2014年8月7日木曜日

私にできること

私にできることはなんだろうと考える。
私は何者なんだろうと考える。
まず、私は絵描きだと思う。
そして、教員免許があるので、頑張れば先生にもなれると思う。
私はその2つだけじゃない。作ること、表現することを生業とする「表現者」であると思う。
そこに「アート」の視点や教養がのっかり、「アーティスト」を自称して活動をしている存在。
常陸太田アーティスト・イン・レジデンスという事業に参加し、地域おこし協力隊のアーティスト枠、という形態で活動しているため、ここでは私は「アーティスト」として挨拶をし、振る舞っている。
だから私は「アーティスト」というのが今の役割なのだろう。

ではアーティストは何を作り出すのか。
作品を作るのか。
作品を作るとしても、李禹煥は必要最小限しか作らず、最大限の効果を発揮したりする。もの派というのは「作らずに作る」人たちのこと。作品を否定し、物を「利用」することを否定する。
マルセル・デュシャンの「泉」があって、そっからずーっとかけて「作品」を「作る」っていう概念や定義って、曖昧になって覆されつつあるはずなのだが、一般の人たちの意識はそうはなっていない。


作品ではなくプロジェクトを作るアーティストがいる。
場を作り出すのもアートといえる。


 ”「作品」を「展示」し「鑑賞」する” ことだけが「アート」ではない。

最初からそれだけが「アート」じゃなかったはずだけど、アーティストの役割や活動や定義が徐々に変化して、ようやく今大きな流れになっているんだと思う。


たとえば地域でアーティストが活動し、場や仕組みを作り出したり、人にヒントを与えたり、一工夫で自分の視点は変えられるということを伝えたりしている。
これは作品ではないかもしれない、でもアートではあると思う。

私はアートが何かってうまく言えないけど
最終的には「愛」だとは思ってる。
アーティストはあらゆる形で「愛」を示しているし
プロセスは「愛」で結果は「成就」だと思うし、そこには必ず終焉、「別れ」がある。
維持される仕組みがあっても、いつか形骸化され、空洞化し、生まれ変わってゆく。

私は全人類がアーティストだっていうのを信念に地域に関わってる。


で。
私が「アーティスト」という肩書きで
表現者として、絵描きとして、地域で何ができるのか。何をしたいのか。

私も当然?協力隊のように、ミヤタディレクターのように、場を作ったり、地域に残る仕組みを作らなきゃいけないのか。
作ることをまず目標にして、考えて、やんなきゃいけない。
ああ未知だってビビることも容易いんだけど
つべこべ言わずやってみるぜ アーティストおお! って行動するのも容易い。

どちらも容易い。

でも一度は疑わなきゃと思って疑ってみた。
私が、私がアーティストとしてすべきなのはそれなのか?

そんなこと考えてたら、そもそもアーティストってなんだ。私ってなんだ。っていう話になってきちゃって。


要するに、自分が一番したいこと。夢。そして信念。それを表現することが私の人生なのだろうと思うに至る。
(その内容について説明しないのかよ)

前半に書いてあることって、今生きてるアーティストたちにとっては、「え?何いまさら気付いたの?え」っていうような内容かもしれない。
でも私はほんとに井の中の蛙だった。
だってずっとずっと、美術畑の中で過ごしてきたんだもの。
ともみ美術畑。外の畑も知らないし、畑以外も知らなかった。
殊更アートに関してはともみ美術畑オンリーだったかもしれない。
芸大で揉まれたけど芸大も美術畑だし。
先端はさらに孤立してるし。

アーティストはすごいって思う。
思う。そして私もそういう風に、表現することで、自分を作り変えていきたい。
こんな考え方をしていたら、会社員になんてなれないと思うわ。
なれる会社があったら入りたい。

私って実は働くのが好きなんだ。
お金もらう口実になるから。

けどアートをお金と結びつけられない。
私はそこがまだまだ弱い。社会でアートやるのってほんとにわけわかんなくて難しいよ。


と同時並行で考えなきゃいけないのは、この事業の任期が終わってから、私はどうやってお金を稼いで生きていくのか。


とりあえずできることをコツコツやりながら、どういうことしたいか、アイデア出しして、でコツコツ人と知り合ってく。みたいな。
仕事のやりかたわかんないからさ、いきなりスピード出せないよ。
人と比較してちゃだめなのわかってるけどさ
ミヤタさんのスピードと行動力と企画力みたいなの。みてると血の気がなくなる。

私はこんなことでブレちゃだめだ。自分を信じろ。そう言い聞かせる。

やってみたいことも、できるかわからないことも、できる全てもやり尽くさないと。
泣いて、踏ん張って、助けられながら、歩き続けなきゃ。

私、1人でいることは踏ん張れるんだ。
誰にも執着しないことでようやく自分を律することができるから。
でも私、これからも1人なのかな。
私はパートナーという存在にすごい憧れがある。
漫才コンビとか、ジョンとヨーコとか、建築家の夫婦とか、岡本敏子と太郎とか、クリストとか、日比野さんとこづえさんとか、「目」とか、はるかと瀬尾ちゃんとか、ちょーかまとか(多いな)
なんでずっと一緒にいられるの?この、出会うべくして出会った、出会ったことで色んなことがめくるめく変化を遂げていくドラマみたいな、そういう物語につい憧れてしまうんだなあ。
お互い高め合える、言い合える、向き合える、同じ方向を見ることができる、でもちゃんと自立できる。そんな相手ほしい。
ミヤタさんとじゃ、釣り合いがとれないしね。私じゃ。
一緒に仕事するって、仕事するって、仕事ってさ。距離が近いと凄く大変なことだ私にとっては。でもほしい。気持ちを共にする人。私は誰かを手伝ったり、支えたりしたい。それが支えになって私は良い絵が描ける。
自分にとっても自分以外の視点が欲しい。信頼できる人。


作品も作りたい。色々やりたい。でも色々を全部手を出すことができない。
もどかしい。苦しい。

はっ。パートナーいなくても、同志がいるから、いいのかもと今思った。

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