美術教育とは何か、アートとは何か、芸術とは何か
ということを毎日考えて過ごしていて
いろんなことを書こうと思うけど時間がなくて
で、久しぶりにブログ開いたら前に書いた文章ちょっと記憶なくてびっくりした。笑
いつの間にか先生の仕事も長くやっていて、子供たち、大人、いろんな方々にいろんな講座を開いてきて、あらためて教えるってなんだろうと考えている。
そのへんを書こうと思ったけどまたにする・・・
ブロガーはスマホで書きづらくなってから書かなくなったなー。
やめよかな。
絵描き Web:hayashitomomi.com /instagram:hayatomomi_artworks
美術教育とは何か、アートとは何か、芸術とは何か
ということを毎日考えて過ごしていて
いろんなことを書こうと思うけど時間がなくて
で、久しぶりにブログ開いたら前に書いた文章ちょっと記憶なくてびっくりした。笑
いつの間にか先生の仕事も長くやっていて、子供たち、大人、いろんな方々にいろんな講座を開いてきて、あらためて教えるってなんだろうと考えている。
そのへんを書こうと思ったけどまたにする・・・
ブロガーはスマホで書きづらくなってから書かなくなったなー。
やめよかな。
社会の中でスムーズな人間関係を構築しなければならない
それが「大人」である、「まとも」であると考えていた。
というか、その枠にはまろうとしていたのが2016年からの自分だった。
本当の自分に誰も触れてほしくなかった。でも、実際は、そうやって秘めていることによってどんどん劣化していくんですね。。感覚というものは。
色々な殻を破り、時間的制約を破り、どうにかこうにか、このブログを更新するに至ったのが、まさに今。
最近読んだ画集は「アンリマティスの諸芸術のレッスン」と豊井祐太さんの「水と手と目」という画集です。
豊井さんの画集は言葉と絵がどちらもすごく響くよい画集でした。
映画は「君たちはどう生きるか」を観て、展覧会はマティス展、ホックニー展を観ました。
はっきり言って今年さ、豊作すぎません?
私、なかなか外出られないのに、、だからこそ、行きたい気持ちを抑えられず時間を作って行くんですけど。
もう一度、ホックニーと君たちはどう生きるかは観に行くつもり。映画は今月行くつもり。
損保美術館でやってる山下清もみたいよ!!!
外は灼熱。なんだよな。清澄白河も新宿も、行きたくないわー。
コンクリ無理だーー。笑
家出た瞬間から激アツだもんね。
まあとにかくいろんな作家の破壊力。迫力。色々感じますよね。いいですよね。
普通じゃないよ。普通とか言ってる人一番おそろしい説。
夫が自分のこと普通って言うけど、あれは周りの人との比較じゃなくて、完全に自分で自分をまっすぐ肯定してる表現なんだよね。だから、まあそれは例外だなと思う。
ひっさしぶりに文章書いているのはね、やっぱり書きたくて、それだけ。
書く人なんだ私は。
自分の思いを言葉にして発信したいんだ。
何かまとまったキーワードやテーマで書くわけじゃないけど
今回は
溜まってるんですよ、鬱憤も、喜びも、あらゆるものが!
あっと、野暮用ができたのでまた。
戻ってきたよ。
朝起きると体ばきばき。
ストレッチめんどうくさい。
ストレッチしても体ばきばき。
絵を描いていると自然と体が柔軟になる、とかならいいのに!!
絵も読書も、家事も、全部、体ばきばきになるじゃない。
毎日座禅と、散歩と、ストレッチだけしている人生だったら、悟りひらけそうだね。
とても抽象的な話だけど、昨年の8月から、いや、もっと前かな。結婚してからだろうか。ずっとブルーグレーにマゼンタが少し混ざったようなくすんだ淡い色だった思考が、尿道結石みたいに、ずっと体内に居座っていて、痛みはないけど何かくすんだ、時空のない焦燥が漂っていた。一言でいうと「くすぶっていた」。
で、4月くらいからなんとなく窓から光が差し込んで、かと思えば耐え難いほどの熱波が襲ってきて、我を忘れていた。
完全に自分を放ったらかしにして、ふと鏡を見て「私って私なんだっけ」となっていた。
だんだんと目を覚まして、映画とか展覧会とか見て心が蘇って、自分の感じ方、考え方っていうのが見えてきて、社会と接続したり亜空間と接続して、言語と非言語の行ったり来たりを繰り返して、そうして徐々に私のリズム、私の呼吸っていうのを意識できるようになってきた。
すごい焦りと、不安と、面倒臭さと、どこから手をつけたらいいんだろうという迷いと、自己否定と、だけど粘る諦めの悪さ。
そこから、具体的に、明確に、言語化、体現ってなっていった。
でもくすぶってて、もやっとしてて、目的がたくさんあって、とりあえずここからならできる!っていうところから、ほんと一歩ずつ。
線を一本引くところから。
そうして蘇ってきた、そして湧いてきた。ふかふかと柔らかく、軽く、健やかに。
うーんと思ったら、その先に踏み込んでみる。
下手くそでも。
言葉にしなかった時間、言葉にできなかったもやもやした時間は足跡となって、いつのまにやら地面を踏み鳴らしてふかふかに耕していた。
そういうもんだよね。
違和感とか、ぼんやりとか、さみしいとか、怒りとか、鬱憤とか、さまざまなこみあげる感情に一喜一憂して、頑張ったな、と、今は思う。
一進一退だけど、まずは言葉を吐き出してみた。
タイトルについては急にふっと思ったんだけど
円がゆらゆらゆれたら、曲線が2つになるなって思って。
曲がって曲がって曲がって、ずっと同じベクトルで永久機関だった円が、ぐにゃっと2つの向き、3つの向きになっていってさ。
それでハートになるなと思って。
私がいつも描いていた手ぐせの流線形、手ぐせから生まれたハート人間って、あー、意思をもった円なんだなと思って。
円が自由を欲して、欲望を体現するとハートになるのかなって。
へへ、うまく説明できないけど。私の中では着地した。
コーチェラ2022 観ましたか?
YouTubeで観ました。
KPOPって、英語ばりばりで、印象的なショーになってて、すごいね。
宇多田ヒカルときゃりーぱみゅぱみゅがあまりにも特殊な感じがして、興味深かったな。
rina sawayamaさんはハイブリットだけど、海外視点を持った方でもあるから日本音楽の取り入れ方のバランスがきゃりーとかとは全然違う。
今は純日本って古いよね。ないよね。海外から色々な音楽や作品が届く中で、日本人のミュージシャンたちもハイブリットになっていってるんだなーーって感じた。
それが、最近考えている日本のこととぼんやりと共通する
様な
貧しさの中の美学みたいなもの
侘しさ、寂しさ、枯れのこと
情緒のこと
日本って各国のローカルな手仕事や美と、近い感覚があるんじゃないかなということ。
ねむくなってきた
最近陶芸の歴史を勉強してるんだけど
日本って今のところ土器の出現が最古らしい。
現在の研究によると、東アジア一帯で同時期に出現しているみたいだけど。
1万6000年前には土器があったんだけど、1万年もの間、技術革新がなかった。
その間に中国や他国では窯が発明され、釉薬が作られ、どんどん技術革新が進んだ。
その技術が途中から日本にも輸入されて変化していく。
風土も関係あると思うけど、日本ってどこかのほほんとしているような気がするんだ〜。
それと、興味深かったのは、朝鮮の陶磁についての部分。
日本で高い評価を受けている陶磁が、朝鮮本国ではあまり評価が高くないということ。
やっぱり、高い技術力で作られた白磁や青磁は美しく高級だと本国でも評価されているんだけど、日本は三島、粉引、刷毛目、辰砂、鉄砂が高く評価されている。日本は「ローカルな表情」に美を見出すのだと書いてある。
ローカルな表情と言われて思い浮かべるのは民藝。そしておかんアートかな。
知恵を絞って拵えた手仕事の中にこそ、日本人は美を、芸術を見出すのではないか。
そういうものって世界中に沢山あるんだってこと。
日本人らしさ、というよりも、ローカルな美ってことなのかなと思った。
日本人の精神という、統合された芯があるのではない。
日本の陶芸の歴史を学びながら、日本人はこういうものに惹きつけられるんだろうなあという、その美学について考えていた。
これは好き これは嫌い
それに惑わされる 振り回される
良いも悪いもレンズが歪んでいるだけなのに、好きと嫌いに振り回されてしまう
いや 好きと嫌いのグラデーションが 覆い隠されてしまうのか
どっちでもいい が良いわけじゃない
好きと嫌いに悩まされ その間を観察し 間を読むことを学んできたのだろうと思った。
万物斉同は鼻から辿り着ける境地ではないということ。
自分の「善悪も優劣も序列もない」という考えは万物斉同という四字で表せることを知った。
この言葉は見たことがあった。老荘思想だった。そうか、そこも繋がっていたのか。
絵だけじゃなかったのか。私の考え方は、とても東洋的な礎のもとに立ち上がるものだったのだね。
そりゃあアメリカで生まれたわけじゃない。当たり前なのだろうけど。
それでも自分は東洋、アジアというものに深く関心を持っているタイプなのだろう。
予備校の生徒もなんかダイナミズムというか、大地や風や、自然に根差す心を持っていて、まあ思想的には色んな国の人がいるだろうけど、スピリチュアルな感覚が鋭いなあと思う。
これこそ、コンクリートジャングルではない、自然環境によるもの、土地柄なのだろうか。
読むことは とてもおすすめしたいことだ
今までは観ること 観察すること まなざすことばかりだったが
目をうつすこと 次から次へと 流れるように文字に目をうつすこと
読むことにも意識を傾けるようになった
絵を描く者だからか観ることに全てを言い表そうとしすぎていたけど
今は秘めること 読むこと 受け入れること それらにも傾注している
何かと何かの間は面白い そこでしか見えないものがある
展望を眺め 頂で別世界を体感し また目をうつし大地を這い 一歩一歩踏みしめて展望を眺む
巻き戻すことはできるのだ
巻き戻す、
ネガティブな響きがあるが
けしてネガティブな意味ではない。
時間とは違うベクトルでものを捉えることだ
これははじまりとおわりを作らない手法でもある。
成長 と聞くと上に伸びるイメージがする。
前進していくような、技術を高めて進化しようというような、そういうイメージだ
しかし植物の成長を想像してみよう。
ある程度成長すると、そこから種を残す活動に移行していく
葉は枯れ、土に還る。
何かと人はそれを老化と捉えがちだが、果たしてそうだろうか?
植物の成長の終わりは、新たな成長のはじまりに途切れることなく繋がっている。
伸びる成長の先にはぐるんと時を回転させるエネルギーが生じるのだ。
もしそれを映像にしたら、きっとはじまりもおわりも、途中からわからなくなってしまう。
成長について見方を変える必要がある。
ただ自分が、成長のための時間と思うことが嫌になったので
成長するのやめてみようと思った
そういう心の変化でした!
どうせ成長みたいなことは、起きるので、気にするのやめようと思った。
時間を巻き戻すことを、アニメーションはできるから。
アニメーションは面白いなあと思ったのです。
種が先か、実が先か 誰にもわからないのが全てのあかし。
説明するノリがなくて、今はただ思いを綴る感覚に任せて気持ち良くなっている
文章を精査して、すこしわかりやすくするかもしれないけど
まあいいか、今日は久しぶりにブログをアップしたから、こんな感じで許してもらおう。
非営利な活動がないと、営利に向かないよね。
営みと利益
それは大事なことだけど
営まないことと無利益も
心底、命らしいことだと思う。
自動筆記は心の中に漂っている外界のかけらを、私の窓の形を知るための術なのだ
窓も壁も、全てを透明にしてやるのだ
透明な窓に、絵を書くのだ
簡単に消える、簡単にはがせる一過性のエネルギーを投影するのだ
参加しよう
窓辺に参加しよう
過去に戻ることはできなくても
未来にはむかうことができる
「パワースポットを建立しよう」
自宅に癒しの空間を求める時代に沿った企画といえましょう。
たくさんの材料は海で拾ったものや、ボツになった作品の素材など。
ガラクタは色々ありますよね。それが再利用できる点でも環境に優しい企画です。
近所に落ちているものや、その環境にある素材を使えばそれぞれの土地の魅力が現れるんじゃないでしょうか。
色々な場所で行っていきたいワークショップです。
ところで、ワークショップの名前って、悩ましいですよね。
なんとかを描こう!なんとかを作ろう!になっちゃう!
なんとか作り とかでもいいのか!
近況報告でした。色々な企画をやっていきたい。
絵にするとはどういうことか
考えることと描くことは違うのか
「画面の中で旅をしなさい。」
言葉に操られるのではなく
周囲に翻弄されるのではなく
地に足をつき
紙に対峙し
自重をかけて何を運ぶのか
あなたが着目するのは線か 色か イメージか 奥行きか 運動か
絵を描くことはあなたにとってどういったことなのか
わかってもらうこともわからせることも 微妙じゃないかしら
私は自分の表現からまったく表現していない何かを見出す人がいたら嬉しい
すごいことだと思う
あなたが導き出したものは全て真実なのだ
遠くにいきたい
踊り
旅?
叩くこと 流れること
掴むこと のばすこと
なんも書いてなくてゴメンナサイ!
最近、【みらいチャンネル】というウェブサイトでコラムをはじめました。
そっち一生懸命やってたらこっちが疎かになってしまいました。テヘ
まずはこちらを読んでみてくださいませ。
関連する記事に、2や3が出てきます。
明日か来週あたりに、4も掲載されます!
月1です。よかったら。
最近のウェブサイトはスマホから読みやすい仕様のものが多いですね。
コラムもスマホから読みやすいです。
bloggerは。。。。
むかしはしょっちゅうスマホからブログにアップしていたのですが、bloggerの仕様が変わってしまい、ものすごくやりづらくなってからだいぶ遠のいてしまいました。
PC環境も整ったし、これからは思ったことなんでもかんでも、書いていけたらいいな!
書きたい気持ちはヤマヤマなので
あとは一歩踏み出す! モリッ!!