2017年2月22日水曜日

2017年2月17日金曜日

通りすがりの春の中


人に対して「判断」をしたくないと思う。
底知れぬ人の裁量を測れる人間なんていない。自分でも、他人でも。
思えば、物心ついた時から絵には良し悪しがあって、色んな先生にダメ出しされてきた。それもタフネスを鍛えるためには必要なのかもしれないが、それを経ても経なくても私は絵を描き続けてきたと思う。褒められたからとか、けなされて悔しかったからとか、そういう気持ちではなかった。ただ、自分の思うように描けなくてもどかしかった。周りには絵が上手い人が沢山いたけど、なにより絵を描くのが好きだった。
好きであることも嫌いになることも何も人のせいにはしない。人に「判断」されることを拒むことはもしかしたらとても大切な力かもしれない。
「判断」とは、何かにラベルを貼り付けて忘却することなのかもしれない。
そしたら、私の体の中ではずっとずっと、細胞たちが判断をし続けて生命を維持してるのだろうか。
物質的にはそうかもしれないが、それだけで生命を維持してるとは思えない。
判断を繰り返すことで自意識を育て、命を欺いている気がする。

自分は有能か無能か、価値があるかないか、判断してもいい存在がいるとしたら、それこそ「神様」なのかもしれない。人間より高次元な存在としての、神様。

「器」の大きさと「懐」の深さについて。
器とか、懐とか、似てるけど空間の広がり方が違うような。
そんなことを考えている。
あらゆるフラストレーションが制作に光を照らす。新しい環境が、自分の特性を浮き彫りにする。
(ちょっとだけ)代官山でグラフィックデザインしたり表参道で絵を教えたり…最近渋谷よく歩く。(しぶやはくさい)
茨城では落ち葉や小枝をよけてカエルを踏んづけながら移動していたのに、今は東京でたっくさんの人をよけ、タバコの匂いやおじさんの鼻息を浴びながら生活している。
どっちかだけじゃ、さみしい。
土を踏みしめる感触、空気から伝わる季節、野菜の味、茨城弁…

やってることは延長線上にある。
わたしの命のはじまりより前から続いてるであろう線上に立ち、360度の景色をあっちこっち移動しながら観察する。

必ずしも時間は前後に延びているわけではないことを確かめながら。




2017年2月4日土曜日

妄信 依存 宗教 観念 教育 自我

「アート」なんてどうでもいいと発言しながらも現在進行形のアートの動向をチェックしている自分に気づき、西洋から輸入された「アート」という文化を多少なりとも信仰しているのだな、と実感した。

私は宗教という言葉を広義にとらえるし、信仰という言葉もあえて使いたいと思ってる。
人が思っている以上に、自分の意思は外界の影響を受けているしコントロールされている。
因果と縁、知恵と観念

どんなものも完璧ではない、どんなものでも正義といえる世界で頼りにする思想、頼りにするコミュニティ、大きなものから小さなものまで、信仰心と宗教性は切り離せない。


日本人はとくに、宗教と自分を無縁だと思いがちなのかもしれない。
世界中の様々な出来事は、全部自分の周りの出来事につながっているんだけどね。