2015年1月4日日曜日

Bardo Thodol

一日の出来事を思い返していただけなのに・・・・

今日は間違いなく、 いつもと心の糸の張り具合が違います。
高熱による解毒作用なのでしょう。

今一番言いたいことは、スーザン・ソンタグ読み直したい。
スーザン・ソンタグの「良心の領界」の一節に気にかかっている文章がある。

「自分自身について、あるいは自分が欲すること、必要とすること、失望していることについて考えるのは、なるべくしないこと。自分についてはまったく、または、少なくとももてる時間のうち半分は、考えないこと。」


私は、自分のことを考えているのか、自分という媒体を通して他者について考えているのか、果たしてどちらなのか、わからなくなっちゃって。

小・中学生の時、働かない父を責めると必ず「ともみはお母さんに洗脳されているんだ」
と言われていた。最初はまずその返答にショックを受けた。
自分の言葉を信じてくれない父に。私に対する完全否定の言葉に。
そして何度も言われるうちに、自分の気持ちが本当に自分のものなのかわからなくなり、狂ってしまったんだ。
自分の意思ってなんなのかっていう、揺るぎないはずの「自分」という存在意義が、土台から崩れ落ちたのがそんな若干12歳程度の、一番可愛い時期だったんだ。

それから私は自分をいつも疑うようになった。そして本当の気持ちとはなんなのかを考えるようになったんだ。
その頃の、父に無理矢理やらされていたZ会の教科書の全ページに「死ね」と書き連ねていた自分の、心の叫び。
痛切で純粋で、かわいそすぎて泣ける。
いつも何かを殺さなければならなかったんだね。

「告白」という映画で殺人を犯した少年も同じ言葉をノートに書き連ねていた。
私は人に向けてではなく、自分の心に向けて、あんな言葉を、ノートに突き刺していたんだ。
十数年前の自分って、前世みたいに遠く感じる。
だからズキズキしないよ。父への憎しみも湧かない。


いかに自我というものが脆いかを、そのときの私の身体は実感してしまったんだろう。
無意識のうちに。


それでまさに今。本質はそこだと、思っちゃったんだ。

ほんとの自分の気持ちなんて、わからないんだよ。


完全否定されると裸にならざるを得ない。
自分というものが解体されて、行き場を失い狂ってしまう。

今の私がなんで「本質」を求め続けるのか、そのきっかけは実は現世にもちゃんとあったんだということ、今ようやくわかったんです。
父に完全否定され、ぶち壊されたからだったんだ。

それにさっき気付いちゃってから、色んなことがどんどん腑に落ちています。

初めて付き合った人は、私のほとんどを否定する人だったんだ。
そんな人と向き合おうとしたのも、父に向き合おうとしていたあの頃と同じ理由なのではないか・・。
命の本質と向き合うことが、私にとって、誰かと愛し合うためのたった1つの術だったのではないか・・・・。
せつない。

どうりでなあ。

どうりで。

結局は父へのやりきれない思いってすごく強かったんだ。
私は父親がいないことへのコンプレックスなんかない、と思ってたし
好きな人が父に似る、なんてことは絶対にない、と思ってたし
むしろ真逆のタイプが良いと思ってた。
でも私が自覚していた部分てほんと表面のごく一部だった。
もっともっと、深いところではちゃんと繋がっていたんだ。

私はずっと父のことを気にしていたし
父にまともに愛されたかったんだ

私が恋人に「怒り」で感情表現することが多かったのも
父に向き合う時の選択肢が「怒り」しかなかったからなのかなと思う。
(これは捉えようによっては単なる言い訳になりかねないのであまり言及しない)

怒りの炎で相手の皮膚を焼き尽くして、魂まるごと見せやがれ、ということですね。

普通の人は大体いやがります。


私だってこんな自分を肯定なんてできなかった。


ちなみに、初めて付き合った人に言われた言葉で印象に残ってるのは
「お前は吹けば飛ぶやつだ」という悪口。
そりゃお母さんに嫌われるわ。
毎日泣かされて帰ってきたら、嫌われるわ。

でもほんとに私なんて、吹けば飛ぶ、ぺらぺらな存在なんだよね。
あまりに事実でした。
まさかこんな形で君の言葉を肯定できるようになるとは。

父親と、初めての恋人 って
どちらも私にとって初めての異性なんだよね。
そこもなんとなく繋がっているんだなあと感じるところ。


人は、自覚している範囲よりも無意識の範囲のほうが圧倒的に多い。
彼らは何も自覚はしていなかったはずだけど、無意識に、私にちゃんと本当のことだけを伝えてくれていたのかなと思った。


私が本質を求めて生きてきたことも、他人の本質と向き合おうという姿勢も、心をさらけ出しあえることが愛し合うことなんだと思ってきたことも、ここからはじまっていた。
自分の弱い部分、強く押し出してしまう部分、色んな部分は、ちゃんと過去の経験と密接に繋がっているんだね。
細かく細かく、ちゃんと繋がっている。
それは理由、答え、結論、とか、目的、意図、スタートとかゴールとか、そういうことじゃないの。
意味とか。意味があるかどうか問題でもないの。
意味は何にもつけられる。理由も何にもつけられる。
つけられる、ということじゃなくて、なにがその糸の真ん中を貫いているのか。
どんな成分がこの人生を流れ進んできたのか。
そういうことでしかない。



私は、魂の裏側まで見てください。って見せることが愛だと思っていたし
相手が見せてくれることも愛だと思ってた。

これは答えでも、目的でも、意味でもない。

なるほど。私というものはこのような脈絡でこのような因果で、このような道筋を歩んできたのね。
ということ。


これまで狂って死んでしまった人たちを殺さないためにも。
私はこうやって自分のことに、気付けてよかった。


これは、笑いと涙たっぷりで、父に説教としてお届けするしかないな。


私が恨むほど、父の罪は重くなる。
私が不幸になるほど、父の罪は重くなる。
でも大丈夫。
父の罪が少しでも軽くなって、少しでも苦しみの少ない世界に転生すると良いなって思います。



追伸

いままで暴力的な愛を色んな人にぶつけてしまったと思います。
それをお詫びします。
変な父と変な初めての恋人と、変な私の因果で
普通の人を普通に傷つけまくった。

でもなんだか変な人たちと普通の人たちのおかげで
要するにみなみなさまのおかげで
少し、私の愛も熟してきたのかなと思います。

どうもありがとう。



2015年1月1日木曜日

風邪がどいひ

年末から風邪をひいて、39.7℃も出た。
実家は六畳一間なので、ずっとテレビがついてて余計にうなされる。

体の感覚は、やめることの許されないフルオーケストラのような感じ。
全身が痛みを訴えても演奏が止まらない。
一日中、完成する可能性が1%しかないパズルを組み立てているような感覚。
一度完成したけどそれは奇跡だった。もうこれで苦しみから解放されるのかと思ったら、さらなる苦しみが訪れた。もう組み立てるのつらい。

最初は現実に対してくよくよしてしまう状態だったけど、そのうち何もかもがわからなくなった。
感情がなくなって、何もかもどうでもいい。何も把握できない。

寒い、熱い、をずっと繰り返してる。


 具合が悪い時って視界が悪くなる。ちょっと回復した瞬間に鮮やかになる。


今はちょっと安定した気がする。
また苦しくなるのかな。
具合悪いと、時空が歪むってゆうか、移動するね。
時差もある気がする。
あそこに戻りたくないなあ。

今は何か考えようとすると全てネガティヴにしか考えられないので、何も考えちゃいけない。
でも仕事や生活などを思い出してついへこんでしまう。
前向きになれないよー。
何も楽しくないよー。
早く治れー。
治ったら、この気持ちも良くなるのかなあ。


お母さんの作ったおせちの写真で、和みましょう。



私はお酒の横のポカリを飲んでました。

振り返ってみます

最近、今まで失ってきたものを思い出すことが多い。
それは後ろ向きな感情ではなくて、むしろ、失ったものを肯定的に受け止める準備ができた、ということなんだと感じる。

これまでの色んな苦しいことは、大抵乗り越えることができなかった。
ずっと死にたいと思って生きてきたことと、自分に自信が持てなかったこと。
これが一番大きな課題だった。
余計な我慢をしてしまったり、エネルギーを消耗してすぐ疲弊してしまったり、感情の浮き沈みが激しかったり、時にあり得ない程滑稽で衝動的な行動をしてしまったり・・・。
今思うと信じられないような出来事ばっかり。
自分の人生は「失態」という言葉がよく似合う。そんな感じだった。

生まれてこのかたずっと、山の頂には届かず、登り続けるばかりだった。
時々自分を慰めてくれたり励ましてくれるのは、その道中で出会う野花だったり、草原一面に朝日を反射する朝露だったり、人との出会いで生じる追い風だった。

2014年は、一つの山の頂にたどり着いた一年だったのかもしれない。

失ったものを振り返る日々なんて絶対につらい。
だから忘れたり、別のことに集中したりする。
けど、今は失うことによって心がぐんと広くなることに気付いているから、今までどれだけのものを失ってきたのだろう、なんて考えをめぐらせることができる。

失うのが怖くて壁を作っていた部分も、あまりに自然にほどけてしまった。
まったく別のドアから、それは丁寧に、私の心にやってきた。


小学生の頃は自分の生まれ育った家を失った。
今思うと、それはとっても大きな出来事だった。
中学生の時も家庭裁判所の判決を待つ前に、あまりに自分が精神的に参っていたため、母が強引に引越しを決行してくれた。
何度も何度も、自分のよりどころが揺らいできたんだなと思う。

物理的なよりどころから、精神的なよりどころまで、様々なものを突然失ったことを振り返っていました。


30日は親友のしおりちゃんと会った。
しおりちゃんは自分に自信が持てないという。
私も本当に気持ちがわかる。
そのとき話したこと。
自分に自信がないのは、実は皆一緒なんだよね。
根拠のない自信を持てるという、素晴らしい才能を持つ人も沢山いると思うけど
やっぱり人は、生きている以上、自分の命を脅かす出来事に対する「恐怖」は持ってる。
そこに注目するほど、人は自信を失ってしまうのかもしれない。

自信を持つことと、自分を肯定することは、ちょっと意味が違うんだと思う。
自信のない自分すら、まとめてちゃんと目を向けることが、自分を肯定することの一歩だと思う。
自信が持てなくても、自分のどこか一部だけでも、肯定できたらそれが希望になるはず。

本当は、しおりちゃんの心は、自分を心底愛してあげたくてたまらないんだよ。
弱いところと向き合うのが怖い自分と、弱いところもちゃんと向き合ってあげたい自分と、両方いるんだよ。
どちらか1人じゃないんだ。
だからこそ、あらゆることに目を向けなくちゃいけない。
人の心も自分の心も、とっても色んな表情を持ってる。
醜さも愛らしさも含めて、それが命の様相なんだもん。

そんな感じのことを言えるようになった自分。


いやあ。2014年はほんと。
最悪の出来事からはじまり、最高の出来事で幕を閉じました。
神様という存在じたいは信じていないんだけどね
神様からのご褒美だなって感じました。

私は胸がいっぱいなんだ。
これからどんな人生が待ち受けていてもいい。
こんなに幸せなことは初めてだ。


昔のブログに書いてあったこと。

いつのまにか自分と向き合わなくなったのかもしれない
恋愛なんてしたからかな いやそんなことない!
恋愛したら、かわいい気持ちいっぱい知ったし柔らかくなった。


そう思います。


完全に満たされた状態なんて、あるものか。
あるとしたら、それは何かが空間を満たしている状態ではないと思う。
全てが一切ない空洞の中を、風が目一杯に強く吹き抜ける状態なのかもしれない。


2014年12月29日月曜日

雨の昼下がりにカーペンターズ聴きながら絵本を描くのだ

忘年会はイメージと違ってとてもアットホームだった。
あんまりアートの話する人がいなかったな。
なんとなく、自分が彼らと少し違う世界の人間になった感触があった。
きっといつもイベントの打ち上げで飲むので、あの「語り合う」感がなかったからだ。
だからほわほわしてたんだ。

ま、なんだかんだでみんなのことは特別だ。
あの空間は特別であることには違いない。


さとしくんと、愛と荒川修作について話せたことがとても嬉しかった。
そして素敵な女性たちと話せたこと。
素敵ってまとめかたも幾分雑だけど、守りたい笑顔、的な愛くるしさだった。
なんだろうこの気持ち。


自分の中の「守りたい」という気持ちの芽生えには少し驚いた。
とても自然に生じた気持ち。
今までは「守りたい」という、脆く陶酔に満ちた愛情表現に違和感を感じていたけど。
親が子供に対して思うのならわかるけど、異性に対する「守りたい」って謎だった。
でも不意に「守りたい」と、素敵な女性たちを前に思ったのでした。
偉そうかな。


男性を素直に褒めるのも、女性を素直に褒めるのも、時々難しいな。
嘘っぽくなったり媚びた感じになる気がして。
こういうことは本人に言うか、絵に描くのがいいんだよね。
まずは心に据えるというだけでよい。

帰り道、せいやくんのシトロエンに乗って高速を走って30分くらいドライブした。
これがシトロエンなのか!と、つい「シトロエンの孤独は続く!」って叫んじゃった。
ミッシェルガンエレファントです。

外車のドアってとても重い。
前にBMWに乗せてもらった時も、ドアが重くてはさまれてうまく出られなかった思い出。


毎日色んなことを考えるけど、言葉に落とし込む余裕がないな。
前のめりで、その上尻込みしてる。前のめり尻込み。
体操にありそう。伸しつ前転みたいな。


会えるなら会いたい、会えるんだから会いたいと思う。

会えば会うほど、会えないことが浮き彫りになる。
それは悲しみでも寂しさでもなく、遠い現実の実感だ。


今日は雨だ。大好きな人、特別な人、想う人や想う土地、想う心っていうのが積み重なっている時こそ、それを込めなければならない。絵に。


もうこんなふわふわしたことしか言えねえ!
ふわふわしたことか、感動的なことしか言えねえ!
このごろ、ほんとに、特別過ぎるんだな。
どんなに愛でても、、満たされない。甘い甘い脳みそになっている。

ほんとに色々なことを考えるのだが・・・・今日は絵の日なんだな。

しおりちゃんについても語りたい。my loverだな。この一年で築いた新たなる親友。
何気に、津田さんとさとしくんも心の中では親友。


さてさて。制作制作。


右下、アトリエの床に描いた阿部くん。





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2014年12月25日木曜日

大掃除

ゴミ捨て間に合わず。
とても素敵な夢を見るが、全て夢。
切り替えようと湯を沸かす。
コタツの中でうだうだといじける。
お風呂が沸いて重い腰をあげる。
ふわふわのシーツやタオル類を洗濯機にぶちこんでお風呂。
靴下は石鹸である程度の汚れを落とす。
そうすると洗濯の時、より綺麗になる。
下着は手洗いする。そうすると綺麗に長持ちする。
英語の歌を歌いながら、どうしたら英語を楽しく勉強できるかなぁと考える。
お風呂から出たらどんな順番で何をしようか考える。
毛穴が開いたところで洗顔をする。
そんなこんなでお風呂を出る。
新しく買った下着をつけてみる。
腰のあたりまであるやつ。背筋がピンとして心地よい。
服を着てから一ヶ月以上放置された洗面台の掃除をはじめる。
誰かがやりっぱなしで放置したものを観察しておくには長過ぎた。
そうこうしてると洗濯が終わる。
ぱぱっと干して下着とマスクを脱水にかける。
タオルがいつもと違う匂い。
新しく入れ替わった洗剤は形は同じなのに匂いがきつかった。
中学生男子みたいだ。そのうち慣れるかな。量は少なめにしようと思う。
洗面所全体を掃除する。
脱水が終わって洗濯物を入れ替える。
コタツで友達がクリスマスプレゼントでくれた小説を読む。
色んな女性の恋愛模様がつづられる短編集。
女性受けしそうな言葉。思考。感覚。共感するけど、内容の強さより読みやすさの勝ち。
自分の午前の働きに少し満たされて、ブログを書き始める。
同居人が好きだという荻上チキのpodcastを聴いてみる。
出た、社会学者特有の早口とリズム。昔仲良かった社会学徒の一派を思い出す。
自意識過剰のこじらせ男子たち。今はどのような大人になっているのだろう。
チキりん達の繰り出す横文字に脳みそが刺激され、本棚の「美学辞典」を思い出す。
今日はそれを読んで過ごそうと思う。
そしてふと気付く。数年前、社会学徒がクリスマスにくれたのがこの「美学辞典」だった。
今日はクリスマスじゃないか。
読むにはとてもぴったりな日和だ、そう思った。

もうすぐ洗濯物ができる。

晴れの日にゆっくり洗濯ができることが嬉しい。
壁画制作をしていた頃は、晴れてればすぐ壁画描きに行き、雨の日は外に干せない。
健康なようで少し不健康だった。

チキりんのラジオ終わっちゃったし、チキンラーメンでも食べようかな。
ダジャレみたいだけど。

1人のときは大掃除がすすむ。
洗濯物を干し終わったら、ギターを弾きながら声に気持ちを乗せてみよう。

尾崎豊

尾崎豊聴いてたら、正気でいられなくなってきた。
くおおお。これは制作中に聴くべきだ。
すごく辛かっただろうな。
高野悦子を思い出してしまう。

のほほんとしてられなくなる。

http://youtu.be/2jIzDiAbI0o


人はどこか惰性を持たないと生き抜けないようにできているのかもしれないけど
優しすぎて自分を傷つけてしまう人を放っておく世の中なんてきつすぎる。

だから強く生きなきゃ
がんばって強く。

正気でいられなければ、正気でいられなくていい。



この手でこさえてゆくこと

ここ数日の諸々の思考をまとめよう。

12月10日にインターステラーを観た。
主観が中性化される感覚があった。アメリカ映画特有の主人公本意のストーリー展開で、やっぱり完全に主観を中性化することはできないのだなと思った。
でも、物理的に目の前に現われる現象だけではなく、目に見えないけどそこに在るものをどうにか捉えようとする行為があり、言葉があり、自分という実存も曖昧な存在も深いところで肯定している感じがあった。しかもそれを「愛」とか「会いたい」とか、とっても単純な言葉で、でもしっかりと言葉として残そうと伝えようとしている姿に人間らしさを感じて愛おしくなった。苦しい気持ちにもなった。愛おしさというのは半分苦しさなのだな。
そうでありたい。そうでなくちゃ。そう思うほど、解脱は遠くなる。
避けたり削いだり捨てたり真っ直ぐ本質と向き合う人は、やはり周りからは狂っているように見えるだろうし、その周りの目線がグサリグサリと跳ね返って、自分を傷つけてしまうのだろう。
敵でもない、味方でもない。他人でもない、自分でもない。そんな風に自分のことも外の世界のこともありのまま感じられたらな。
しかし私はまだ無理だ。
遠い五次元を懐かしむことができても、まだそこにたどり着くことはできない。

宇宙という目視できない世界を、五次元を、そして人の心の欲求を、人と人の心の対話を、時空をこえた愛情を、そういったありとあらゆる「目に見えないもの」を映像化したことが凄過ぎる。

日本映画もアメリカ映画も、その違いが曖昧になるくらい近づいてきたら面白いのにな。
どんどん人の違いが曖昧になって、どんどん距離が縮まって、融合する寸前までいったら、と考えてしまうときがある。
「ロシュフォールの恋人たち」と「たんぽぽ」と「恋愛睡眠のすすめ(邦題ださすぎる)」が好きだけど、これらに共通点はあるのかな。
いや、結構あるか・・・。

じつはゴダールやタルコフスキーを全然知らないので観ないといけないと思ってる。
黒澤明とかも。


12月24日。芸大の取手校舎に搬入のお手伝いに行った。
22日も行ったんだけど、なんと学部生の講評が終わってからの作品入れ替え組。
22日に搬入ができないと。
24日の学部生の講評が終わってから、17時〜20時の間に搬入しろと。
なんという暴挙。こんなことが許されるのかと本気で思う。
ガチで作品つくるのがこの大学で一番大事なことのはず。
もちろん、搬入がすぐ終わりそうな展示を選んでこういう組み方をしているんだろう。
大変な作業の人は設置に数日かかる人もいるから、そういう人はこんなことにはしないのだろう。
どうやら休学等で人数が増えていることが原因らしい。
とはいえ、こんな体制でいいのだろうか。こんなことで、良い作家なんか出て来るのだろうか。プロのアーティストたちが教鞭をとる場として、こんな状況はあり得ないと思った。どうかしてるよ。先生たち、どう思ってるのかな。これもアーティストとしての修行だと思うのだろうか。馬鹿げてる。

それは置いておいて、そんなこんなで22日はシミュレーションと準備。本日が搬入の本番でした。
とてもよい展示になった。素敵だ。
おばあちゃんの吊るし飾り。大工さんの展示台。この1年間の思い出のつまった美しい写真たち。
じぃん。
今年は「美しい」を多用している。しかしそれ以外の言葉では到底形容できない。
思えば作品は何かしらの「美しさ」をたたえているもので、そうであるべきだと思っていたし、作品は自分の美意識や美徳の移し鏡のように捉えていたけれど、それでも何かを「美しい」と表現する機会はあんまりなかったように思える。
今年は「美しい」ものを沢山発見できた年だったのだろう。

来年は、もっともっと素敵な写真が増えるんだろうな!!!!!!!


今年の修士二年生は、実は私が修士二年生の時の学部四年生たちなんだ。
だからとっても身近な人たち。
芸大に二度も行って、懐かしい後輩たちの声を聞きながら搬入して、とってもとっても居心地よかった。
あーなつかしわー、おちつくー。って思った。
なんだかんだ、芸大の取手の先端ってのが、私のホームなんだなあと思った。
今の環境からだと、みんながみんな、必死で、本気で、全力で謎の「作品」とやらをせっせせっせと作っているなんて、摩訶不思議なんだけど。
これが私たちの必然で、当たり前なんだよね。
不思議だな。こんな不思議な空間に7年もいたなんて。
これが私のホーム。

そして今はそんな芸術畑の芸術家と、ほんとの畑を耕す地域住民たちが出会って
それぞれの「手作業」を、手の内をさらしあい、地域の方は「ほほほう、これがアートというのかい」となり、私たちは「ほほほう、これもアートではありませんか」なんてやりとりをしている。
私のこれまでの意識での「アート」が、おじいちゃんおばあちゃんたちが日々積み重ねてきた愛おしい「手作業」とが、がっっっしりと繋がった。私の心の中でピカーーーンと繋がった。そんな素晴らしい出来事がこの一年で起きた。
私の中で!

見ていて感じる新鮮さ、聞いて驚く生活の違い、そういうものと毎日のように遭遇し、対面してきた。
その経験が、私に変化をもたらしているのを今、感じる。
私は高校時代から歯列矯正をしていたんだけど、その矯正の器具がキリキリと歯を締め付けて、歯が動いているのを実感している時と同じような感覚。
明らかに私の中で変化が起きている。化学反応が起きて、目も、味覚も、手触りも、あらゆる感覚が形を変えていっている。

大きな変化の1つはこれ。
行程を経て何かを「作り上げる」ことに喜びや楽しさを感じるようになった。
便利なものを使ってインスタントにサクっと作ることではなく
色んな面倒な行程を1つ1つクリアしながら作ることは、質も経験としても、厚みが全然違う。
すぐ気が合って肉体関係を持って付き合っちゃうんじゃなくて、ちょっとずつデートを重ねて相手を知っていくような感じ。すぐ近づけなくても、ちょっとずつ近づいていく、その行程を愛せる。1秒1秒が大切で仕方ないひととき。そんな感じ。
純愛みたい。

そのおかげで、今までよくわかんないし向いていないと思っていたインテリアとか生活用品の整備が、身近になってきた。
ほとんどのものを必要のないものと思ってたけど、人が皮小物を作りたくなっちゃう気持ち、コースターを作りたい気持ち、棚の上に置物を飾りたい気持ちがわかるようになってきた。
こんなにも手作業には人を癒す、幸せにする、豊かにする力があるのかと驚いた。
みんな自分たちで物を作ることによって生き甲斐を見出しているということに驚いた。

物作りは命をかけて、命を削って行うものだと思っていたので。
私、少し、心を落ち着かせて、のほほんとした気持ちでも何かを作り出せる気がした。

でも本質的には自分は修行僧だという意識があるので、無用なものは作りたくないし消費はしたくないし、やっぱり自分は命と向き合っていなきゃいけないとは思ってる。

でもでも、お隣のおばあちゃんが作るものにはどこにも惰性や雑さはない。無心で、夢中で、心のこもったものを作り出していて、しかも、そこには長年繰り返してきた深みがある。味がある。技術がある。強さがしっかりとある。
作品には説得力と強度が必要だと思っている。おばあちゃんの作ったものにも、ちゃんとそれがある。
「命をかける」にも、色んなかけ方があるんだと思った。

すっごい勉強になるんだよ。


私、これから色んなものをこさえていきたい。
日常に必要なあれこれを。床板一枚一枚を大切に思うよ。
生活を豊かにしていくことが、心を豊かにしていくことにも繋がるんだね。
どこにいってもそれを忘れない。
どこにも定住しないかもしれないけど、どんな土地でも、その場にあるものを大切にしたいし、想いを編み続けたい。


私は流れるように文章を書くね、と言われて、そうかもしれないって思った。
とてもよく言われることの中で、自覚できていないことの1つ。
それは自分と他人の違いがわかりづらい部分だからだと思う。
流れるように文章を書くことが、「頭の良さ」とか「要領の良さ」とかと直接結びつく特徴ではないっていうことを最近は感じるようになった。
これは長所とか短所とか、自分の性質を代弁しているわけではなく
思考の「風味」みたいなもんなんだなって気付いた。
音楽に例えるとメロディとかリズムじゃなくて、響き。みたいな。。
思考のパターンではなく、カラーでもなく、偏り具合でもなく「風味」なんだろうなと。
そうすると大抵のことを、極端にゆがめることなくスっと受け入れられる気がする。

私はなんでも私フィルターで歪めて色んなことを受け止めてきたんだな、ということも気付けた。
なんだかだんだんと、自分なりに大人になってきている!


ちなみにうちのお母さんはFISHMANSが大嫌いらしい。
大麻臭でもするのかな。
FISHMANS好きに悪いヤツはいない、とは言えないけれど
FISHMANSは素晴らしいですよ。ほんとだよ。
でもそんな風に言われちゃうと、なんだか聴くのが億劫になる。
確かに暗さや汚さみたいのもあるけど。
このホコリっぽさが、やっぱり都会の空気なんだよね。
私には懐かしくて身近なものなんだよね。
FISHMANSとか若松孝二とか、とっても凛々しくて、瑞々しいと思うんだけどね。

2014年12月23日火曜日

つなぎとめない

少子化とか、過疎化とか、社会や地方の抱える問題は沢山あるけれど
発想や新しい選択肢が増えることによって防いだり、改善したり、展開させていけることもあれば、抗えない自然の流れというのもある。


繋ぎ止めようという努力は、実は虚しいことだ。

繋がることはあっても、繋ぎ止めようとはしない。




抗えない自然を受け入れたり、ただ観察しているだけでも私たちは色んなことを学べる。
豊かになれる。


何もかもに言えることだと思う。


山とか川も「自然」というけど、自分の中から想起する感情や時の流れ、うまくいったりいかなかったり伝わったり途切れたりすることも「自然」。
壊れることも自然だし、衰えることも自然。消滅することも享受していく人になりたい。

日が落ちて、もう電気をつけないといけなくなった。
色々と大掛かりな仕事に区切りがついたため、一気にお休みモードになってしまった。
だらだら。

大学で後輩や同期が作品を搬入してた。
会えて嬉しかった。
私もやるんだ。作品のプランを練ったり、ご飯を食べたりする。
大量の野菜をスープにした。
放射能を体内に取り入れないための野菜の使い方、茹で方をこのまえ福島の知り合いに聞いた。目に見えないものを気にする。


やる気ゼロな日でごじゃった。




no title

人を分析するのが好き。
なぜなら、人はどんなに分析しても未知であるからだ。
相手の心を掴みとれた気になった時の心地よさは、自分の感覚が相手に向けて開いている気がする喜びだ。
それでもすぐに実感をすり抜けてふわりと遠ざかってしまう。
相手の心と自分の心が砂浜の波間のごとくゆらゆら往き来する様を感じて、嬉しい。
また触れたい、知りたい、感じたい、見ていたい。そう思う。
「繰り返し」というのは、「反復」というのは、「退屈」ではないんだ。
毎日を鮮やかに真新しく感じる心が営む、日々の美しい所業なのだ。






朔旦冬至

今日は冬至でしたね。
もっとも太陽が上ってる時間が短い。
車の中でずっと太陽浴びていたからそんな感じがしなかった。
取手は常陸太田よりあったかかった。
今年の冬至は「朔旦冬至」というらしい。
一番太陽が短い日で、なおかつ新月の日。
これから日照時間が増えていくこと、月が満月に向かうこと、太陽と月が復活に向けて動き出す日だからとてもめでたいみたい。
おもしろいなあ。
19年に1度しか来ないんだけど、次は38年後らしい。
最近、「◯◯年に一度」が多い気がする。
毎年なにかしら、きっとあるんだろうけど、それにしても多かった気がするなあ。

みやた氏の修了制作の搬入が半分終わる。
お揃いの下着とお揃いのワンピースを買って、ふざけてしまう。
アウトレット安いんだもん。

その人のこと考えるとへらへらしちゃう。ってくらい好きな人がいっぱいいて嬉しい。
名前を出すときりがなくて、おまけにバランスが崩れるので「いっぱい」としか言えないのはなんだかさみしい。
自分の好きな友達の話を、人に言いまくりたいときがある。
それでも恋と友情は全然違うから不思議だね。
人の恋を見ていて、謎ばかり感じてしまう空っぽな一年だったけど、ようやくわかる今。
私はこのさき、いつだって、自分の愛情に自信を持てる気がするよ。
ここ数年で、人ってこんなに変われるんだと身をもって思い知った。
驚くべきことすぎて毎度書いてしまうけど。
だから私は大好きな友達が悩んでいても、あなたなら絶対大丈夫だ!って安心して言い切れるよ。


ある人が私を根っからの明るい人だと言っていたので、見当違いではないかなと思った。
人に見えている部分って、人によってそれぞれだなあ。
私はどうしようもないくらい、殺伐とした人間だったんだよ。
いや。あるいは。彼は私の一番明るい部分を前向きに優しく見守ってくれているのかもしれない。
ネクラだと思われるより、よっぽど幸せだね。


先日は鉄割アルバトロスケットという劇団の舞台を大人数でぞろぞろと見に行った。
一番前の席でおせんべいかじりながら、お酒ちびちび飲みながら大笑いして見た。
面白かったなあ。
食べ物と植物を粗末にするところや、大麻のネタが多いのがちょっといやだった。

でもすっごく面白かった。
またいつか観たいと感じた。
よくあんな面白いことや、意味のないことや、逆につまらないことも、思いついて実現できるなあって。
演劇の面白いところは、「空気が作られる」ところだと思う。
美味しい料理の良い香りみたいに、味のいいものはいい匂いがする。
入っているものがちゃんと調和しながら心地よく漂うものだと思う。
だから空気をガラリと変えてしまう役者は素晴らしいし、場のムードを自分たちの方向性にちゃんと持って行ける劇団にはお客さんも置いてけぼりになることなく、どんどん引き込まれる。
安易に消費されるようなのはいやだ。でも明るい気持ちにしてくれるのは素敵だ。


インターステラーを観てから映画ブームで、勝手に分析ブームで、感覚を試したいブームで、今までにないくらい色んなものを観るのが楽しい。全てを俯瞰しちゃうモードみたいだ。
これ、不意にヘコんですべてブチャっと潰れるやつかな?


中に良い役者がいた。やはり抜きん出ていた。
40話くらいのショートストーリー(というかショートコント)によって構成された演劇だったんだけど、かなり出てた。
彼が出て来るとだんだんお客さんも安心するし、期待するようになってた。
しかもいつも期待を越えて予想違いの驚きと面白さを魅せてくれた。
パンフレットをみても名前はわからなかったけど、きっと一番上に書いてあった人だろうな。
大倉孝二に似ていた。私は大倉孝二に似ている人をはじめて見つけた。
彼はとても良い役者だと思う。背が高いのも舞台俳優としては長所だし。
頑張ってほしいなあ。

演劇を見に行った仲間たちは今後常陸太田に呼びたいアーティストたち。
一緒にやりたいことが沢山ある。
彼らにしかできないこと、常陸太田できっと面白いことができるって信じてる。
地域の方の力を借りて、地域の方たちの想いに寄り添って、そして自分の意思を強く抱いて、沢山沢山、手作業を重ねていきたい。


ちなみにだけど、どうしても触れられたくない異性って何故いるんだろう。
静電気こわいみたいな感じで。
お父さん気持ち悪いから近づかないで、に似た感覚。
そんな感情を持つ自分はワガママ娘のようで、ちょっと嫌になる。
私の心はまだまだ濁っているんだな。


28日の忘年会が楽しみでたまらない。
愛すべき人たちが終結するアリエナイ ナイス忘年会だから。
なぜかあの場に集まる人たちって、良い子しかいないんだ。
不思議なんだ。ほんとに不思議なんだ。
空鼠の求心力なのだろうか。彼らもすごいなあ。
まずは津田さんよ。会うのがほんとに楽しみである。

改めて思うよ。今日の修了作品の搬入でも思ったことだよ。
ヒタチオオタ芸術会議が最高だったよ。
思い出すとジーンだよ。
関わった誰もが、愛おしいよ。

常陸太田に来てくれた全ての人たちが好きだしね。
えー人しかおらん。ありがとう。
こーゆー「好き好き」という気持ちにどっぷり浸かるときも、大事だと私は思ってます!

地域のアートプロジェクトのたびに泣きながら逃げまくった過去の私とは少し、違います。
頑張る。頑張るよ。頑張るよ。常陸太田の仕事がんばるし、考える。相談する。
いいものを地域の人たちにみせたい。作りたい。自分本意ではなく動きながら、自然に面白いことが生み出されていく場を作り出したい。
みんなが楽しんでいる時間を見ていたい。感じたい。

これからはなんか、どんどん、仕事内容も目的も全部ちょっとずつシンプルにできる気がする。やりたいことが、そぎ落とされて、けっこう眼力が増している気がする。


晩御飯で食べた辛いラーメンが辛すぎてお腹が辛いまんまだ。
刺激に弱くなってきてる。
そしてウップ、となるたびに、ものすごい激辛がこみあげて激痛。
最近ドキドキしすぎて、自律神経失調気味です。
お腹痛い。嗚咽が止まらない。
ちょっと疲れているのかな。年末年始はゆっくり実家で制作するのだ!


プレイリストに飽きたのでア行から順番に音楽聴いてるけど、OGRE YOU ASSHOLEさいこー。名前ひどいけどさいこーーーーーーーー!
こういう声の人、ちょといやだけどさいこー。

声でいったら山中さわおと宮本浩次と星野源と岸田繁がすきだな。

くるりのクリスマスソング良かったな。

2014年12月19日金曜日

朝の日記

げんきもりもり!!!

朝8時40分。
昨日の夜さむすぎた。
風を通さないウィンドブレーカーの上に、2月のドイツを乗り越えたフッッカフカのアウターを着て、マフラーして手袋して・・・それでも寒かった。
ヒーターに頭を押し付けて手をかざして暖をとったけど、下半身がひんやり。
眠りについても時々目が覚めて、寝返りをうつとひんやり。
気付いたら片方の手袋と片方の靴下が脱げてて、ひんやり。
何時かなとiPhoneに触れてひんやり。
茨城、県北、ここまで寒いでしたか?
昨年より寒くないですか
それともリビングが寒いのかもしれない。

早めに春が来るといいな。

今も片方手袋を失ったまま、キーボードを打ってる。右手ひんやり。
でもさあ、お日様ってすごいよねえ。
お日様が出て来るだけで少しあったかいんだもん。

昨日は朗報だらけだった。
大工さんの妹に彼氏ができたと連絡が来たり、うちの姉の新しい勤務先が決まったり(正社員!!)、なんだかハッピーでいっぱいだった。
みんな、幸あれ!!

県庁では地域づくり委員会の提言集会で、県南、県央、県北、県西、鹿行の提言の発表と提出があった。
明日の茨城を考える女性フォーラム13期もそろい踏みだった。
とても若くてお洒落で綺麗な方ばかりなんだけど、意外と、自分の母でもおかしくない年齢で衝撃。
そういえばうちのお母さんも50代の時はぴちぴちしていたなって思い出した。


最近1年を振り返ってしみじみばかりしてたもので、自分のブログをずっとさかのぼって読んでた。
昨年の9月から更新していなかったブログを今年の5月あたりに再開して、半年経つわけですね。
そして色々と分析したりしてました。
1人で笑ったりしてました。

いっぱい仕事するぞ。いっぱいするぞ。いっぱい絵を描くぞ!

まずは石油ヒーターを買わなくちゃいけないとおもうの。

2014年12月18日木曜日

励み

近くにいたってあんまり会わないものだけど、遠くにいると会う機会を作りたくなるもの。
私は昨年の秋、自分の生まれ育った神奈川を離れて、茨城の、知り合いの誰もいない場所で新しい仕事と新しい生活を始めた。
それが引き金となって、「会いたい」人が定期的に現われるようになり、また「会おうよ」と言ってくれる人も定期的に現われるようになった。

これがとても自然なことのように感じる。

会いたいと想うこと。会いに行く時のわくわく感。会えた瞬間にどっと流れ始める相手との呼吸のリズム。

そして、大切な人が遠くにいることが励みになる、ということも気付けた。







遠くという概念も、近くという概念も、すごく曖昧だ。同じ市内であろうと東京であろうとイギリスであろうと、遠かったり近かったりする。

生きている、同じ時間を生きている。それだけで、いとも簡単に会えてしまうから。
会おうと思ったらいつでも会えてしまう。
でも、どんなに遠くても近くても、会えた時の高まる気持ちは一緒だな。


何が言いたいんだっけな。



会えないことは励みにもなる。


色んなことを肯定できる。



私のテーマ「会いたい」が、一年でいつのまにかこんなに深いところまで掘り下げられてたなんて嬉しいなあー。




今ならちゃんと心を込めて、本当のこと言える。

気持ちを素直に人に伝えられる。
ぬか喜びも、妄想もしないんだから。


もてちゃってもお断りできる。

絶対弱みにつけこまれない。
この一年の私の頑張りが自信になってる。
男に翻弄されない。
好きな気持ちも大事にする。
誰にも振り回されない。
人の気持ちもありのまま受け止められる。


すべての出来事を実感できる。
すべてのラブソングが心に沁み入る。

こんなに満たされたひとりぼっちがこれまであっただろうか。
生きてきて良かった。



1つの悩みがあるけど、それとも毎日戦っている。

こんな倦怠期みたいな苦しい家庭はいやだ。息が詰まるのは自分のせいだ。
大丈夫だ、悪いことは謝ろう。ごめんとありがとうを素直に伝えられる人でいよう。

優しくてくだらない生き物になろう。

やわらかくてどうでもいい生き物になろう。


やっぱり今のうちにたくさんぬか喜びしておこ。



2014年12月16日火曜日

心配

本能や自分本意の欲動は「直感」ではない。
本能に従うことと直感に従うことは決定的な違いがある。

間違うのは間違いではない。
けど、食事がいい加減な人は心も不健康にしてしまう。
それが自分も他人も傷つける。

私は感覚に従う。
本能は、ないがしろにせず受け止めるばかりだ。

直感は知恵なんだ。
これまでの経験や学びに裏打ちされたその人自身の現在に輝く最高の感性のはずだ。
大雑把な勘ぐりや思いつきとはまったく異なる厚みがある。
深いところからまっすぐに飛んで来るメッセージだ。

直感は必ずしも、自分の利益とは繋がらない。
欲望を満たす決断をしない時は多い。
そこが本能との決定的な違いだ。

本能を信じて身を委ねていてはあぶないよ。
直感は本能に宿るものじゃないんだ。
本能は心を寄せる対象ではないんだ。
欲望を後押しする弱さでもあるんだ。

本能はリズムであって、乗るものであって、決してそれに流されるものではないよ。

とくに磨きもせず野放しにしている腐った本能を正論のように振りかざす男女は
そのうち自然と心の底から砕けて朽ちるだろう。


目前の満腹感を追いかけて消費するんじゃないよ。
そんな行為で、すでに何人もの人をめちゃくちゃに傷つけているかもしれないよ。
気付かないことで生きながらえようとしても
それは苦労でも、努力でも、生きることでもない。
いつまでも地獄を千鳥足で徘徊していることになるよ。
それで自分や恋人を救えると、君の心が信じるならば、構わない。

自分の欺瞞と強欲と弱さに気付いて。
偽善者なんかに成り下がるんじゃない。

想い出の散歩道

私が泣いてしまうのは、愛する人がいっぱいいるから。
感謝したい人がいっぱいいるから。
私を見てくれてる人がいっぱいいるから。
相手がどう思っているか、という不安がない。

いつもこんなことばかり書いてしまってあれだけど
私はほんとに変わったと常々感じているんだ。

誰かがこうだから、悲しい とかじゃない。
誰かに何かをされたから辛い とかじゃない。


元気なくても、自分の顔が良い顔してると元気でる。
なんで良い顔してるかと言ったら、人と食べ物と自分から、沢山栄養摂れてるからだ。
ドキドキは、時々でいい。
何も諦めずに、口笛吹くのだ。

2014年12月12日金曜日

東京駅にて

今は胸がいっぱい。この気持ちはただ言葉にするだけで果たして伝わるだろうか。人にはタイミングがある。作品は人のタイミングに寄り添うことができる画期的な表現手段だと思う。そう、絵を描こう。

What I mean to say

人と生活を作っていきたい。丁寧に。

もう少し深い話を人にしたい。
届きそうで届かない。透き通る鋭敏な感覚を述べたい。
本気を出すと何故か怒っていると思われたりするので、やわらかい振る舞いを重視すると考え方もふにゃっとしてしまう。のかな。
以前の私は「怒り」としてエネルギーを表出してたのかなとも思う。
社会への、自分への。どうにかしたい、繋がりたい、みたいな様々な気持ちが「怒り」に似た炎のような感情で出ていた気がする。
「怒り」のエネルギーをうまくコントロールして「怒り」以外の気持ちで鋭く切り込んでいきたい。一年でそういうのができるようになりつつあるなと思う。

また、1つの区切りの季節が来たようだ。

この一年を、そろそろ振り返る時期かなと思う。
旅立つ人との「しばしの別れ」の時期とも重なり、つい涙がこみ上げてしまう。

来週旅立つその人と少しずつ、少しずつ、自然にゆるやかに、共有する時間を重ねながら関係を積み上げてきた。
その関係構築の流れが、あまりにも、この一年を優しく踏襲していた。
まだまだな自分ではあるけれど、関係が深まっていくたびに、自分の一年の成長を感じずにはいられなかったんだ。

ほんとにありがとう。
いずれ、ブログじゃなくて直接それぞれにありがとうと伝える日が来るんだろう。

心が通じ合う感覚、遠くにいても繋がっている感覚、私をありのままに見てくれる視覚
しっかりと温もりが感じられる触れ合いが一年のうちに何度もあった。
ありがとう。

ひとりぼっちで歩いていても、私に向かって風が吹き抜けたり、面白い本に出会ったり、色んな素晴らしいことが起こるよ。

大切な気持ちを抱いた相手にかぎって、どんどん遠方に行ってしまう。
でも、私はそういうことも全部私のために起きている出来事だって確信できる。
考えようとすればいくらでも卑屈に、より不幸に捉えることはできるけど、やっぱり感覚は「そうじゃない」と言う。


思えば、「会いたいけど会えない」が1月からずっと私にのしかかっていたテーマだったんだなあ。
もうどこにもない安心できる場所。どこにもない温もり。平行線でいくらたってもたどりつけなかった。探さない。会わない。会いたくない。会いたい。でも、会えない。
そういうジレンマを抱えてたんだ。

だからこそ、会えないことを前向きに捉えられるきっかけをくれた人たちに凄く、凄く、深い意味を感じるし、めちゃくちゃ感謝しているし・・・感慨深いわけだ。


時間は有限なんだ。
私は、たとえば恋人ができたらずっとそばにいたいと思ってた。
「会えること」を前提にして恋愛関係を捉えていたんだ。
でも、友達って会わなくても全然平気だったりするじゃん。
この「会いたい」「そばにいたい」は、結局「1人になりたくない」という寂しさから来る欲求でしかなかった。
実は、大切な人でも、会える時もあれば会えない時もあるものなんだ。
そんなに不思議なことではないんだ。
会えなきゃ駄目、ではないんだ。

時間は有限なんだ。


12月2日の手記から。

時間は有限なんだなって思う。輪廻転生という観点では、生と死との反復には無常の永遠性があるけれど。矛盾と整合が二重螺旋のように、あるいはメビウスの輪のように、ぐるぐると揺らぎながら転回している。
でも今生において、時間は有限だよね。
今の私が持つ時間はいつか終わる。次の生に移行してしまう。
好きな人とずっと一緒にいたいとか、会えないのがさみしいとか、結婚しても互いに出張が多くて共にすごす時間が少ないとか、あると思う。でも時間が有限である以上、会える時間も限られてるんだよなって。
会える時間は大切だけど、会えない時間も同じくらい大切なんじゃないかなって。
会えないからどうの、会うからどうの、ではなくて、愛はもっと寛容て鋭敏で、いくらでも感受できる。相手の心とどんなに遠くても繋がることができる。
だから、会えないこと、まだ出会えていないことを気にしなくていいんだな。なんて思ったよ。



ずっとそばにいてもいられる時間は決まってる。会えない時間も関係は積み上げられる。
これはこの一年で実感したこと。
たとえば空鼠のみんなと壁画制作をしていた頃の濃密な時間が、一年に一度しか会わない関係の中でもじっくり熟されてより深いものになっていってること。
もしかしたら私が変わっていくことで気付けた愛情関係なのかもしれない。
あんまり人に見てもらえているという実感がなかったけど、彼らは私を普通に、ちゃんと見てくれてた。てか歓迎してくれてた。家族みたいになってた。
相手が自分をどう思っているかなどを気にするような関係ではなくて。
大事に思える関係なんじゃないかなって思う。そういうのって嬉しい。
時間ってそういう効果がある。

会えない時間も楽しめる。だからこそ、最大限会いたい。

矢野顕子のWHAT I MEAN TO SAYの歌詞を引用しなくちゃ。

http://petitlyrics.com/lyrics/51502

2014年12月7日日曜日

咲くこと

私は切ってある花より野に咲く花が好き。
美しいからといって「咲いている部分」だけ切り取るのには不自然さを感じてしまう。
人間の真理としては自然でも、生き物の原理としてはとても不自然な状態だもの。
何故この花が美しいか。何故この花は「咲いた」のか。その物語を切り取りたくない。

どんな欠陥があってもいいから、良いとこどりをするよりもありのままの素朴な姿を見つめたい。



最近?簡単に嬉しくなる。
温度はぬるめに設定している。
上がったり下がったりしても、呼吸を整えて平常に戻すの。

この心地よさは、どんな悲しみも乗り越えられるぞっていう気持ちによるものだ。

人の眼差しを受けて、私はすくすく育っている。

イベントごとが多かったため、沢山の地域の方とご挨拶する機会が多かった。
人に知ってもらってたり、リラックスして話せたり、面白いことを共有できたり笑い合えたりすることが嬉しい。
今日は夜、期日前投票に行ったんだけど、全員知り合いだから、楽しい投票になっちゃった。
市議選と総選挙がかぶってるので、どの紙にどこで書く、というのがこんがらがってたら、選挙管理委員会と役場の職員の方に、そこ右だよ!そのまままっすぐ!と言われてRPGみたいにギクシャク進んで笑われたり。自分でも笑ってしまった。
帰りは全員があるだけのお菓子をかき集めて渡してくれた。。
移住してからずっとお母さん的存在だったけど3月に退社した女性に久しぶりに会えて、ずっと渡したかった退社祝いをやっと渡せた。
「クリスマス会しようね」って言われて嬉しかった。
予定がなくてよかった!

昨日は昨日でとても楽しかった。バーベキューに野外上映。テント張ったり。
火を絶やさないようにするのがなんとも楽しかった。
ただ火を絶やさないようにするのが楽しい。不思議よ。
服が焚き火臭い。
英語得意な人が2人いて、流暢な英語を話していた。
私はチャレンジ精神だけはあるので、英語もできないのにでたらめに喋っちゃった。
何かきっかけがないと、なかなか英語の勉強ってできないなあ。
目標を立てたり、何か応募したり、学ぶ楽しさを見つけなきゃな。

アート、作品、地域、人間、暮らし、好きな人たち、自分の仕事

たまに饒舌、たまに無口にならなきゃね。