2018年7月5日木曜日

世界の表面に浮かんでいる、目に見えるものは全て入口

やっぱり夏は山下達郎でしょ!

私の制作部屋は夏でもクーラーいらず。

気づいたことがある。作品をコンスタントに作り続ける言い訳はなんだろうと。
そういうことからしか考えられないのは悪い癖ではあるかもしれないね。
でも私はここをスッキリさせていきたい。
この永遠の問いのようなものを毎回ちゃんと取り決めていきたい。
安心の約束。

言語化していくことも繰り返すことだね。
こういうところから、いろんな自然の成り立ちを現代語訳できる。

作品は入口なのだ。
作家は入口を作っているのだと思う。
決して、道を作っているわけではない気がする。
道というのはそれぞれの心の中にあるもの、というか、生起するものなのではないか。


道が目に見えないものだとしたら
そもそも道とはなんなのだろう。
よく歩くところ、ていうことかな。
よく踏みしめるところ、ていうことなのか。
道というものについても考えなくちゃいけないけど
道がそれぞれの中に生起するものだとしたら、私の目の前に広がっている世界の表面は、全て入口でしかないんじゃないか。

世界の表面は全て入口なのではないか。


作品を窓という言い方もできる。静止画とか、世界の一部を切り取ったものとか、そういうものじゃないと思う。
それぞれが覗き込んで、踏み込んでいく最初のきっかけが作品、入口で、世界の表面。
その中は可能性が無限にある。目に見えない繋がりで大きな空間が広がっている。
では、道とはそれぞれの歩みそのものなのか。

歩むことと同時にしか、道は存在しえないのだ。


私は入口をつくる人なのだ。
いろんなところに人を放り投げていく。そういう存在なのだ。
あいだを取り持つ人なのだ。
与えもせず、求めもせず、放り投げるために、絵を描こう。

絵を描くこと自体は目的も意義もない。
ただ、もし人に見てもらう意義を見出すとしたら、それはたくさんの人を放り投げるためなのだ。
入口に立たせて、その中に放り投げたい。
それぞれの歩みに踏み込んでいくきっかけになりたい。

ような気がする。


言葉にした瞬間になんか空回りしていく感じもある。
考えながら話すと空回りする。

0 件のコメント: