2015年2月2日月曜日

語ること。語り合うこと。語り継ぐこと。

私が明星学園小学校で学んだことは「自分の意見を話すこと」「他人と話し合いながら事を進めていくこと」。


日本人は議論が下手と言われる。
ツイッターなんかでのやりとりはまさにそんな感じ。不毛なやりとり。
議論の仕方もわからないで赤の他人とやりあおうとするからだ。


最初は身近な人とで良いじゃない。
何を言い合っても、少し行き違いがあってもすぐ関係を修復できる他者と。

それもできないとしたら、教育に問題があるんじゃないかと思う。


明星卒の人は、素直で飄々とした人が多いって思う。

同級生で連絡取り合ってる人なんて、正直2人しかいないけど。
遠くから見守ってる人はさらに2人くらいいるけど……。


ナイーブなんだけど、根拠なき自信を持ってる人が多いっていうか
堂々としてる。
頭良くないし暗算できないけど。
大事なことわかってる。
話し合うことが好きだと思う。
優しいと思う。
少なくとも、人のこと「それは常識はずれだわ」とあざ笑うことはない気がします。

その理由は、小学校の時の授業の進め方にあると思うのです。

明星は生徒たちが主導で授業を進めるスタイルでした。
先生は教えるというより、みんなが行き詰まった時にヒントを与える役割。みんなが最後に導き出した答えを整理して学問的に捉え直す役割。

この授業の進め方の良いところは、意見を言わないと進まないところ。
そしてそれぞれが出した答えの正しさよりも、いかに斬新か、説得力があるか、みたいなところが重視されること。
あんなにみんなを魅了した意見が、実は正解ではなかったりする。
あんなに面白いのになぜ?
そうか、答えはこういう成り立ちだったのね。だからあの意見では筋が通らなかったのだ。
正しいことは正しいこと。
面白いことは面白いこと。
正しいことだけが魅力的なのではなく、面白い考え方自体を魅力的だと捉える。
こんな雰囲気だと、間違ってても自分の意見を言える。
それぞれが平等に、正しい答えを導き出すための「言葉」を持てるのだ。

デメリットは、授業の進みが当然遅くなるとゆうこと。つまり、他の学校と比べて学力が…
また、最終的に小6になるといきなり詰め込み教育気味になる。話し合う内容も高度になるし。先生が説明しなきゃいけない部分も増える。詰め込み教育には慣れてない子供達なので、若干ついていけなくなる。


なぜこの話を書いたかというと、前の投稿で書いた「心の中の暴力を捨てることが第一歩」から、二歩目について書きたかったから。

私は他者に向けて語ること、他者と語り合うこと、そしてそれを続けていくことが絶対的に、すべきことだと思うんだ。

私はtwitterで口をつぐむことにした。
代わりに現実世界とブログで言葉をつむぐことにした。

無闇に、やたらめったら声に出すのはある意味暴力だ。
私はそういった暴力から身を引きたいと思った。

つぐむ。つむぐ。似て非なる言葉だな。


次回は、芸大の卒修展で観た小森はるかの映像作品「息の跡」と、趙純恵の歴史にまつわるインタビュー形式の作品について書こうと思ってる。
作品や彼女たちと話し合った内容から、地域の課題、社会の課題、起きてしまった原発事故と震災、様々な社会問題のことを色々と考えた。

私いつのまにかいろんな現実から逃げるのをやめたようだ。








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