み重なってきたお陰で、オドオドしないでテキパキ喋れた。
こういうのもアートなんですよ!とか、今のアートって、壁にかける絵だけじゃないんですよ!みたいなことを話したり、レジデンスっていうのはそもそもはアーティストが一定期間滞在して制作を行ったり展示したりするんですけど、常陸太田での取組みは少し違うんですよ!って話をしたり。
ミヤタさんの見ているビジョンというのはとても明確で、それでいてとっても柔軟で、この人はほんとーに、自身にとっての「アート」というものをしっっかり捉えているんだ。
誰でも持っている「ぶれない軸」の部分と、向き合いきって理解しきって信頼しきって、そこに「自信」や「誇り」や「祈り」まで、まとっているんだ。
ミヤタさんの信じる「アート」には救いがあって、喜びがあって、だから広がるんだ。
なんてすてきな人なんだろうって、これまでよりさらに強く、そしてさらにあたたかく、尊敬してる。

そんでさ。ほんとすごいのはさ、最初は「アートってなんだい?」「え?現代アート!?むずかしいなあ」と言ってた人たちが、最終的に「あー!そうかそうか、これもアートなのだなあ!」っていう気付きを得てるの。

ここからわかることは、ほんとうにアートっていうのは誰の中にもあって、誰の日常の中にもあるんだ、ということだ。
私にとってのアートは超個人的な「自分語り」のようなものだった。
だから説明も難解だし、制作なんてさらに困難だった。
でも自分も、やっと自己の輪から抜け出せてきているみたいだ。

人に伝える言葉選びができるようになってきたんだ。
色んな言葉で気持ちを伝えられるようになってきたんだ。

常陸太田に来て、ミヤタさんに出会って、その2つでどんどんと私の頭は解体され、練り練りされ、様々な変化を遂げてきた。

今が、これまでの期間の総まとめのようなタイミング。

しみじみと自分の変化やぶれない本質について、ほんとしみじみと感じた、それが15日でした。

愛と創造の日々がはじまった。そう確信した。

2014年7月13日日曜日

満月

今日は満月。スーパームーン。

月って不思議。遠いのにずっと見えてる。素敵。
太陽と同じ方向にあるときが新月。
反対にあるときが満月。
月と地球は引力で引き合っているから影響があるんだね。
月とは、夜のほんのいっときしか出会うことはないのにね。


積読が・・・・案の定。どんどん増えています。
読むべきものも増えています。どこから手をつければいい?

美術教育と、美術そのものと、アートというもの、アーティストという存在についてしっかり考え尽くしたい。仕事上、そのあたりを提示する場面もあるし、自分の軸に沿って指導だったりワークショップだったりを開いたりもするので、言語化したりあらためて考え直すことはほんとに大事なこと。
そのために、たまにアーティストに会うのも大事。
会いたいのになかなか来ないよねえ〜。台風で悠くんのワークショップが流れちゃって、結局会えなかったし。

あと、今一番力入れてるっていうか自分が主導でやってる事業について、もっともっと詰めなきゃいけない。コンセプト、目的、目標、予算、色んな手段について。
何が一番の優先事項なのか。私は何をすべきなのか。色々、この休日中に詰めないと。
って明日で休日終りだから今日。今日まずとにかく考えるだけ考え尽くす。

おや?0時まわった。ヒヤー!



人はそれぞれの違和感とか、満たされた気持ちとか、欠けている埋め合わせられない部分を感じる器官を持っていて、ほんとにそれぞれ違うんだな。
でもそこが色々なことを考えてゆくヒントになる。追いつめられたりモヤモヤしたりしたときは、実はチャァンスなのだ。

人から色々聞いて。ふむ、ほう、といつも思う。
でも1人になって自分の器官との違いを感じて その差異について考える
それは「この人の意見は正しいか間違っているか」の判別をしようとしているわけではない。
「この人が好きか嫌いか」でもない。
その差異をただ分析して、腑に落ちるとこに着地させたいという欲求。
その欲求が私は好き。
人の考えと自分の考えのすれ違い、隔たりでヘコんだり怒ったり悲しんでいるときって、それ自体とても大事な期間だけど、実はとても盲目的な期間でもある。
埋め合わせることはできなくても、距離を「掴む」ことはできる。
感覚は何のためにある?
豊かに生きるためにあるんだ。
怒りに任せて人を傷つけたり、憎しみで心を汚したり、色んな問題から目を背けて思考から逃げて感覚を閉ざしていると、どんどん感覚は乏しくなって喜びも悲しみも乏しくなってしまう。
乏しくなっているときは、とってもとっても傷つきやすくて、思い込みやすくて、そして落ちていきやすい。自分も他人も見えなくなってしまう。

でもそういう季節を乗り越えないと、次の景色は見えてこないから、何度も何度も繰り返すんだけど。

「自分の感覚はなんのためにあるのか?」
そこはアートで色んな活動していく上で、けっこう良いキーワードになるかもしれないなって思った。

2014年7月12日土曜日

holiday

日が昇るとともにじわじわと熱くなる温度。
がばりと起きて正座で壁に貼り付けた友達の作品を見つめながらぼーっとする。
暑すぎる!あせもができそうにかゆい!
大友良英と付き合う夢を回想しながら、掃除して洗濯。窓とゆう窓を全開にして、初めて近くのパン屋さんにでかけてみた。
コーヒー味のシフォンケーキとカレーパン買って、シフォンケーキをつまみながら帰る。うあっま!あっま!しっとりふわふわ。コーヒー牛乳の味。甘ったるくて子供っぽい。夏の風呂上がりの味だ。美味しい。
日差しが強く、風は涼しい。
虫や風や色んな音と色に耳と目を澄ませて踊りながら歩く。
すぐ家に着く。靴には植物と虫が張り付いていた。ほんの少しの道のりに、たくさんの生き物がいる。

帰ってすぐに台所へ。ビールとヨーグルトと野菜を取り出して、キッチンドランク&ヨーグルトしながらサラダを作る。BGMはくるりの「坩堝の電圧」!



キッチンで料理しながら飲むビールは世界一美味しい!
カスピ海ヨーグルトも大好き。
開け放した窓から外の空気が寄せてはかえす波のようにいったりきたりするのが気持ちいい。
夏の気温、波のような風、ビール、ヨーグルト、生野菜。




rainbow serpent にょろにょろ

アーティストにできることは良い悪い上手い下手という判断以外で物事を捉えられること

こうやってアーティストにできること、アーティストならではの視点を日々、考えなければならない。


今日は東京で綺麗な虹が出ていたようだね。しおりちゃんからそんな画像が送られて来た瞬間、私も空に虹を見ていた。
虹と言えばrainbow serpentと、アボリジナルの虹蛇について思い出すしおりちゃんはナイスセンスだと思う。

しかも私はそのメールの前に、縁側で日光浴する蛇と遭遇していたんだ。

アボリジナルのドリームタイムや絵には心の底からの安心感をおぼえる。
チベット密教の教え、梵字やマントラや曼荼羅もそう。

私が原点に戻ろうとすれば、そこは間違いなく、アボリジナルのドリームタイムのような、チベット密教の瞑想の世界のような夢と光の世界だ。

刹那だなあ。生きることは虚しいなあ。






自分の思い通りじゃなくたって、人の優しさはこっそりと潜んでいる。目に見えないところに隠されてる。
それを見つけ出しては愛でよう。
誰にも内緒で静かに愛でよう。


2014年7月10日木曜日

racist friend

昨日と今日はずっとThe Specialsを聴いてる。
racist friendっていう曲は、人種差別する友達なんて今すぐ捨てちまえっていう曲。
スペシャルズは白人と黒人が混合のバンドで、私はこの曲がすごく好き。

そうだ、今年の七夕は晴れだった。いつも七夕は雨だったのに、とっても珍しいなと思った。

ロックインジャパンの会場が近いのでチケット取ってみたはいいが、行くの面倒臭い。
でも、音楽家たちの轟きを聴きたい。


集中している時ってご飯食べられない。
お腹が空き過ぎた状態でスーパー行くと絶対買いすぎる。

一品持ち寄りの会の前に気合い入れて色んなものを買い過ぎて、さばけないで困っている。


12年前、中学2年生の時に映画で一目惚れしてから
ずっと大倉孝二という俳優が好き。

・・・この流れで大倉孝二について色々書いていたんだけど、確実に誰も興味のない内容だなあと思ったので自重します。

本当に大倉孝二好き。

全くの赤の他人にここまでの気持ちを抱かせるなんて、ほんとーーにほんとーーに「応援される人」たちって凄いよね。
ほんとーーーに凄いと思う。

ともみも人が応援したくなるような、そんな頑張りをしたい。続けたい。生み出したい。


神奈川と常陸太田にいる私の大好きな乙女2人のこと思うとやる気復活する。
素敵な作家とか、素敵な友達とか、素敵な俳優とか。そういう人たちを思い出すことでバランスとってるなあ。

私も頑張る

2014年7月7日月曜日

ベンチに絵を描いたよ








常陸太田の玄関口、最南端の町 上河合町で子供たちとベンチに絵を描いた。
地域を歩いてまわれるように、常陸太田の宝を解説する看板とベンチをそれぞれ各所に設置するっていう取組み。
子供たちがいつも触れている「山」「川」「空」「田んぼ」「通学路」などなどをモチーフに、3グループで3脚ずつ描いた。
当たり前すぎて忘れている自分の住む町の風景、忘れかけてる色んな思い出、そういう外の世界と自分の中の世界の繋がりを行ったり来たりできたんじゃないかな。
そうやって内外がぐるぐるとかきまざって日常ていう時空が成り立っていることを意識するのって面白くて気持ちのスッキリする行為だと思う。

上河合町はとてもいいところ。
水府から金砂郷を通って上河合町へ向かう長い長い一本道はずっと田園風景が広がっている。
5月に植えた苗はもう随分伸びてさわさわ揺れる。
もう1ヶ月以上経つなんて嘘みたい。
あっという間だな。でも6月辛かったから良かったよ。

皆は毎日毎日ちがう顔を見せる、色んな表情を持ってる風景と共に育ってきたんだな。
人の動きじゃなく、自然の動きを見ることのほうが多いんだ。
鳥や虫の鳴き声や風でゆれる木々の音を聴いて、あったかい風や冷たい風が肌に触れて、快晴も豪雨も曇天も圧倒的な大きさの空に目撃するんだ。

自然の中にいると頭のすみっこがいつもくすぐられているようだ。
人の中だと意識的に遮断してる感覚をいつもソワソワさせて停止させないんだ。

都市は生活の場と働く場と遊ぶ場、全部分かれているし境界線だらけ。人の作った仕組みの中に生活が組み込まれている。自然と人がすっと繋がれるような場が少ない。自然は「あー自然だー」と感じるもので、目の前にいつもあるものではない。
都会はほとんどが人工だけど、地方は生活の場と自然の場があって、しかもその2つの場が繋がってる。


私がアーティストとして、その本質だと思うのは「観察」。
観察、解体、構築はアーティストが常に行っている行為だと思う。
あらゆる風景を切り取り、目に見えないあらゆる情報を観察して読み取り、自分の意識の中でそれらを解体し、表現することで構築しなおす。

常陸太田での生活で、色んなことがめまぐるしく変化している。
人は変化するものだけど、常陸太田での変化は私の「生きていく糧」というか、肥料みたいな役割で、特別に感じる。
心が強くなる、豊かになっていく変化だと思う。

内外の境界をせき止めていた観念が壊れ、外界とゆるやかなグラデーションで繋がっていった。
そういう変化が内外のコントラストをより強くして、本質を浮き彫りにしてくれたと感じる。




2014年7月2日水曜日

大きなものと戦うために

最近まいにち同じ曲ばかり聴いてる。
じゃがたらの「もうがまんできない」

ちょっとのひずみなら何とかやれる ちょっとのひずみなら
心のもちようさ

という感じで歌詞が続いてく。
最後の歌詞だけ、同じセリフを三回繰り返して念押しする。

ちょっとの搾取なら 我慢できる
ちょっとの搾取ならば 誰だって我慢できるさ
それがちょっとの搾取ならば


それが、ちょっとじゃなかったら。

この曲を励みにして、毎日聴いて、暮らしてる。
「こころのもちようさ」ってずっとずっと言ってても、ずっとずっと聴いていられる。
暗示のように、ずっとずっと唱え続けてる。

いつも何かと戦ってる。
日々は小さいことの繰り返し。
それは微細に広がる根っこを通していつも大きな母体と繋がってる。
だから何も考えないで何もしなかったら、母体は朽ちていく。
いつも大きなものを意識して、小さなことを繰り返さなきゃいけない。

大きなものが夢ならば、小さいものは地道な努力といえるだろう。
大きなものが日本なら、小さなものは地方や自分自身といえるだろう。

抽象的なことはこのへんにする。
具体的な話はまとめるのが大変だな。毎日少しずつ積もってくし、仕事のことだとここに洗いざらい書けるわけじゃないし。
市から推薦されて、4月から茨城県の女性フォーラムに参加することになった。
2年間毎月1度集まって部会で話し合い、提言書を県に提出する。
新しい世界がいくつも拓かれていくのでこのお仕事は楽しい。
アーティストでも、こんなアーティストっぽくない世界に入っていけるのが新鮮。

そういうところに参加していったり、そもそも都市での生活から地方での生活に変化したことで考えもどんどん変わってゆく。
知らないことを知っていく、というほうが正しいかな。
私はそもそも、考えが及んでいなかっただけのような気がするし。
都市が特殊な環境だってことも自分は全然わかってなかった。
日本の大半が常陸太田のような地方なのだ。
私はここで、アートを用いて、自身の発想をいかして様々な活動をしていける。
そういう役割を担っている。
そこで私は何を発言し、何を求めて駆け抜けてゆくのか。
そのあたりがだんだんと定まってきている。
制作のスタンスとか、ライフワークとか、そういうのもちょっとずついい兆し。
都市を離れたことで逆に都市の生活に意識的になった。
人間関係も距離は離れたけど、様々なアーティストがこちらに訪れてくれて、おかげで1対1の対話などができたり、ダイレクトに心に言葉が届くような機会が生まれてて嬉しい。
私は尊敬するアーティスト、身近に結構いるなあ。
うれしーな。先輩たちの活躍みてても励みになる。
いつか常陸太田に呼びたいなあ。



さすがにじゃがたらに飽きてくると、youtubeなどで色々つまみ食いして、最後はやっぱりじゃがたらに戻ってくる。