2015年2月12日木曜日

芸術の絶対的無用性と関係の相対性

意味は過去
無意味は現在

価値は過去
無価値は現在

意識は過去
無意識は現在

生きているのはこの瞬間
そのあとも、まえもない

その瞬間 がぎゅうぎゅうと点滅している

目的はもたない
軸をもつ

わからないことでいっぱいな世界を視る
わかることは視ない

自分の強みも弱さもどうでもいいじゃないか。
今までのことは忘れな。
この体で構成しなおされて、残るんだ。
忘れても平気だよ。

過去の自分からの発信が優しい。


「できるだけ意味のないことをやりたい」
祈り、衝動、欲求、表現したいエネルギー そこに



以前にも言ったけどまず「誰かのため」はありえない。
物事すべて自分のためにしかならない。
言い方の問題かもしれないが「誰かのため」は本質的に利他性がない。
言い方がどうして大事なのかというと、言い方ひとつで見え方は変わるから。心底丁寧に表現を吟味して扱わなければならないと思っているし、そこには言霊が宿るから。


「元気にする」「地域のため」をあえて考えない。

アーティストのビジョンをブレさせないため。

元気・活性は様々な素材と動作、あらゆる要素の条件が揃ってはじめて着く「火」のようなもので、「火おこし」という行為によって生じる現象。
私たちは新聞紙になるときもあれば、火付け石になるときもある。引火の絶対条件である「空気」を送り込む風なのかもしれない。あるいは、この動作を行う手なのかもしれない。
それぞれがそれおぞれの役割以上のことを、1人でやろうとしても火はつかない。

火を目的に火おこしをしたとしよう。
そのあとその火をどうする?
驚いて、慌てて吹き消してしまうのか。
焚き火にうつして暖をとるのか。
ご飯を炊いて美味しい食事を作るのか。
憎たらしい人間の家に放火するのか。
じっと眺めてぼおっとするのか。

誰がそれを選ぶのか。

一人一人でしかない。みんなでも、地域でもない。
ひとり、ひとり。それぞれだ。

だから私は「地域のため」とも言わない。


相対的なものなんだね。



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