2017年5月8日月曜日

創造的誤解

5時すぎ、朝はまだ肌寒い。
6時になり、日が真横から射し込んできらめく。
7時、家事を色々済ませて、ミルクティー飲んで、ぽかぽかする。

表現は一体なんのためにあるのか。
「なんのため」を気にかけてしまうのは、共同体意識によるものなのかな。
深いところでつながりあっている生命の器を無意識のうちに自覚しているからなのかな。

途中で止まってた、田中功起「必然的にばらばらなものがうまれてくる」を読んでる。
キュレーターに依頼され、打ち合わせを重ねることでプロジェクトを実現させていくのだが、そのときに生じた誤解がプロジェクトを大きく変化させ、かえって功を奏す場合もある。と書いてあった。
それを「創造的誤解」と表現している。

創造的ってつけると、いろんな出来事を複雑なまま俯瞰できる。
曖昧さ、複雑さ、複合的で、絡まり合う事象。
救われる。

絵の具で色をつくるとき、何色か混ぜて理想の配色に調整していく。
でも、ある一線を越えると、どんどん理想から離れていって、戻れなくなる。
たとえば白と黒を混ぜたとして、黒が多すぎて、ものすごく大量に白を消費するも、なかなか目指す色に届かなくなったりする。
そうすると全部最初からやり直すしかない。大量に投入したアクリル絵の具がパァになる。ああ、高いのに。 高校生の時によく味わった。
いつからか、飽和してしまうんだね。 飽和したら、入れ替えるしかない。
それが災害だったり、テロだったりするんだろうか・・・・。

物理現象を追っていくと、心のなかの出来事と似たことがたくさんある。社会の出来事と繋がっていることがたくさんある。
逆に言えば、目に見えない移ろいを言葉にするときに物理的な単語を用いることができる。
物理と想像は同調しているから。


新しいとか古いとか、美術史的な文脈とか、どうしてもそういうことを主軸に考えられない。現代アートに執着してしまえば、透明な視界がぼやけてしまうだろう。
新興宗教のシステムと変わらない。
自分が美術界を背負うみたいな責任感もない。野心もない。
どこまでも無宗教に、万物を信頼しながら自由でありたい。
私の中にある「今に見てろ」という気持ちは、自信というか傲慢なのだろうと思う。
だけどそれを失うわけにはいかない。俗世と繋がっているためには。

依頼された絵のほうが作品として描いている絵よりいい絵になっちゃうの、コントロールできてないみたいでくやしい。
期待を越えるのが好きなんだ。
うまくできないこともあるけど。
うん、やっぱり、結局は・・ 絵と向き合い続けよう。
それしかない。

現代アート大好きなのに、なかなか、頑張っている若手とか、ンンンN???てなっちゃって。人によるけど!コンプレックスかな。とがってる展示行くとテンション下がることが多くて食傷になっちゃって。サイドコアはめっちゃよかったな!!
好きな作家ももちろんたくさんいるけど。なんだか本質じゃない気がしたり、物足りなかったり。私の心の中の差別心なのか、私は許容範囲が狭いのか。

足踏みしててもはじまらないのよ。世界一楽しいと思うことを見つけてやり通すのよ。


心を解き放つ!!




0 件のコメント: