2018年7月2日月曜日

リスペクト

ハッとした。
これは尊敬という想いだ。

念、想、思、感、情、心

いろんな単語で「気持ち」についてあらわすことができるけど
本当に言葉に起こせている気がしない。

「100分で名著」が毎回とっても面白くてずっと録画している。
ただ、これで本を読んだ気になってはいけない。

本を読むことは、思い出すことなのではないかと思っている。

今、伝えることが過剰になっていると言えるかもしれない。
でも果たしてそこで行き交う情報は、物事の本質的なメッセージを伝達できているのだろうか。
私たちが発信しあっている情報は、どの根につながっているのだろう。


本を読むことは、伝えることと同量で必要なのだと思う。
それがどのような本であっても。

自己啓発本なんて、とか、エンターテインメントなんて、とか、スポーツなんて、とか思っている時期も昔はあったけど今はそういう偏見がない。
彼らは本物の修行者だから。


中西和さんという画家がいろんなことを言葉にしてくれた。
ミュージアムショップで出会ってから、二度、鎌倉を訪ねた。
和さんは、私が、誰もがぼんやりと「わかっている」ことをまっすぐに、肉迫のある言葉で指し示してくれる。明快で、まばゆく、それは教えのようだった。
お菓子を食べながら、コーヒーを飲みながら、ずっとずっと大笑いしながら聞き入ってしまった。
 「手放し」
これができる人はなかなかいないのだと思った。
人には善意や傲慢さがあるから、ついつい、説明過剰になってしまう。
手放しに愛する。手放しに見守る。
手は一方の力で握るものではなくて、2人の力をちょうどいい塩梅で抜きながら握りあうものだ。
小さい頃はお母さんに握られているような、握られていないような、ただ包み込まれる感覚に安心感をおぼえていた。そして「きゅっ」と握り返した際、自分の力が加わることでお母さんの手を握っているという感覚が体を伝わる。
すると、まるで心もつながっているように思えた。



手放しの感覚に気づいてみると、私を放り出してくれる人は実は周りにたくさんいると気づけた。

自分の思いを伝える前に、私たちは自分の思いについて、よく観察しなければならない。
自分がどこにいるかを伝える前に、自分がなぜそこに行き着いたのかを考察しなければならない。
自分が何をしているか伝える前に、目の前に横たわる実感覚を鮮明に味わい尽くさなければならない。

尊敬という思いがこみ上げて、ハッとする。
他人からの深い洞察、愛のある観察を注がれていることに気づく。


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