2014年11月24日月曜日

あらためて繋がる

途切れていた何かが、少しだけまた繋がりを取り戻すように、動いた。
それでいい。

私が私を見失ったら、私と私は別々に引き裂かれてしまう。

色んなことが繋がっていくと、それがどんな形で、どんな配置なのかを考えてしまう。
それを絵にしたくなる。
この時の自分の心を全て、画面に打ち明けたくなる。
そしてその深淵を覗き込みたい。
私の謎を教えてもらうために、私は絵を描く。

空は青く、地上は浮いている。


yogee new wavesの歌詞にはよく「アーメン」とか「神」とか出て来る。
なんとなくキリスト教の文化を持った人なのかなと感じるところが多々ある。
私の中でだんだんと、色んな宗教の様々な教えの意味や本質が、全て1つのところで繋がりはじめている。
今までは「キリスト教はあんまり」とか「宗教ってのがな・・」とか思っていたんだけど
「宗教」自体がとても大きな大きな大きな、色んな意味を持つ単語に変わりつつある。

私は全ての事実を受け止めてこれからも受け入れて生きていくだけだ。

昨年から感覚が鋭く開きはじめた。
色んなことがなんとなくわかる。「なんとなくわかる」という感覚に気付くようになった。
感覚が鋭敏であるということはスピリチュアルであるということと同じことなんだ。
本来人は、全部透明で、目に見えないものを見ることができたり感じることができる、時空を越えることができるんだ。

感覚はどうやって開くんだろう。
なんで私は、あの瞬間から開き始めたんだろう。
なんか、自分の生きるべき道にしっかりと切り替わった、という大事な瞬間だったのだろうな。

絵を描く行為は、4万年の「絵画」の歴史をなぞる行為でもある。
洞窟画の時代にタイムスリップしたり、憑依する行為でもある。
学部4年生の時に7メートル×7メートルのベニヤを床に敷いて絵を描いたことがある。
そのときに、そう感じた。
絵を描くという行為そのものの長い長い歴史の中を旅しているという感覚。

そう考えると、あらゆる身体的な動きは、大昔の人々の動きと繋がっている。
その繋がりを作り出す装置がきっと精神なのだろう。
精神世界というのは時空を越えるエレベーター。

私はシャーマンのように絵を描く。
そしてチベット僧の「砂曼荼羅」という修行のように、祈りを込めて絵を描く。

yogee new wavesから感じるキリスト教の雰囲気。
The Inoccence Missionのカバーアルバムに入っている古い民謡?あるいは賛美歌?のような伝統的で宗教的な曲。荘厳な祈りを感じる。そこにもキリスト教の一片を感じる。
これまではそういうのを「自分と違うな」と思っていたけど、今は宗教の違いにとらわれなくなったのでそうは感じない。
大きな意味での「祈り」や人間の本質みたいなものを強く、感じるようになった。
美しいと思う気持ち、好きだという気持ち、むかつく気持ち、色んな気持ちで色んなものと結びついて揺れている。

こうやって心境を吐露するだけでなく、思考を組み立てなければならない。
私の安定した城をいったん築いてみないといけない。
そこから見える風景も描写しなくてはならない。
芸術家だから。

先週、作家のお手伝いで荒川修作の話になり、読んだことあるやつだったけど、本を貸してくれた。
そして、あらためて読み返している。
その作家、弓子さんの息子の名前は「渉」。
とても尊敬している山洋平さんという画家の息子の名前は「ルアプカシ(道を歩く)」。
つい先日子供が生まれた、今もっとも東京で熱い女にして最愛の親友の名前は「歩音」。
最近つい「歩く」ということに気を向けることが多い。
こんなに人を変化させた慧くんは偉大だ。
これからずっと、私は彼の研究者だ。
偉大な人が、生きてそばに存在していることが嬉しい。
偉大な「アーティスト」である以前に偉大な人間味の塊だ。
人間であることを受け入れて、でも、受け入れていない。
それが人間らしさかもしれない。
あがいて、あがいて、あがいているところが、胸を打たれる。
悔しいとかさみしいとか嫉妬とかそういう気持ちではなく、ぐっときたり、感動したり、嬉しくなったり、わくわくしたりする。
なんだかとてものびやかな心持ちになるのだ。
草原にふわりと横たわるような開放感が呼び起こされるのだ。
リラックスしながらも、世界に声を発したくなる感じ。

優れた作家は、作品によって、鑑賞者の全身の神経や器官を目覚めさせる。

ああ、最近いろんなことが辛かった。
疲れていた。
ありがとう、色んな人にありがとう。
感覚が蘇ってきた。
よみがえってきた。

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