2017年5月29日月曜日

魂の声を聴く方法

わたしがわかっているのは

自分のために声を出すこと。

なるべく静かな状況で、歌をくちずさんでみる。楽器を演奏しながらだと尚楽しい。
自分の声を、自分のために出す。


こういうことをしてわかるのは、表現ってかならずしも他者のためのものではなく、外部に開かれていなければならないわけでもないってこと。
人間のためだけでもないと思う。

優しくて豊かな自由を、獲得していきたい。

人の弱いところもいっぱい知りたい。


全部放り投げろ あとは着地させるだけ

物理の法則知ってる?
放り投げたら、落ちてくるんです。

放り出しっぱなしにしたとしても、ちゃんとその洗面所の髪の毛たちは洗面所で生き続けます。腐る、汚すというパワーが働きます。自分で始末をしない限り。

世の中の速度にそって生きていられるわけじゃない。
足が棒になって、目を開いても脳がねじれて、地面がどんどん加速していく時がある。

立ち止まればゆっくり流れている雲や、季節や、蟻に気づくことができる。

自分の努力も我慢も、自分では気づかないことがいっぱいある。
無意識のうちに否定してしまう過去も、見ないふりをしていた課題も。
たまに、突然、わたしの魂に声をかけてくれる人が現れたり、芸術に出会ったり、現象を目の当たりにしたりする。
そうすると、自我と魂がひとつに結ばれるんだね。
自我が「ごめんごめん、突っ走ってた。追い抜いてた。」って言って戻ってくる。
すぐ離れがちなんだけど、きっと、ずっとそのトンネルは繋いでおいたほうがいい。
鍵をかけてもいい。このトンネルはちゃんと自分で設計して、組み立てたほうがいい。

魂は、けっこう頑張り屋で、無口で、繊細。
魂同士の言語があって、それを伝え合うことができると嬉しいんです。
自我は、魂あっての自我。
魂は、曇り空の満月のまわりにできる光輪みたいなもん。
条件が合わないと顔を見せない。
目に見えないけどそこにあるもの。

この文章、私が読み聞かせてあげるよ。 そのほうが伝わる気がするなあ。

きっとどこかに着地するから、全部放り投げていいよ。


あらゆる魂たちを喜ばせたい。


言葉が持ち去る感覚

言葉は気持ちを覆う薄い膜みたいなもの。
イラストレーターのパスみたいなもの。
解像度をあげていくと、少しずつズレているのがわかる。
完全にフィットする瞬間は、モンスターボールがクリティカルヒットすることよりももっと神秘的で大波のような気迫がある。

写真を撮りながら、絵を描きながら
いろんな出来事が写真や絵の用語で置き換えられていく。
網膜に「焼き付ける」とか
ピントを合わせるとか

カメラができる前、この「焼き付ける」感覚は、なんと表していたんだろう。


展示でいただいたスパークリングワインをやっと開けた。
美味しかった。
ウィスキーグラスで2杯、もうそれだけで、酔った。
頭が痛くて2時に起きた。
鼻水が止まらない。
日が出てきたので、写真を撮りに行った。

輪廻が真実かはわからない。
だけど、毎日微かに自分の中の何かが死に、それを温床にまた何かが生まれ続けているような気がするんだ。

何度も繰り返し死んでは生まれている私たちが新しい、と言えるのはやはりこの瞬間の命の表情なのだろうか。




2017年5月27日土曜日

エネルギーを巡らせる仕掛けの価値を知った

同じじゃなくて良いじゃないか

相手と自分が違うのは当たり前だという当たり前を、時々人は忘れてしまう。大きなエネルギーを誰かに向けはじめると、その力に振り回されて混乱してしまう。

私は、ひとまず乗り越えられた。
なんでかな、と思っているけど
わかると確信してくれる人がいた。
ありがとう。

新月

言葉に人は縛られるんだ。
「好き」という言葉一つにも危うさがたくさん潜んでいる。
私はもう、「好き」という呪文を頼りにせず、自然に他人を愛せるようになったのかもしれない。

2017年5月23日火曜日

5月の展覧会鑑賞

先日、友人に教えてもらい、ワタリウム美術館の坂本龍一の展覧会を観た。
また、母校の先生の投稿で草間彌生の展覧会が最終日だと知り、いそいで観に行った。
坂本龍一…よかった…
草間彌生…細胞たちがみんなありがとうって言ってる。


細胞と、音と、風と、光と、物と、風景と
原子から宇宙まで、エネルギーの造形物たちが、ありとあらゆる「種」が呼応しはじめた。

全部が網目になっていて、単体では存在し得ない。
言葉では、それは「事実」なのだとしか言えない。
この網目の波を皮膚や網膜や全身で実感したとき、それは「真実」になる。




2017年5月22日月曜日

saisei

昨日女友達に偶然会って、二人ともあまりにピカピカツヤツヤキラキラしてたのでうかれた。
強い言葉が口をついて出る時がある。そういう時の自分は好きじゃない。
みんな笑ってくれるけど、私が言いたいことってそれじゃないのに、って心の底で思う。
日頃からいろんなことを素直に言いまくろう。
強い言葉は弱さの表れだと思う。

学部時代の「いつものメンバー」とも会った。
あらためて考えてみると、みんなの作品の作り方とか、考え方とか、まったく普通じゃないから好きだな。
ものすごく個人的なところが良いんだ。
自分の底から出てくるメッセージを紐解こうとしているように見える。
表面的な真面目さとか、浮き彫りになっている社会問題とかを、根こそぐような個人的感情。個人的意識。
個人的になればなるほど遠くの世界とリンクしていく。

綺麗事のように出来事を整理しない。優しさもほどほど。

CoolとかSmartって、恥や狂気の先にあるものだと思う。
そつなくこなしちゃう先にはなんにもない。
良い子ぶっても悪い子ぶっても良いけど狂気がないと現実に飲まれる。
狂気は心の拠り所になる。
ときどきふんわりした作家を見て、まだ自分の中の魔物と対峙してないんだなって思う。

他人は、自分の思った通りにいかない。
同一化したいと願う気持ちもわかる。
仙ちゃんに悩みを話すといつも「林がんばれよ!」 って言われてた。
私のおもーーい悩みを全部「林がんばれよ」で終わらすっていう遊びでもあった。

真剣に話を聞いてくれることと、アドバイスは別なんだ。
話聞いてくれるだけで良いんだよ。
これが差異性かなって。

自分が思った通りにならないとしょぼんとしがちだけどその差異はとても面白くてクリエイティヴなヒントにあふれていると思う。
みんながウンウンそうだね、ウンウンって答えて優しくアドバイスしてくれて、ウフフ!ウフフ!っていう世界になったら、多分わたしは憤怒して面の皮をはごうとすると思う。
ほんとはそういう世界が理想なのかもしれないけど、いや絶対にちがう。絶対にちがうと私は思う。
なんのために思春期があって、なんのために性欲が爆発する活動期があるのさ。
狂気と恥は、自我の深みと向き合うイニシエーションなんだと思う。





2017年5月20日土曜日

speed

世の中、悩みも楽しみも本当にどうでもいいことで溢れてる。
現代は、表面をさらさら撫でているだけの知覚で生きのびられるから。
くだらなくはない。切実だから。

私の悩みもかなりどうでもいいな〜と思いつつ、悩む振る舞いを通して別の次元にいけないかな、と模索している。

最近、お酒飲みたいと思わないから、飲んべえの私としては楽しみが一つ減ったって感じ。
ご飯も、腹痛とだるさが上回ってしまう。
外食だと、背徳感とか、疲れとか。
楽しくないよね〜〜こんなメンタルじゃあ、つまんない!

でもたぶん、そういう時期なんだろ。いちいちそれにたいして「年をとった」とか「ストレス」とか言うの、ペラい。ペラッペラ。
全然本質的じゃない。
もっと大きな流れの中にいて、その中では常に光速で微細な変化が駆け巡ってるんだ。
そういううねりの中では、それら全て現象でしかない。
現象なんだよ。 現象なんだからさ、悩むことではないんだ。
起きている出来事は、本質の一つの兆し。
そこから何かを読み取って、もっと深いところに身体を結びつけていかないと。
魂が死んでしまう。

納豆たきこみご飯だったら永遠に食べていられる。
納豆たきこみご飯食べよう。

そう、私は底なしのアホなのだ。

一生とは茶番劇であろう!
悲劇でも喜劇でもない。リアルとユーモアのSF。



action

自分からいける人はすごいな。えらいな。
私もそういう積極的な態度、見習いたい。
声かけられないと、自分からどこかに行こうって思わないタイプだから。
会いたいから会いに行く、そういう自然な行為(好意)を、素直に繰り広げたい。
人とは限らない。光とか、匂いとか。
会いたいなあ。
その気持ちだけが明らかに存在しているのがわかる。


「みんな」「メンヘラ」は嫌いな言葉
さいきんそこに「ストレス」が加わりつつある。
なんでもかんでもストレスストレスってよ!
胃腸が悪くて病院に行ったら、ストレスですねって。
先生、私ずっとストレスと自律神経の乱れなんですよ。生きている間中、ずっと。

薬を処方することが必ずしも正しいとは思えない。

怒っているんじゃないよ。ストレスってお医者さんに言われたら、すごく心が軽くなったから。
自分がリラックスできていないことを人に気づいてもらえて、涙出そうだった。



2017年5月16日火曜日

うそめく

村上慧くんに教えてもらってジャケ買いした「usomeku」というバンドの「レア・ファースト・デモ」ていうCDを、買ってから数年経ってようやく聴いた。
うそめく WEB

すてき!!
うわーーい!うわーーい!うわーーい!
すき!

がつがつしてないとこがよいです。

ネットできけるやん

うそめく/幾何学を泳いでる

今日、なかなか寝付けなくて、1時半頃に寝られたのかな・・・。
しかも早朝に目が覚めて、うーん、6時くらいかなあと思ったら4時でした。
どうりで顔が疲れている。

2017年5月15日月曜日

おしらせ

・Art works
・Biography

  update !!

Transration is very hard.

オリジナリティあふれる文法よくわかんない英語ともつかない英語
でも英語はすきです
毎日喋ってれば上達するなって、最近おもった

作家の性

作家は兆しを読み取る生き物だ。
兆しは意味を持たない。いや、意味を内包している。
意味を持つのが100年後かもしれないというところが兆しの特徴ではないかと思う。

愛を贈与される人たちは、自身の中に愛情を引き寄せる力点を持っているんだろう。

人間の求心力って、すごいなあ。
人間はエネルギーを操ることができる種だと思う。
だから、よい方向に流れを作っていく人が必要なんだと思う。
それが作家なのかもしれない。

生と死の夢

今夜みる夢はなにか示唆的なものになるっていう予兆があった。
そしたらとんでもない夢をみてしまった。
妊娠して出産する夢だった。

まわりに沢山、これから妊娠して出産しますっていう女性がいた。もーすぐですよー!って一人一人についている助産婦さんが声かけてて、時が満ちるとみんなみるみるうちにお腹が大きくなっていって、ぱしゃん、と子供が生まれる。
私の助産婦さんは自分のお母さんだった。
私も風船みたいにお腹が急に大きくなって、あっという間に子供がぬ・・ぱしゃん、と生まれてきた。
でも私が出産した子供は、生まれた時にはすでに亡くなっていた。
安らかな顔をしていた。かわいい男の子だった。
お母さんが、この子は吉原神社に遊女の誰かが埋葬した、かわいそうな赤ちゃんだったんだよ。だから、また生まれることができただけでも嬉しいんだよ。と言っていた。
そうか。また生まれたかったんだね。 自分が生まれてきたことを喜ばれたかったんだね。
育てたかったなと思ったけど、この子は、この子の天命を全うしたんだ。そう思った。
人の天命は人それぞれ。この子は生まれることで、全うしたんだ。
私に何かを伝えにきてくれたんだね。私のお腹に宿ってくれてありがとう。って思った。

ちなみに相手の男性はいない。生命が降りてきて、お腹がふくらんで、産む。一人で。
そういう夢だった。

この夢は単純な妊娠、死産の夢ではないとおもった。

あとはお絵かき教室の夢。今働いているところとは全く違う夢。
小学生から高校生までいる。こうちゃんっていう小学生の男の子が病気で亡くなってしまった。
りさちゃんというギャルの高校生が泣いていた。

りさちゃんはもともとある絵を真似したり少しアレンジするのが得意だった。
りさちゃんは、やっぱそれをやるといい絵になる、と言っていたのでそれは違うって話した。りさちゃんはパクッてるだけで、うまくパクることに優越感を感じているだけの絵だった。

真似が悪いということではなくて、りさちゃんの絵がそう物語っていた。
りさちゃんがそこで満足したり、それが自分の特技だと思ったり、そこまでしかできないって思うこと自体がとても変なことだと思った。
りさちゃんが用いる「イメージ」は、二番煎じでしかなかった。
りさちゃんはりさちゃんの底知れなさを知らないよ。


2017年5月9日火曜日

揺れる

時間がゆっくりになる時があるのはなんでだろう?神社の境内、川のそば、森林の中、夢中になっておしゃべりしているとき

ほらやっぱり時間って一定じゃないじゃん。ね。

観察者として、曇りなく観念なくものの本質を見ぬこうとする見方をしてしまうんだけど
自然も人の表情も見慣れた風景も、自分の感情によって全然違ったものになるのはとっても興味深い。
デッサンしてるときと違う感じ。デッサンもだいっっっすきだけどなんかちょっと違うな。表現と描写の違いなのかな。 ここは大事なポイントだ!
感情だけじゃなくて、その日の天気とか、社会の雰囲気とか、それこそ土地のバイブレーションっていうのも関係してくるのかもしれない。
自分の目、印象って、こんなにもエネルギーの流れの影響をうけるんだよ。
あらためて、驚いてしまう。

物理の法則に従って生きることは、自然と共に生きることなのかもしれない。

今日は8時をまわろうという時間でも日差しが入ってこない。 
お天気がこんなにも毎日違って、その日に吹く風もこんなにも様々なんだから、人間の情緒だって感情だって、毎日違っていいじゃないかって思った。


2017年5月8日月曜日

恥をかけ 大人も子供も

恥ずかしいと思うのはめっちゃいいことだし
恥ずかしいわ〜ってことはやるべきだ
わたしは絵じゃなくて、恥かいて生きてます笑 という冗談は茨城でさんざん聞いた。
絵も恥もかき足りないと思います!
わたしはたぬきのように阿呆です。恥だらけ。もうほんとに恥だらけ。
でもそれで人が笑ってくれるのは嬉しい。
引かれたら、引かせてやったぜザマアと思うだけさ。

わたしのブログをもし造形教室の子供たちがみて、読んだら、と想像したらね
は、はずかしー!と思ってね。
でも、まあいっか。
子供たちは人柄をちゃんと見抜いて接してくれるとこが好き。
あと、いろんなルールが全部子供の論理で、大人の薄汚くて言い訳じみた感じじゃなくて、もっとふんわり軽くて、破るもよし、守るもよしっていう寛容さがあって、あはははは、たーのしーいなー。っておもう。

あー、でも、恥ずかしくて、言葉にできないこと、たくさんある。そういうのは、ノートに書き込む。


創造的誤解

5時すぎ、朝はまだ肌寒い。
6時になり、日が真横から射し込んできらめく。
7時、家事を色々済ませて、ミルクティー飲んで、ぽかぽかする。

表現は一体なんのためにあるのか。
「なんのため」を気にかけてしまうのは、共同体意識によるものなのかな。
深いところでつながりあっている生命の器を無意識のうちに自覚しているからなのかな。

途中で止まってた、田中功起「必然的にばらばらなものがうまれてくる」を読んでる。
キュレーターに依頼され、打ち合わせを重ねることでプロジェクトを実現させていくのだが、そのときに生じた誤解がプロジェクトを大きく変化させ、かえって功を奏す場合もある。と書いてあった。
それを「創造的誤解」と表現している。

創造的ってつけると、いろんな出来事を複雑なまま俯瞰できる。
曖昧さ、複雑さ、複合的で、絡まり合う事象。
救われる。

絵の具で色をつくるとき、何色か混ぜて理想の配色に調整していく。
でも、ある一線を越えると、どんどん理想から離れていって、戻れなくなる。
たとえば白と黒を混ぜたとして、黒が多すぎて、ものすごく大量に白を消費するも、なかなか目指す色に届かなくなったりする。
そうすると全部最初からやり直すしかない。大量に投入したアクリル絵の具がパァになる。ああ、高いのに。 高校生の時によく味わった。
いつからか、飽和してしまうんだね。 飽和したら、入れ替えるしかない。
それが災害だったり、テロだったりするんだろうか・・・・。

物理現象を追っていくと、心のなかの出来事と似たことがたくさんある。社会の出来事と繋がっていることがたくさんある。
逆に言えば、目に見えない移ろいを言葉にするときに物理的な単語を用いることができる。
物理と想像は同調しているから。


新しいとか古いとか、美術史的な文脈とか、どうしてもそういうことを主軸に考えられない。現代アートに執着してしまえば、透明な視界がぼやけてしまうだろう。
新興宗教のシステムと変わらない。
自分が美術界を背負うみたいな責任感もない。野心もない。
どこまでも無宗教に、万物を信頼しながら自由でありたい。
私の中にある「今に見てろ」という気持ちは、自信というか傲慢なのだろうと思う。
だけどそれを失うわけにはいかない。俗世と繋がっているためには。

依頼された絵のほうが作品として描いている絵よりいい絵になっちゃうの、コントロールできてないみたいでくやしい。
期待を越えるのが好きなんだ。
うまくできないこともあるけど。
うん、やっぱり、結局は・・ 絵と向き合い続けよう。
それしかない。

現代アート大好きなのに、なかなか、頑張っている若手とか、ンンンN???てなっちゃって。人によるけど!コンプレックスかな。とがってる展示行くとテンション下がることが多くて食傷になっちゃって。サイドコアはめっちゃよかったな!!
好きな作家ももちろんたくさんいるけど。なんだか本質じゃない気がしたり、物足りなかったり。私の心の中の差別心なのか、私は許容範囲が狭いのか。

足踏みしててもはじまらないのよ。世界一楽しいと思うことを見つけてやり通すのよ。


心を解き放つ!!




2017年5月6日土曜日

memo

一つの科学ではなく、事例の研究
鈍感
魂の死(博満くんが投稿してた謀叛論(草稿) 徳冨蘆花

作家と教育
 教える側の癒し やりがい
 つくる、みる、まねする、すべての大切さを捉え直す
 よみとく訓練
 ひきだす訓練
神も霊もいる
 宗教は信仰しない

きづいた

このまえララランドを観たんだ。周りのお客さんの印象でふと思ったのは、人って鈍感なんだなってこと。
情報過多な世の中だからなのかな。
なんか、慣れちゃってる気がする。
だから、冠つけなきゃいけないのかもしれない。
本出してて、とか、芸大で、とか
先日コメント欄にジョークのつもりで書いたけど、いやらしい気がしてきて消した。 

映画の話にもどると
観ている人たち、いったい何を持ち帰っているんだろうって、思ったんだ。
どの映画にも言えることなんだけど
いい映画だった・・ホロリ、は、鈍感じゃないかなって。
しかし、一概には言えないことだね。

それで自分の個展のことも考えた。
見る人の感度の深さで、受け止める層が違うんだって。

深くても成立して、浅くても成立してるのが世の中にたくさん受け入れられているんだね。
私は深さのほうが大事だと思うけど。でも表面にそれがあふれていないと、みんな鈍感だからなんも届かないじゃないか。
ていう、一つの側面。
それだけではないと思う。様相っていうのは複雑に絡み合ってできているから。
自分の作品は深さもまだまだ。かなり色々、まだまだだね。
ものを見るポイントが少しわかってきたところ。

表情と仕草。

素敵な作品を展開している人たちも素晴らしいし
それを読み取る鑑賞者もほんとに素晴らしい。
そういう人たちどんどん増えていったらステキかもしれない。

朝6時のお日様、台所にさしこんで、すっごい美しい!!

心は元気だけどずっと胃腸の調子が悪い。冷えと花粉も。万事うまくいけよ〜!!

元気になってきたぞ。
去年とか一昨年とかと比べたら、すごいぞ。
夜は眠れるし、お酒はいらないし、ポテトチップスもいらない〜!
わーいわーい
呪いとけたかな?
人はどんどん勝手に縛られていくよね。
放たなきゃ!

気持ちの明るさは小学生の頃に戻った。
中学卒業!高校卒業!大学卒業!小学校入学!

小さな小さな成長を、自分で祝福する。
誰かに祝ってもらおうなんておこがましい考えはやめる。
私の幸せはきっとそんなにたくさんの人にはわからない。

まじめになりすぎて、自分にも他人にもかなり疑いをもって、ぬかよろこびしないように休まないようにと努めていたよ。
そういうのって他人にも伝染するよね。だからとても楽しくうかれるってこと、自分にも自分のまわりにもなかったと思う。
誰もうかれてくんない。そして私も全然うかれらんない。
酒、弱くなったし。あんまりたくさん飲んでも楽しくないし。お金かかるし。
ギター弾いたりお絵描きしたりお仕事するのが楽しいし。
でもうかれたりもしたかった。
うかれたいうかれたい、調子に乗りたい。
あと、全然ちがう場所に、遠くに行きたい。
いろんな真面目を、脱ぎ捨てたい。たまには。
まわりからみたら全然真面目じゃないかもしんないけどね。

昨日はなにもかも忘れて、ウキャー!と踊りたい気持ちだったかもしれない。
親友のゆかちゃんもそんな感じだったようで、facetime越しに踊り狂っていた。
別にお互い、なんかすごいいいことがあったわけじゃないけど、体調が良くなっていって、その喜びを感じるタイミングがたまたま重なり、お互いの嬉しさを分かち合った。

人はさ、急にお祝いしたくなるのさ。
甲斐性なしでもさ、誕生日から一ヶ月以上経っててもさ。
だって20代最後だよ?毎日お祝いでしょうが!

ちょっと、昨日は昼間飲みすぎてしまった。
GW満喫してしまった。
たいしたこと成し遂げていないし、まだデブなんで、遊ぶのって背徳感があるんだ。
でもちょっと、緊張の糸プチって感じでした。昨日は。
facetimeでしゃべって、すんごいリフレッシュ。昔を思い出したね。
学生時代よくスカイプしてたね。電話越しのお互いを可愛いとか褒めあって。
素直にお互いを褒めあえるよい友人です。

人を褒めるたびに自分を虐げてしまうのは不幸だね。
私はずっと不幸の中にいたので、他人の話が、なかなか共感できなかった。
不幸の中っていうのは、自分でつくった不幸なんだ。
不幸の箱をつくってその中にいると不幸になるんだ。そういう箱があるんだ。

いつでも人に優しく、共感してあげるなんて難しいよな。
ふざけて、適当で、いいのだよ。
気を使われるのはいちばん申し訳ない。

心の病気は、徐々に徐々によくなる。
病気というのも大きさ重さはそれぞれね。
トラウマとか、虚しさとか、生きる意味とか色々ある。
自信のなさとか、将来の不安とか。
色々あってすごく辛い日々を過ごしていたけど、ほんとに徐々によくなる。
たまにペロって皮むけて、お、成長している。て感じる。
でもまだまだだからぬか喜びしないで、緊張感を保ち続ける。
スケールも大きくなっていて、来世に期待しようとか思ってた。
感情が平らになってた。私は情緒が乱れやすいので、なるべく抑揚つけないようにしてた。安静に、安静に。

でもたまには全部放り出してアホウになりたいの。
アホ〜イ!

こういう感覚が久しぶりだから、ちょっと嬉しいの。


2017年5月4日木曜日

確固たるもの

私に確固たるものはない。
ないと不安になるけどない。
いらないからない。

楽でも辛い。
幸せでも悲しい。
仕事中だけは心安らかでいられる。
仕事への不安がそうさせるのか。

万物が押し寄せる

ハッ
トランス状態なのかもしれない。

4月入ってから毎日お腹いたい。
最近は目覚めると「ア………」ていう気持ちになる。
いろんなものが押し寄せてざわざわざわ、と音を立てて通り過ぎる。
情緒がけっこうかき乱れてて、 どこか遠くに行きたい。
人間らしく生物らしい生理現象が起きているのではないかと思う。

誕生日があり、個展があり、疾患の完治があり、祝福してほしくて仕方がないんだけど。
もう、大祝福祭して、三日三晩踊り続けたいんだけど。
そういう元気がないのね。

なにもかもが今までとちょっとずつ違う・・・そんな時間を過ごしている感じがするよ。

万物が押し寄せる感覚っていうか。
それがトランス状態なのかなって思った。
パラレルワールドにいるような気がする。
私はだれ、。。
日常とかアイデンティティとか記憶とかわけわかんないや。
毎日寒いし、吐き気するし、ちょっとこわい。







2017年5月2日火曜日

我を忘れる

絵をみている人が自然と「我」を見つめ直すような機会をつくりたいと思っていた。

我を忘れること
我を思い出すこと

どちらも必要な気がする。

何かに真剣に取り組んでいるときや、スポーツや映画やエンターテイメントの世界に没入してるとき、我を忘れる。いや、そう簡単に人は我を忘れることができないかも。
我を忘れる瞬間には何が起きているのだろう。
心も体も、普段の状態とは全く違う様相なんだろう。

などなど、うん、半端なタイミングだけど、もう、寝ましょう

東京の速度

田舎は噂が光の速さを越える。

東京では人の動きが光の速さを越える。
誰かにぶつかったとき、立ち止まって振り返って「すみません」という時間はない。そんなことをすればどんどん人がぶつかり「なんて非常識なやつなんだ」という視線を向けられることだろう。

車内広告では、下痢止めの薬に「腹痛でトイレにこもる時間は平均6分◯◯秒。」「時間は止まらない。」というコピー。

田舎だろうと東京だろうと、速度を増しているのがSNSという社会現象。
SNSではオンラインかオフラインか、既読か未読か、何分前の発信か共有される。全て「時間」に紐づいている。

時間問題を、解決できるのは何か。

ふっふっふ。


我を忘れる瞬間だ。

解き放たれよう。

ていう試みをし続ける。考え続ける。

素晴らしい先輩たち、同級生、人類だけでなく死者から万物から、外在化しつつある兆候を読み取るのだ。







謳歌

静かでいるべきなのか、出し惜しみしないほうがいいのか、自分が墓穴を掘るのか、いつでも自分を肯定するのか。

映画観た。

謳歌、夢

真に受けて頑張る素直さ。

描いて生きていく。
好きなことを続けるエネルギーは、私にとっては童心なのだろう。

ちびっこの頃の自分にはいつも感謝してる。