2016年12月28日水曜日

何度でも筆をとる

生きるためには金が必要なのはわかる。
絵を描く時間が、お金になったらありがたいとは思う。
でも、私は一生涯、なにをしていても画家だから。
それは揺らぎようがない。

画家の本分は、観察にあると私は考える。
あらゆる角度から、距離から、対象を見る。
てらいなく、歪みなく、まっすぐ目を凝らして見る。
触れて、手にとって、肌触りを確かめて、皮膚の言葉で見つめる。
語りかけ、対象の声を聞く。
自分とか、そういうものから離れて、まっさらに対象と対峙する。

だから絵って、自己表現ではないんじゃないかな。と、思う。
自分という幻は、世の中を、命の表面を反射する鏡の役割をしているだけで
肉体はシステムで、心はただ光を映すだけの鏡で
自分の気持ちというのは、占い師が見つめる水晶玉に浮かんでは消えるイメージみたいなもので、命は、本当は何もかもを投げ出した自由な存在で
その命をこの世に結びつけているのは、他でもない、「所有したい」という欲。
本当の意味で望みを叶えるためには、何もかもを捨て去る必要があるのだろう。


私が画家であることは変わらない。
何かにぶちあたるたび、私は心の中で筆をとる。
いつもいつも、何かを描き続けている。
観察する自分を観察するという合わせ鏡の迷宮みたいな、堂々巡りを、袋小路を繰り返しながら、何度も何度も筆をとる。
その動作が実感覚としてある。


ああ、眠るのも、憂うのも、話すのも億劫だ。

辛いとかさみしいとか、好きとか嫌いとか、そういうのがなくなって、奇跡も運命もカルマもない、道のない、時間のない、空間のない真っ白な場所にいる感じ。


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