2016年5月13日金曜日

心を中心に「据える」こと

何かをコントロールしている時は楽しい。
行為のひとつひとつを確かめるように味わうと、そこから線が延び、別の何かと交わる気がする。
実感とか、確信が感じられる。

ずっと前に進んでいるつもりでも、垣根の中をくるくる回り続けているだけの時がある。垣根に気付き、そこをよいしょと乗り越えると、サバイバル能力は向上する。
楽しさも苦しさも、越えればその先に何かがあることを学習した。

絵と心と体が繋がっている。
繋がるということは、すべてが同一になるということではない。
「繋がっている」状態とは、ひとつの揺れがもうひとつに影響を与えてゆく、その波が歪みなく伝わるということなのだと思う。

はじまりとなる中心があり、伝わっていく流れがあり、広がる余白がある。
歪みなく伝わるピュアな魂を中心に据えるということは、いつも瞑想に似ている。

2016年4月29日金曜日

2015年12月9日水曜日

紅葉


あゆねちゃんが私のお母さんをマブダチって言ってた。
お母さんを慕ってくれるひとが何人もいるのは嬉しい。

仕事がひと段落して、また仕事に躍起になる。
なんだか用事が多くて常陸太田と実家を行ったり来たり。師走ですね。

2015年12月3日木曜日

虫瞰

この仕事をはじめてから大きなことに気付くことが多く、続いてきた。
例えば「アート」とか「地域」とか「営み」とか。
でも以前の私はもっと小さなことに気付き、深く耳を傾けて表現をしてきたということを思い出した。
なぜかというと、今日、久しぶりに微細な出来事への意識が働いたからだ。
その感覚を思い出し、仕事を始める前とあとの大きな変化が今になってわかった。

本当に些細なことだけど。
リュックの中身をまさぐる時、目はどこも見ていなくて、手の感触に全神経を傾けていることが今日の発見だった。

浅い、ままならないこともある。補って越えられることもある。
知らない世界を与えられたり、足りないものを自分が贈ることができることも確認する日々です。

2015年11月29日日曜日

白珪尚可磨(はくけい なお みがく べし)

白珪尚可磨とは、人の言葉はもし一度言い放ってしまうと、いかなる手段をもってしても、もう取り返すことはできない。
という意味と、小成に安んぜず、さらに磨いて向上せよという意味がある。

肝に銘じます。

Everyone has a melancholy.
迫ってきても怖気づかない。
負の気持ちの入った引き出しばかりつい開いてしまったり、帰ってきたら散らばっていたりする。
一掃する。
ブログに良いことを書けなくなっている。
SNSや都市には虚妄が溢れてる。
私の中にも。

でもハートも沢山ある。
だからハートを込めることはできる。
それならば、できる。



2015年11月16日月曜日

曖昧な合間

あわいはそこら中に漂っていて
私の家の中での出来事や物の配置は、外で庭を手入れしたり畑仕事をする人たちの蔵の中の物の配置と、大きさが違うだけで似たところがあるんだろう。
外で鍬を取ったりちりとりで落ち葉を集めたり、色んな作業の音がする。
私は家の中で、絵筆を握ったり食器を洗ったりする。


autumn morning


夜霜と朝露の間
雨と晴れの間
そんなあわいに見る死と再生




人を非難したり、人を区別することはよくない。批判は人にではなく出来事にすべきだと思う。
でも人を嫌いになることはあるし、否定してもしょうがない。
とはいえ、嫌いは好きの裏返しだし、無感情と無関心は異なるものだと思う。

遠くを思う歌が多いのは、それだけ人と人の心には距離があるということだなぁ。

その距離を遠いと見るか近いと見るかでも変わるし、大きく見るか小さく見るか、繋がっていると捉えるか切れていると捉えるかでも変わる。

実際はとても曖昧で目に見えないものばかりが存在する世界だ。



2015年10月26日月曜日

アートなんてどうでも良いだろ

はぐれ者とは
汚泥に満ちた社会の中でなんとか生きてる人たちのことや
普通の感覚じゃない意識と次元を抱いて生活している人のことである
なんだか生の魅力を持った人たち、魔法を使う人たちをはぐれ者という

はぐれモンスターに出会いたい

田舎のおじいちゃん、おばあちゃんの迷子の思い出をハンティングしたい


2015年10月15日木曜日

ミルクティー聴きながら
あったかい蜂蜜の入ったお湯を冷たい心臓に当てて
ただ音を聴くだけ
ただ空気を吸ったり吐いたり
冷たい風に当たるだけ