2014年8月27日水曜日

バランスの自由

バランスとは、左右対称や天秤が釣り合って「静止」している状態を指す言葉ではないと思う。

私の修士論文に「絵画は静止画ではない」と書いてあって驚いた。フムフムと思った。
ずっとまえ、私は写真うつりが悪いなあ、不細工だなあと言ったら、大学の友達が「人間は静止画じゃなくて動画だよ」て言っていたのも心にずっと残っている言葉。
表情と仕草で愛らしければいいよね。

絶えず変化し続けるものに対して静止した状態を求めるのは不自然なことだと思う。
だから「恋愛」でも「生」でも期間が決まってる。いつか終わる。
今日友達と電話で話してて、相手がバランスをとりたいと言っていて、私はそのときスっと透き通った気持ちで呼吸できていたから「自分は今バランスがとれているのかも」と感じていた。でもひとしきりお互いの話をして電話を切ったあと、少しまたバランスが崩れそうになる揺らぎを感じた。
そうだ。私は鉄棒でぐるぐると回っていて、たまに足をかけたまま棒の上で停止して言語化してるだけなんだ。その期間が終わるとまた足はぷるぷると揺れはじめて、堰を切ったようにまたぐるんと回りはじめるんだ。何回転して止まるのかはわからない。
ぐるぐる回りながらその目は何を見てるんだろう。きっと一生懸命、急速に流れる景色を見ているわけじゃない。残像なのか今見ているものなのか定かじゃないような景色の中で、過去と現在と未来を全部いっしょくたに見つめているんだろう。

人によっては、左が長くて右が短い状態が心地よい人だっていると思う。
人に利き手があるように、地球が少し傾いて自転しているように、星の軌道はそれぞれ長さも角度も違うように、どこに基準を置くかでそのバランスは変わってくる。
歪んでいるとも、正しいとも言えない。ある基準からは外れているかもしれないけど、基準の角度を変えてしまったら、それは正位置に変わる。

バランスにも自由がある。釣り合いのとりかたにも重きの置き方にもそれぞれがある。

李禹煥の作品の美しさも、そこにある気がする。
余白の芸術。真ん中でもない、上でもない、下過ぎもしない、絶妙のバランスで配置された、絶妙な厚み、色合いの筆跡。
その画面には、そのときの、その瞬間の「調和」が「緊張感」が、細くて脆いたった一本の糸の上をつーっとつたる雫のような「瞬間の永遠性」が刻印されているんだ。


私は安定している。そう思った瞬間、不安定になる。
その原理を知っているから私はうまくバランスをとろうとできる。
人の価値観に振り回されない、自分の軸の取り方を知っている。


友達に、大人だなあ、とか色々と感心されて、
素直にとっても嬉しかったんだけど、分析したくなって考えてみた。
バランスってどういうことなのかな。なんで私はこんなにスッとしてるのかな。この感覚ってどうやって手に入れたんだっけ。どうして私はこんなに落ち着いているのかなって。
でも確かに電話では落ち着いてたけど、今日一日を振り返ってみるとものすっごい心がしっちゃかめっちゃかしていたんだ。
安定なんてしてない。でも落ち着いて自分の気持ちを毎回ひっつかまえて「どうどう」って唱えていたんだな。感情の裏をしっかり見つめようとしたり、人の言葉だけじゃなくその発言の持つ背景や全体像を見ようとしたんだな。
疑問があったら聞いて、いつもの角度とは違う接し方をしてみたり、試行錯誤して足元の土をふみふみ、馴らしていたんだな。



いつも感じるんだ。電話切ったあとに電話で話した一切が覆りそうになる感覚。
それを初めて言語化してみた。

このブログを更新したあとにもまた、なんらかの揺らぎが待ち構えているんだろうな。


今salyuの「to U」を聴いているのも、きっと影響してくるんだろうな。
ブログに書く、ということ自体、誰かに伝えたい、人と話したいって感情の投影だからな。

私の想う色んなことが大切に丁寧に、外と繋がっていきますように。




1 件のコメント:

しおり さんのコメント...

いきますように。