2017年4月20日木曜日

Trigger

「普通じゃないから引く」なよ
「頭おかしいから引く」なよ
全然面白くない

ともを

昨晩の投稿

吉原弁財天に林友深の旗が増えてた!
インド帰りの友人が弁財天の前でマントラを唱えていたとき、風と鈴の音がお経のように聴こえた。
インドの話を聞いていたら、ものすごいトランス状態に入ってしまった。意識が川のようだ。東京も茨城も特別でどっちも好きだけど、東京の広告の量はやばい。茨城で、完全な暗闇の中で自然の中に潜む命の気配を感じながら眠りについたり、まだぼんやりと暗くて寒い時間から農作業をはじめる近所のおじちゃんとおばあちゃんたちを感じながらまた眠ったり、お日様の光に起こされて植物たちが息を吹き返す姿を、目を凝らして覗き込んだり
テレビがないから民謡聴いたり、アリの歩みに連れ添って田んぼのあぜ道を歩いたり、そういう生活が恋しくなった。
わたしは「社会」を生きるために面の皮を厚くし、意気揚々と煩悩を着込んでたんだな。
自分というものにかなり支配されていたんだな。
自分が自分を忘れると不安になるのは、漂流物である魂はいつだってどこかに定着したいと願うからなんだ。

燃えた煩悩

煩悩可視化モードに入っているため、日本の情報量にあっぷあっぷしている。
俗世が悪いとかじゃないんだ。
自分の煩悩が軽薄だと気付いたときの愚かしさと虚しさは消す事が出来ない。
煩悩がないと社会ではなかなか夢を持って生きられなくて。
でも、自我は捨てたい。
私がいきなりボケたら、違う次元に意識が移行したと考えてね。

インド帰りの人と話してたら、私の潜在意識が目覚めてしまった・・。
もう慣れたから平気っしょと思ってたのに、昨夜は帰り道からずっとトランス状態になってしまった。

この土地のものを食べて、この世界に染まって生きるしかない。
そしてたまにインドに行って、全ての煩悩をいったんおろして、整理整頓をするんだ。

インド行ったことないけど、とにかく行くしかない。

インドが合わなくても、田舎に一年くらい住んだり、山登ったりするのが良いんだと思う。

初めて付き合った人が全否定する人だったからか、常陸太田の仕事の同僚にアートじゃない普通じゃない社会性がないって言われ続けたせいか、話す人話す人、否定してこないのが逆に不思議だな。
この感覚、全然とれなくて、すごく根深い。

2017年4月19日水曜日

ファイト!

やっぱり誰かが悲しむかもしれないと思うと、投稿を非公開にしてしまうのであった。
いやなんだ。無闇に人を傷つけるのは。

昔は何もかもをさらけ出していたけど。

人間はみんな裸の王様なのにね。

自分はこう思う、ていうのがどうでもよくなってきた。
だからわざわざ言わなくていいやって。

本当に、それで良いのだろうか。 

まあ、多分いいのだろう。
徒党を組むとか、多数派に従うためじゃないのなら。

文章力や語彙が変わり映えしないこともネック。
修行のときだ。

自分のコンプレックス、気にしないようになっただけで、なくなったわけじゃないんだなーと、何かを書こうとするたびに実感する。

自分という鎖から自由になりたいから生きてるんだね、やっぱり。



かなり久々に、自作アニメーションを制作し始めた。これは試験。
歩くコマの、一枚。
一枚絵だったら描かないような運動の中に隠れた微妙な一コマ。
そういうのを描いてるとき、アニメーター魂が燃え上がる。
(小学生のときからPCでアニメを作ってたんじゃよ)

プールとアニメーションは私の故郷。





2017年4月18日火曜日

個展「透明な器の底」について

命は「器」にたとえられることがある。 実存という現象に引っ張られているため、自分の中身は不動でみっちり詰まってるものだと捉えがちだけど、ほんとは常に入れ替わってるんじゃないかな。
そして、中に入ってるものが器の中で反響するから、まるでそれが自分であるように感じるんじゃないかな。
割れた鏡に同じ像が沢山映り込むみたいに。
そもそも器自体が底抜けで、もっともっと深くて遠くの、自分とか自分じゃないとかの曖昧などこかに繋がってるんじゃないかな。
例えば太古の記憶かもしれない。
時間や自我を超越した、現実と地続きの、目に見えないspace。

会場には「円型」や「器型」の作品がたくさん展示してあります。
円は個展タイトルのまま「器の底」を連想できます。

そのほかにも、「望遠鏡(マクロ)」や「顕微鏡(ミクロ)」、「人体の断面」「トンネル」「曼荼羅」が連想できると思います。
また、本物の陶器作品は、側面に絵が描いてあります。

当たり前のようだけど、器って絵に終わりがないんです。ループするんです。
器には「輪廻」を想起するスイッチがあるんです。
だから、悪いものを循環させてはいけない。器にはいいおまじないを込めました。

あとは、造形教室で働いていること、最近お仕事でたくさん描いた龍が自然と現れてきました。
辰年だし、茨城では竜神峡の近くに住んでいたし、龍には縁があるようです。
もともと大好きな靴、靴下、手もいろんなとこに隠れてるのでぜひ探してみてください。
なんでこんなとこに?てとこにもあります。

私が世界で出会ったことがあるもの全て、私と縁のある存在だと感じています。
だから、私は目に見えるものでも見えないものでも、地獄でも天国でも、ハムスターもクマも描いてみたいと思っています。

振り幅が大きいほど、絵は強度を増して真実味を帯びると思って、選り好みせずに色んなモチーフを描写していきたい!


つい最近まで「猫」や「犬」を「愛玩動物」「口当たりのいい素材」として遠ざけていましたが、私の愛する範囲は徐々に広がっているようで、猫も観察したい、犬も観察したい、そして自分流に描きたいって思うようになってきました。


地獄もお仕事でちょっこっと描いて、あー、私も鬼とか描けるようになったんだなー、とか思ったりね。もちろん地獄にも、私は極楽を描かなきゃやってられないんだ。


そのほかのキーワード
壺中之天
反転
蕾(つぼみ fat bud)

遊び
ユーモア


みたらわかるでしょ。そのほかって言ってるけどね、めっちゃ大事なこと。 

2017年4月16日日曜日

真剣に話す

軽くてふんわりした話に終始してしまうことは昔より多いと思う。
別にわざわざ話さなくていいこともあるし、でも軽い話ばかりできるようになるとどんどん本質が内側に込もって自分ですら認識できなくなっちゃうんじゃないかと思うから、内側への観察眼は鋭く保ちたい。

矢野顕子すき。。。。。。。。。!!!!!!!!(~_~)/ + ∞

自分が回転してて、他人が回転しながらさらに他人の周りを回転していて、そもそも自分も他人の周りを回転してて、
宇宙にある物質ってみんな回転しているんだよね。

そんな映像作品に出演したことがあるぞ。大学時代の課題で。
私は不良の妹役で、「お兄ちゃん、なんで私ってモテないんだろう」って言わされました。
いちいちものすごく嫌味なストーリーを作って私にやらせる望月くんと匠くんて人がいたんだよなあ。
モテないなんて悩んだことないし君たちが言うのかよ!ゴニョゴニョ

作家の友人と話したいことが沢山ある。
真剣に話せるのはほんとにほんとにすごいことだ。

異業種ならまだしも、やはり画家の友人の活躍は、悔しさが滲むね。(あと女性)
もちろん絵でお仕事をしていきたいから売れたい。
色んなことにチャレンジできる機会はほしい。
だけど、そのために売れる絵をかくのは本末転倒だと思う。

子供たちの物作りを見ているといっつも楽しげで、人の評価は二の次で、水飲むのも忘れちゃうくらい没頭している。
そういう純粋な熱意をみると心が和むし、熱くなるし、楽しい。
絵画教室で上手に絵を描きましょうなんてくそくらえと思う。
どこまで「上手い/下手」という基準を忘れて、超越できるかがいちばん、いちばん、いっっちばん大事なことだと思う。
そういう飛躍を繰り返すことで、自分という領域は拡張されて可能性が広がって、この世界の「自由」を掴む力を育める。

小中を過ごした母校の私立明星学園は校則なし、教科書なし、制服なし、給食なし、係なし、朝礼なし、前ならえなし、校歌も国家も斉唱なし、宿題なし、号令なし、日直なし・・なんにもなかった。
やっていいことといけないことは自分で考えろという自由な校風で、小学校の図書館にAKIRA全巻あるような学校だった。
在学当時のことなので今はわからないけど、担任が校長先生になってるので、変わってないかもしれない。
明星の先生の素敵なエピソードは、道草晴子さんの「みちくさ日記」を参照ください!!※13歳でちばてつや漫画賞をとり、すぐ精神病と診断されて10代を病院ですごした壮絶な記録をユーモアをまじえて淡々とつづった面白い漫画。大好きです。面白いよ!!
みちくさ日記 道草晴子インタビュー

私がそこで学んだのは「堂々と生きる」ってことなのかなと最近思った。
なんでも自由なので、小学校の頃から自由についてよく考えていた。
常識なんて教わらない。それは教えられるものじゃないし、教えられる常識はまず疑わなければならないものだと思う。
大事なポイントとしては、多数決がない。多数派ってのがない。そういう対立構図はまず生まれない。
みんなそれぞれだから。こっちに従っておこう、みたいな思考にならない。


明星出身の子たちみんなに言えることってなにかなーと考えたとき、以前はやたら「自信満々」だなあと思ってた。
誰も彼も、お金稼いでいようが根暗だろうがなんだろうが、惨めな人生でも堂々としてる。
それは自信とは違うことだった。


自信持てないようなことでも「自分で選んだからな〜」という潔さがある。
根が暗いのだって、なんだって、自分で選んでるって自覚をしている。
つまり堂々としているってことだった。

図々しく生きることが人生をサヴァイヴすることだ。

https://youtu.be/4uLeUy-Kj5M



かなしいのにも理由があるけど
げんきもりもりなのにも理由があるはずだ
元気なのは当たり前なことじゃない



2017年4月14日金曜日

宇宙を眼差す

「子曰く」ていうの初めて学校で習ったときワクワクした。
なにそれなにそれだった。

母曰く「春は柑橘類がおいしい」だそう。

最近売れているぶるぞんちえみって芸人が、目線は2kmを見る感じで〜ってテレビで言ってて、へえー、それであんな異様な眼差しが生まれるのって思った。
やってみたけど2km先って難しい。
目がぼやーってしてくる。

そのあと、ジャグラーの友人に会った時、あんなに色んな方向に駒を飛ばしてるからいったいどこを見てるんだろ〜と思って聞いたら「わざと目線を駒からはずしたり、わざと目で追ったりしてるよ。あとは、お客さんを見るっていうより、宇宙の先を見つめるような感じ」と説明してくれた。
え、2km先じゃないんだ、宇宙なんだ、宇宙!!なんだ!!!
どちらも芸人で、パフォーマーだと思うけど、お笑いとアートの根本的な違いなのかな。
宇宙を見ようとしたら、意識の層が切り替わる。
さらっとすごいこと言っていたことに、本人は気付いていないかもしれない。

この話が面白くて母に話したら、お母さんは若い頃男性に「君はいつもどこを見ているのかわからないような目をしていて素敵だね」と言われたことがあるらしい。
それは、お母さんがその人が好きじゃなかったからいつも遠くのほう見てたかららしい。
なんだよ、そのオチは・・

「ともちゃんと話していると誰と話しているのかわからなくなる」ていうのも同じかな。
やっぱり、自分の身体とか、目とか声とかって、別の時空に向かっている時があって、現実とは違う別の空間はいつもそばに漂っているんだな。

新作に関するメモ

心臓の鼓動、小惑星、宇宙を見つめる視線

2017年4月12日水曜日

火曜日在廊してたらたくさん人が来て嬉しかった。楽しかった。わたしに縁がある人がわたしのところに集まって来てくれることがとても嬉しかった。でも展示ってお金にならないんだよね。難しいなあ。

2017年4月10日月曜日

乱れを可視化する

人の苦しみの本質を眼差したいと思って、人の話に耳を傾ける。
相手との不和も調和も、波になって自分の体内をめぐる。それを感じる。
良いとか悪いとかじゃ判断できない。
好きとか嫌いという区別ができない。
愛しているから憎くて苦しいのは理解ができる。
わけがわからなくなると、闇の中に放り込まれるようでこわくなる。子供と同じ。

薄い味のスープが好き。
味がちゃんとする野菜が好き。
ゆるやかにやわらかい平坦な、ふっくらした地面に戻る。

便利な世の中だな。忙しさはいくらでも加速する。
少し休めば切り替えられる出来事もあれば、長い穏やかな暮らしが必要な人もいるのにそんな贅沢はなかなかのぞめない。
忙しくするのは苦手で、休むのも上手にできない人が何かでバランスをとろうとする。
目に見えないものに沢山縛られて苦しむ人たちが、明かりを点そうと闇をまさぐる。

ああ、もうSNSにも慣れた。戯言にも、仕事の愚痴にも、色恋の温度差にも
こんなに余裕を持っていられるのはいつまでかな
些細なことで乱れる波を可視化する。



苦しむ人をみると、どうにかならないか考える。
ずっとずっと同じことが引っかかっているんだね。
そういうのはきっと誰もが、持っている業だよね。
だからすぐ溶かせない。消えることがない。軽減させるにも毎日の努力がいる。
苦しまない努力が苦しいのもわかる。
だから性急になってはいけない。
こうすればいいじゃん、とか、そういう言い方がかえって相手の心の傷口をひらくことにもなりうる。
傷つくワードがわかっていたら尚更、 避けなくちゃと思う。
苦しんでいる友人に対してわたしが持っている心をみてほしいと思う。
でもそれは言葉にはなかなかならなくて
話のつじつまを合わせることでいっぱいになってしまって
そういうとき絵を描こうって思う。
私の気持ちに気付かなくていいから、私の絵を観て、メッセージを心の奥に届けてほしいと思う。
いつか届くんじゃないかと思う。


何をしても「傷つけられた」と感じてしまうことで、人を遠ざけてしまう。
愛されたいのは皆おなじなのに、どうして器用にできないのかと悩む。
素直でいたいけど、素直でいることは自信がないと保てないからできない。
ていう感じなのかなと、話を聞いていて思う。
何を言っても傷ついてしまうんだなと思うと、何も言えなくなる。

だから絵を描いたり、笑ったり・・・我慢をしないで本気で生きようと意気込む。

2017年3月31日金曜日

P.

透明な板に絵を何層も重ねてから裏返すと、時が逆行します。

木の板にグラスデコで絵を描いて乾いてから引っ掻いてぺりぺり剥がすと時を巻き戻せます。

時間は自分自身で操れるんですよ。知ってた?


子供たちの造形教室で絵を描く子たちを見ていると、完成「させる」ことより完成を「目指す過程」が大事なんだな、と思う。

完成は「紙が破れるギリギリまで絵の具を乗せる」ことでも「先生の求める正解に近づくこと」でもない。けっこう、先生が期待する完成像を通り越していくから面白い。そのままどんどん描き足してグチャグチャになってしまうこともあるけれど!

完成という地点に辿り着くのも、その地点を見抜くのも、簡単ではない。


この造形教室で教える先生たちはそれをわかってるから、完成の正解を押し付けない。また、子供たちにとっての「完成」にも囚われすぎず、「何をもって完成とするのか」や「完成の目指し方」を一緒に考えているんだと思う。

先生たちは先生である以前に、作家だからね。


教室には色んな子がいる。

イメージが頭の中にあって、それを目指して構築する子。やりたいことも絵もどんどん変わっていく子など。


完成を決めるのはその子自身で良い。

アドバイスは、するけど!みんなそれぞれが完成地点を選ぶことができるんだ。


絵は面白いもので、失敗しても巻き戻せることがある。巻き戻せなくても引き算することができる。進みながら捨てたり足したりしていける。絵が停滞しても、待ちながら移動できる。待つ=stay ではない。


こんなこと考えてたら、絵を描く子供の絵ができた。今一番描きたかったのはこの眼差しだったんだ。




まだ途中





2017年3月30日木曜日

頭痛この上ない

絵を描く目的はひとつじゃなくていい
なくてもいい
その都度変わっていい
ひとつ前の段階を悔しがるより前に進むしかない
進むことは足すことも捨てることも選べるってことだから大丈夫。
引き算も足し算もできる。

絵も人生も生気を大切にしていたい。




待つってstayじゃないんだぜ

手と空と気圧が出入りしている。
空気も土も、気分も、どこかに出かけて、新たな地に滞在して、長い時間をかけて戻って来ては、またどこかに旅に出る性質のようだ。
移動しないことは人類の歴史で見ても、新しい試みだ。
移動が制限される要素も沢山あるけど、移動を試みない理由はない。

最近自分の絵を見て「サラダ」とばかり思う。
なんだよ、馬鹿の一つ覚えみたいに、サラダサラダってよお。

栄養かな。土の、香りかな。

今後どうするか思い浮かばない時は焦って手を動かすというより、待つ。
気持ちを待つ時、移動することはとっても重要である。

待つ、ってstayじゃないんだぜ!


2017年3月26日日曜日

私の脳みそでは、色んな言葉にできない、目に見えないものが駆け抜け、線を残してゆく。それは感情の波動なんだね。言葉にできない、「理解」や「解釈」より深い「悟り」が、私の脳内に名のつけられない現象としてイメージを焼き付けていく。
それを描きたい、と思うけど、実際筆を握って作品を作ろうとすると色んな物質が障害になってなかなか表に出てこない。見ても「これこれ」ってならない。
お風呂に入ってる時は思いつくのに頑張って取り組んでる時は散漫になる感じで。

多分、洗練された一筆に乗せることがまだできないんだろう。
何度も何度も筆を重ねるしかないんだろう。
なかなか形にならないし、なんで目に見えない感覚を絵にしたいのかはよくわからないけど、「観察」を生業とする私には「画家」がよく似合うのかな、とおもう。

2017年3月24日金曜日

遊びを軽んじるべからず

本気で遊ぶっていうのは創造力も集中力も超凝縮した無我夢中の跳躍によって叶えられる。


外に発した瞬間全ては波紋のように他人に影響を与える。


自然の機微から兆しを読み取る。

教育の善し悪しは置いておいて、教育という観点は必ずしも1つの方向に向かうものではないし、またその過程を意識させてくれる。そういうところが好き。楽しい。




2017年3月17日金曜日

good vibesな夫婦

なおことさとし
すき
よく思い出す
どっちもすき
どっちもつよい

どっちもgood

芯が。バイブスが。

さとし君は私的には親友なんだよな
good vibesな人たち

最近わかるようになった。自分に良いバイブスを与えてくれる人。そうでない人。

私という存在の、成分がだんだん解析されてきた。

彼らの結婚式に行けないなんて、人生最大の不覚。
誰も悪くないんだけどね。まったく残念だ。


絵画について 表現について 魂の欲する純粋な本質について

(昨年5月の個展のstatement)
 今回の展覧会のステートメントとして、私にとっての絵画について、表現について、私の魂が求める本質について文章に記しました。
 生きることは謎めいています。私はずっとその謎を紐解きたいと考えてきました。真理を求める気持ちが私の絵には表れています。
 もしかしたら、多くの人は「時間」は未来に向かって流れていると考えているかもしれません。しかし実際は、流れているのは「時間」ではなく、「現在」という瞬間なのです。割り切れることなくどこまでも延びる「現在」という瞬間が、常に変化をし続けているだけです。無常でありながら永遠性を帯びた「現在」がどこまでも果てしなく続いているのです。これはオーストラリアの先住民であるアボリジナルの人々の時間感覚と似ています。この発想で絵画について考えてみます。絵画は「静止画」だと思われていますが、私にとって絵画は「動画」です。絵画は時空を切り裂く窓の役割を持っています。彼らは目に見えないエネルギーの間取りのようなものを感じ取る力を持っています。それは彼らの描く絵に表れています。動物の肉体を透かした絵や、先祖の念を読み解いた絵など、視覚としては確認できない世界を描いていることがわかります。
 直接触れることができない内面のイメージや知覚、直接触れることができなくても肉体で感じとることのできる光や現象、そして触れたり見ることができる物質たち。その境界はどこにあるのでしょう。その間を行き交っているのは、あるいは波のように寄せてはかえす漂流者は何者なのでしょう。私はそれを「目に見えないエネルギー」として絵の中で表現してきました。強さ、弱さ、緩やかなもの、静かなもの、尖ったもの、めぐるもの、様々な形で自身の内部から発信されるものを観察し、その行方、成れの果てを見届けることが絵描きとして私に課された使命なのだと思います。
 幼い頃から悟りの境地に達することを願って生きてきました。私にとって自我はほんの些細な現象でしかありません。自信を持つことも自尊心を育むことも本質ではなく、自我の先にある「生きるでも死ぬでもない何か」こそが純粋な本質なのだと感じています。私は自我の先を表現する媒体になりたい。そのために絵を描いています。精神と肉体が一体になり自我を越える瞬間は、時間という観念を突破し、無限のエネルギーとなって意識に力を与えるでしょう。
2016.5.21 fullmoon 林友深

2017年3月13日月曜日

2017.3.13

暗いパイプの中を行こう
隅々まで根を張る血管の中を想像しよう
底なしの器に滑り落ちて、いつまでもいつまでも、深く、さらに濃く、体を逆さまにして辿ろう

ぽちゃん

縁を便りにけもの道を辿り
どこに達しても懐かしく思い
自分という器が果てしない未知への手がかりであることを確かめよう


2017年3月11日土曜日

満島ひかりに釘付け

大倉孝二が出るのでみはじめたカルテット

満島ひかりに釘付け

ミッキーカーチス…

眩しいね!!ほんとにね

面白いドラマに大倉孝二が出て嬉しいし、大倉孝二がいろんなドラマでいろんな役やってるの嬉しい。
でも圧倒的にピンポンのアクマが強い。
フリクリのアマラオが良い。
あとなんだろ。
アフリカのツメのDJとか、HRのドミソピザとか、高校教師とか、わたしたちの教科書よかった。
もちろん、ぱんつぱんくろうははずせないよね!トイレ様はね!

ピンポン強いなあ。
美しかった。

あとはもう、本業というか、一番魅力的なのは舞台の大倉孝二ですよね。

しあわせだなあ
よくわかんないけどほんと

すごい役者さんだなあ

面白いのもシリアスなのも好きだよ

卑屈て器の小さい役はあんまり好きじゃない

ケイゾクの出方と、カルテットの出方似てた、いや似てないか、でもなんかすごく良い起用のされ方!嬉しい。
戦々恐々とさせて。
出方、ほんと、気持ちいいとこ。

映画、溺れる魚の変態もよかったね。




2017年3月3日金曜日

仏 物

ぶつ ぶつ

ちーん

ポクポク

私の頭の中こんな音ばっかり

新しい間抜けに転がり堕ちて、また深い闇を発見したところ。
みんな闇っておそろしいもんだと思ってない?
メンヘラとか病気とか死とかイメージしてない?
闇って未知のことなんだよ。
暗黒は「目に見えない」ってことなんだよ。
通過する時に触れて、感じて、鮮やかに見えて、そしてまた見えなくなっていく。
前も後ろも闇だよ。

私たちはずっとずっと絶えず移動し続ける透明な接続面なんだよ。

おしまい。