2017年4月27日木曜日

気づき

表現について。

良いバイブスを与えたいという気持ちが出過ぎて、明るくてかわいくて幸せな生き物っぽいのを随所に登場させたり、
逆に闇っていうのを自分なりに肯定して表現しないと、と思ったりしていたんだよ。
でも私が目指しているのってそこじゃないんだよね。
もうその「善し/悪し」「光/闇」ていう二者択一、二項の対立構図で考えてしまう時点で罠なんだな。

常に「気づき」を表現することなんだ。

善悪はない、ていいながら、自分の絵には善し悪しを設定して、駄作だとか、こうすることでいい絵になるとか、結局善し悪しの判断をしながら絵を描いている。そこに違和感があった。当たり前だし、必要だと思っていたから気づかないようにしていた。考えないようにしていた違和感だった。
闇があるから光がある、ていうのは、構図。
そこに意味があるんじゃなくて、そのために見えて来る風景を描かなくちゃいけない。

まざって区別がない状態を基盤として、そこから分岐していく様を観察しなくてはならない。
最初の最初はいっしょくたの状態からはじまっていることを絶対に忘れちゃいけない。
こわくないよ。

性別。これも越えられる。男女に分岐する前に戻れる。実際にそういう印象の友人がいる。
善悪。越えられる。 悲しくて辛くて虜になってしまうけど。
   善悪もあとから生まれた不自由だと思う。
憎しみ。わかるわかる。縛られてしまうの、とてもわかる。
    表面の意識なので、全然越えられる。
汚れ。越えられる。自分だってお風呂入らなかったら臭くなる。汚れを憎まない。
匂い。匂いが合う合わないで相手との相性をはかるっていうのあるね。
   でもね、越えられる。 匂いに好き嫌いを持つな。
   花村萬月の「ゲルマニウムの夜」という本に「匂いに善悪はない。」
   って書いてあった。大学1年生の時から裏座右の銘にしている。
   今ようやく意味がわかる気がしている。


風刺、批判、挑発、ハプニング的な表現で心をざわっとさせたり、ドキっとさせたい。
でも人を傷つけたくない。クリティカルヒットを狙いたい。
人を傷つけたくないっていう思いは強くて、それが恐怖を生んで、優しさに逃げた。
自分のやわらかい部分を全面的に押し出して、でもそれが違和感だった。

人を「傷つける/傷つけない」でおびえたり、そこに縛られてしまうと表現もきっとどちらかに寄り添うしかなくなる。
その二項が分岐する前の心に、届くことを目指せばいい。
そういう想像力が、人を傷つける問題を乗り越えてくれる。
その先を見据えて。素直にドキっとしてしまう、純粋な部分、ごちゃまぜな心を鷲掴みにするんだ。
鑑賞者は、自分を傷つけずに相手を傷つけずに素直に受け止められると思う。


男と女、恋と友情、不倫浮気、結婚、愛の契約、独占欲、嫉妬、羨望

越えられる。

言葉にするとこわくなったり強くなったりしちゃうけど。そんな言葉に振り回されないでね。私は自分の言葉によく惑わされそうになるから速攻で忘れるよ。
これは私の都合の良い能力なんだ。こういうの割と大事だと思ってるんだ。
嘘ではないの。ざっくりなの。
だって変化していくもの。
その瞬間の本当は、変わっていく。決して嘘にはならないままに。
大事なのは良い悪いや傷つける傷つけないという視点ではなくて、自分のまいた種が芽吹いて育っていく様子を観察すること。「気づき」を表現し続ける姿勢だと思う。



絶望をひっくるめた希望は強いよね。昼はまぶしくて、夜はあったかい。



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