2016年7月8日金曜日

28年生きてきて気付けたことを言葉にしてみよう。

一般に言われる「クズ」とか「変」は気にする必要がない。

私の基準として、暴力や薬物は周囲の大事な人たちをたくさん傷つけるし、もちろん暴力を受けた人も激しく傷つくし、おそらく自分自身も傷つくので良くないことだと思う。

でも、それが悪いことだからといって、本人の「反省の余地」や「自分自身と向き合う時間」までもを奪うことはできないと思う。

沢山の人が「おかしい」と言うと、起きてしまった出来事や人物が「おかしい」と決めつけられてそれ以外の選択肢が奪われてしまう、そんな議論や問題をたびたび見かける。特に最近は「炎上」などの形で顕著だ。

反省の余地も、考え直す時間も、チャンスも奪われた人はどうやって問題を乗り越えればいいのだろう。

自分の人生や他人の人生を心から喜べるだろうか。逃げることも立ち向かうことも許されない社会なんて、人間関係なんて、それって「いじめ」と同じだし、それで追い込まれてもしその人が生きる場所を失ったら、心を失ったら、生きる気力を失ったら、それはもう暴力どころか殺人なんじゃないか。


私は思う。炎上騒ぎに加担する人や、いじめに加担する人、あるいはそれを傍観する人は、自分自身についてすら考えることをやめてしまった人なのではないか、と。

相手の気持ちを推し量るとき、自分の身になって考えたりするけど、相手の気持ちを想像できない人は、自分の身に起きている出来事についても深く思考をするのをやめてしまっているんじゃないか。

政治はねじれにねじれているし、社会もねじ曲がっている。人間の尊厳というのがどれだけ尊重されているかというと、どうも軽視、いやガン無視されてるウンザリな社会であることは明らかだ。

みんな苦しい、自分だけじゃない、だからそのことについては考えずに切り替えて、切り替えて、切り替えているうちに問題は借金みたいに膨れ上がって、どこかで歪みが生まれて崩壊していく。そんな悪い循環の中に日本はあるのだろうと思う。


その世の中に対して、私はどんな姿勢でいるかというと。


シンプルに言うと、いろんな人を見ている。よく観察している。

レッテルは貼らない。たとえ多くの人がその人を「クズ」と言っても、明らかに人格が破綻している猟奇殺人をしてきた死刑囚だとしても、その人間の命を否定しない。

きっとわからない人にはわからないことだけど、どんなに悪いことでも、否定はできない。「悪」と「否定」は違うんだ。

悪はみんなで決めた基準。否定は全てをぶっ潰して殺す行為。と私の心は語っているんだな。


私の父は、父としては「クズ」と言える部分がある。本人が見たらかわいそうなのでこれくらいにしておくけど、私は子供の頃お父さんとよく衝突したし、たくさん傷ついた記憶がある。それはほんとになくなることはない。

離婚して以降、何年も父を心の中で「いなかったこと」にしていた。完全に存在を「否定」していた。私の心の中では、父は死んだことになっていた。

でも、大学の課題で「家族」がテーマになったとき、いやでも噴き出してきたのは父の記憶、父の残り香だった。

それから私は少しずつ、父という存在と向き合うようになった。実際とても辛かった。否定して考えないようにしていた問題だったから。

最初は連絡先の交換から。電話で少し話したり、姉から父の近況を聞いたり。そして8年ぶりくらいに父に再会。

最初の頃は、会った帰りは毎回泣いていた。辛かった頃の自分が溢れてきてしまい、父の存在をまだうまく受け入れられず、ぐじゃぐじゃに壊れてしまうからだった。

父と娘の関係を新しく積み重ねたことによって、今は笑って話せるようになった。父はクズとか最低とかじゃない。その言葉だけでは、私の気持ちは説明できない。私はきっと父が好きだ。親としてどうなのか、社会人としてどうなのか、人間としてどうなのかと言われると言葉に詰まってしまうけど、それでもなんか、死ねとか殺すとか嫌いとかにならない。憎んでいた時期を経て、ここが良いところだな、面白いな、凄いなあと魅力を感じている。今までのことはなかったことにはならないけど、ここまでに至る心の葛藤、気持ちの成長は一体誰のおかげだろう?実はめぐりめぐって父はとても親として素晴らしいとも言えるかもしれないぞ?


そんな感じで、今は「父は父だな」って思えるんだ。


私の場合はこんなだけど、逆もあるだろう。父が本当に亡くなって、でも、心の中に父は存在している。それも、出来事や存在を抹消できないことの一つの証明だと思う。


荒川修作の言う「死なない」ことというのは、私の言葉で置き換えれば「否定はできない」ということなのかもしれない。(荒川修作の説明は省略します)

「否定」を「否定」する「肯定的」な力の向きを感じる。言葉にするとややこしい。複雑だ。こういうのを物理のグラフみたいな、幾何学的な何かで表現できそうだなあ。


こんな経験を通して、いろんな人と出会い、いろんな人と関わりあっていろんな摩擦があり、いろんな発見があった。

人を見ていると、発見がいくらでもある。

私はこの発見が大好きで、大好物で、エネルギー源で、モチベーションなんだろう。私はきっとそういう生き物なのだろう。

だから、いろんな人と出会うほど成長できると実感している。

私は自分のこの姿勢がとても気に入っている。


この人は「クズ」だとか、「バカ」だとか「変」だとか決めつけずに、いろんな視点からその人を見る。その人のニュアンス(表現)を洞察し、そこにその人の生き様を垣間見る。そうすると、一言では言い表せない「その人」が立体的に、もはや三次元ではなく四次元、五次元となって立ち現れてくる。


そこまで味わう。

ご飯と一緒。噛めば噛むほど味がする。

みんなほんとに面白い。


さんきゅー!!






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