2014年12月12日金曜日

東京駅にて

今は胸がいっぱい。この気持ちはただ言葉にするだけで果たして伝わるだろうか。人にはタイミングがある。作品は人のタイミングに寄り添うことができる画期的な表現手段だと思う。そう、絵を描こう。

What I mean to say

人と生活を作っていきたい。丁寧に。

もう少し深い話を人にしたい。
届きそうで届かない。透き通る鋭敏な感覚を述べたい。
本気を出すと何故か怒っていると思われたりするので、やわらかい振る舞いを重視すると考え方もふにゃっとしてしまう。のかな。
以前の私は「怒り」としてエネルギーを表出してたのかなとも思う。
社会への、自分への。どうにかしたい、繋がりたい、みたいな様々な気持ちが「怒り」に似た炎のような感情で出ていた気がする。
「怒り」のエネルギーをうまくコントロールして「怒り」以外の気持ちで鋭く切り込んでいきたい。一年でそういうのができるようになりつつあるなと思う。

また、1つの区切りの季節が来たようだ。

この一年を、そろそろ振り返る時期かなと思う。
旅立つ人との「しばしの別れ」の時期とも重なり、つい涙がこみ上げてしまう。

来週旅立つその人と少しずつ、少しずつ、自然にゆるやかに、共有する時間を重ねながら関係を積み上げてきた。
その関係構築の流れが、あまりにも、この一年を優しく踏襲していた。
まだまだな自分ではあるけれど、関係が深まっていくたびに、自分の一年の成長を感じずにはいられなかったんだ。

ほんとにありがとう。
いずれ、ブログじゃなくて直接それぞれにありがとうと伝える日が来るんだろう。

心が通じ合う感覚、遠くにいても繋がっている感覚、私をありのままに見てくれる視覚
しっかりと温もりが感じられる触れ合いが一年のうちに何度もあった。
ありがとう。

ひとりぼっちで歩いていても、私に向かって風が吹き抜けたり、面白い本に出会ったり、色んな素晴らしいことが起こるよ。

大切な気持ちを抱いた相手にかぎって、どんどん遠方に行ってしまう。
でも、私はそういうことも全部私のために起きている出来事だって確信できる。
考えようとすればいくらでも卑屈に、より不幸に捉えることはできるけど、やっぱり感覚は「そうじゃない」と言う。


思えば、「会いたいけど会えない」が1月からずっと私にのしかかっていたテーマだったんだなあ。
もうどこにもない安心できる場所。どこにもない温もり。平行線でいくらたってもたどりつけなかった。探さない。会わない。会いたくない。会いたい。でも、会えない。
そういうジレンマを抱えてたんだ。

だからこそ、会えないことを前向きに捉えられるきっかけをくれた人たちに凄く、凄く、深い意味を感じるし、めちゃくちゃ感謝しているし・・・感慨深いわけだ。


時間は有限なんだ。
私は、たとえば恋人ができたらずっとそばにいたいと思ってた。
「会えること」を前提にして恋愛関係を捉えていたんだ。
でも、友達って会わなくても全然平気だったりするじゃん。
この「会いたい」「そばにいたい」は、結局「1人になりたくない」という寂しさから来る欲求でしかなかった。
実は、大切な人でも、会える時もあれば会えない時もあるものなんだ。
そんなに不思議なことではないんだ。
会えなきゃ駄目、ではないんだ。

時間は有限なんだ。


12月2日の手記から。

時間は有限なんだなって思う。輪廻転生という観点では、生と死との反復には無常の永遠性があるけれど。矛盾と整合が二重螺旋のように、あるいはメビウスの輪のように、ぐるぐると揺らぎながら転回している。
でも今生において、時間は有限だよね。
今の私が持つ時間はいつか終わる。次の生に移行してしまう。
好きな人とずっと一緒にいたいとか、会えないのがさみしいとか、結婚しても互いに出張が多くて共にすごす時間が少ないとか、あると思う。でも時間が有限である以上、会える時間も限られてるんだよなって。
会える時間は大切だけど、会えない時間も同じくらい大切なんじゃないかなって。
会えないからどうの、会うからどうの、ではなくて、愛はもっと寛容て鋭敏で、いくらでも感受できる。相手の心とどんなに遠くても繋がることができる。
だから、会えないこと、まだ出会えていないことを気にしなくていいんだな。なんて思ったよ。



ずっとそばにいてもいられる時間は決まってる。会えない時間も関係は積み上げられる。
これはこの一年で実感したこと。
たとえば空鼠のみんなと壁画制作をしていた頃の濃密な時間が、一年に一度しか会わない関係の中でもじっくり熟されてより深いものになっていってること。
もしかしたら私が変わっていくことで気付けた愛情関係なのかもしれない。
あんまり人に見てもらえているという実感がなかったけど、彼らは私を普通に、ちゃんと見てくれてた。てか歓迎してくれてた。家族みたいになってた。
相手が自分をどう思っているかなどを気にするような関係ではなくて。
大事に思える関係なんじゃないかなって思う。そういうのって嬉しい。
時間ってそういう効果がある。

会えない時間も楽しめる。だからこそ、最大限会いたい。

矢野顕子のWHAT I MEAN TO SAYの歌詞を引用しなくちゃ。

http://petitlyrics.com/lyrics/51502

2014年12月7日日曜日

咲くこと

私は切ってある花より野に咲く花が好き。
美しいからといって「咲いている部分」だけ切り取るのには不自然さを感じてしまう。
人間の真理としては自然でも、生き物の原理としてはとても不自然な状態だもの。
何故この花が美しいか。何故この花は「咲いた」のか。その物語を切り取りたくない。

どんな欠陥があってもいいから、良いとこどりをするよりもありのままの素朴な姿を見つめたい。



最近?簡単に嬉しくなる。
温度はぬるめに設定している。
上がったり下がったりしても、呼吸を整えて平常に戻すの。

この心地よさは、どんな悲しみも乗り越えられるぞっていう気持ちによるものだ。

人の眼差しを受けて、私はすくすく育っている。

イベントごとが多かったため、沢山の地域の方とご挨拶する機会が多かった。
人に知ってもらってたり、リラックスして話せたり、面白いことを共有できたり笑い合えたりすることが嬉しい。
今日は夜、期日前投票に行ったんだけど、全員知り合いだから、楽しい投票になっちゃった。
市議選と総選挙がかぶってるので、どの紙にどこで書く、というのがこんがらがってたら、選挙管理委員会と役場の職員の方に、そこ右だよ!そのまままっすぐ!と言われてRPGみたいにギクシャク進んで笑われたり。自分でも笑ってしまった。
帰りは全員があるだけのお菓子をかき集めて渡してくれた。。
移住してからずっとお母さん的存在だったけど3月に退社した女性に久しぶりに会えて、ずっと渡したかった退社祝いをやっと渡せた。
「クリスマス会しようね」って言われて嬉しかった。
予定がなくてよかった!

昨日は昨日でとても楽しかった。バーベキューに野外上映。テント張ったり。
火を絶やさないようにするのがなんとも楽しかった。
ただ火を絶やさないようにするのが楽しい。不思議よ。
服が焚き火臭い。
英語得意な人が2人いて、流暢な英語を話していた。
私はチャレンジ精神だけはあるので、英語もできないのにでたらめに喋っちゃった。
何かきっかけがないと、なかなか英語の勉強ってできないなあ。
目標を立てたり、何か応募したり、学ぶ楽しさを見つけなきゃな。

アート、作品、地域、人間、暮らし、好きな人たち、自分の仕事

たまに饒舌、たまに無口にならなきゃね。

2014年12月6日土曜日

増えてた

5月頃友達が送ってくれた写真。
私の絵に似てるって。





増えた!!

眠る間際の謎の文章

みつばとなめこを買った。味噌汁に入れるため。


私の心は足首まで及んでる気がする。
足首より下は自分ではない時がある。
それなのになんで、足と足首の体温に大きな温度差があっても、感覚が繋がっているんだろう。

みりきについて

内面を曝け出したいが、曝け出すのはお粗末なのでいかにポエティックに感情を表現するか
そういう考えが私に言葉を書かせるのでしょうね。
私ってお調子者だなあ
そしてお節介だなあ
人の言葉に弱いなあ
優しい声色でもうわかったので、一歩前へ踏み出していくよ。
「全部わかってる」というのは ある種の諦めなのだろうね。
そこからどこにも進めないんだよ。
だから人には余白が必要なんだ。
触れ合うためには、距離が必要なんだ。


魅力ある地域づくり部会っていうのに参加してるんで、魅力ある地域づくりってなんだ。って考えることが多いんだけどさ。

魅力ってそもそもなんだろう。

きっと皆、それぞれ糸を持っていて
それを引っ張ってみたり、穴に通してみたり、別の色の糸と交差させてみたりすることが地域づくりでさ
そこで出来上がる模様、変化していく様っていうのが魅力なんじゃないかな。
魅力っていうのはその一瞬一瞬の「表情と仕草」でしょう。
そしてそれを作り出すのはそれぞれの動き、思いつきなわけでしょう。
それぞれが価値だよね。

ともみはこういうワークショップをやろうかなあ。


さて、私はある方の言葉にとても鼓舞されたのさ。
絵画教室やってみよっかなと。

名前を出すと結局きりがないよね。
みんなありがとう、みんな大好きってさ。
嘘じゃないんだけどさ。
虚勢もあるよね。
ほんとはさ、誰かの特別になりたいんだよ。


花瓶が細すぎて、植物が呼吸できていない。
かわいそうだ。
水と瓶を変えてやらなくちゃ。

2014年12月5日金曜日

戦うことで自我を消す。

様々な思考が常に人に向かうのは弱さでもある。
「素敵だなあ」「会いたいなあ」「幸せだなあ」「好きだなあ」という気持ちにヘラヘラしていると自分のあるべき姿が歪む気がする。
私は芸術家だ。私は常に何かと向き合いながら、常に闘い続けなければならない。
さみしいなあ、服が欲しいなあ、さむいなあ、と思ったとしても、それを満たすことが己を満たすことに繋がるのか。
寒さを少し「我慢」してみたり、体温よ上がれ!と暗示をかけてみたり、目の前の出来事に少しでも抗おうとすることで、拮抗は保たれる。
負けない。しなやかに、ぐにょりと曲がっても折れない。
私は真剣に孤独であろう。

4日に活動宣言会というのを行った。

自分が何故ここに来たのか。アーティストって、アートってなんなのか。
私の常陸太田での活動。そしてこれから取り組んでいこうとしている活動について。
皆さんのイメージと私たちのイメージの間に道を作るために資料を作ってお話した。

どうしても、前に座ってプロジェクターに投影しながら話すとなると堅苦しくなるし、眠くなるし退屈だと思って、めっちゃくちゃリラックスして友達に話すような気持ちで喋ることを心がけた。そしたらヘラヘラし過ぎたけど。

皆さんがどう感じたかはわからないけど、私的には、いい雰囲気だったかなあなんて思う。
突っ込みどころがあるほうが、良いんじゃないかと思ってる。
間違い探しじゃないけど。気持ちを傾けるきっかけになると思う。


私は得意分野のアートという切り口で、よそ者の目線で、でもしっかりとこの場で暮らしながら「地域」について「人間の営み」について考えようとしています。

皆さんがそれぞれ個性があり、特技があるのと同じで。と言った。

でも今思うと、人の一番の魅力というのは一番「不器用」と思う部分にあるんじゃないか。

一番「欠けているもの」のシルエットが、人の心の形になっているんじゃないか。
心は在るものなのか、それとも欠けた空洞なのか。

そもそも私はアートが得意分野ではないし。

得意だからやっているわけではない。うまくいかなくてもやり続けたいからやっている。
「特技」とされるものって、実はそういうものだよね。
発想が逆転してしまったなーと思った。
わかりやすいから良いんだが。


顔を見ると緊張してしまうので、自分の想いを言葉に乗せることだけを心がけて喋った。

丁寧に、真剣に喋った。
チラリと見える人の顔が、あたたかかった。
本当にありがたかった。
はあ。一年活動して、こんなに沢山の人がわざわざ、わざわざ私たちの話を聞くために来てくれるなんてな。。

嬉しいよう。


感極まって、くうっとなって、ああ人間〜、あの人、この人、優しい、あったかい、嬉しい、感動だって、ああこんな語彙が少ないのかと思うほど、ありきたりな言葉ばかり出て来てしまった。


自分の心にはいくらでも装飾ができるのに。


そしてスッと戦う姿勢に切り替わった。

私は好きだという気持ちを言葉で表現して、人に寄り添いたい寂しがりやだなと自覚して。


私にとって、とてもいい会だった。

自分の言葉で自分の意思を人にしっかり伝えようと心がけ、伝え切ったから。
そこからまた、別の流れがはじまっている。そうか。人に言うと、心は脱皮して更新されるんだなあ。

この会のあとから、なんでか、急に、男受け、とか、常識、とか、普通であること、とかを気にしなくなった。

もう皆の前で変なやつだってこと曝け出しちゃったからな。

「アーティストは変っていうイメージを変えたい」といいつつ、自分はやっぱり変だった。

すみません。私は自分でいうのもなんですが、変でした。
ま、一様であるほうが恐ろしいでしょう。
自分は普通だと思って恐ろしい裏切りを繰り返している人よりはマシでしょう。


よく噛んで食べる。

2014年12月4日木曜日

おふろぽかぽか

お風呂沸かした。
リビングで冷たくなった蜜柑を持ち込んで、湯に浸かりながら食べた。
はー美味しい。ひんやり。ぽっぽ。
蜜柑をよく噛んで食べるの好き。
今日の気付きは、水面から腕を離すか離さないかのギリギリの、表面張力の吸い付く感じが面白いということ。

友達が驚くほど惚れっぽくて和む。
良いんだよそれで。
恋するって健康的。
男にすがるのは不健康だとわかってれば!

はーそういえば、この子もそうだが、今年はすごく素敵な人とばかり仲良くなる。
ずっと前から知ってるけど実は腹を割って話したことない人と一対一で話す機会を持てたり。そんな相手が何人も。みんなへの親しみが一層深まったし、世界がぶわっと広がった。

うんうん。観念を破壊されたり、打ち破ったり、様々な選択肢に気付けるようになった。まさかまさかの、海外への可能性まで。やる気出してやりまくらなくちゃな。悔い残らないように。あの人やあの人やあの人のように。みんなすごいなほんとさ。

新しい出会いも、沢山あった。まだまだ会話の呼吸を合わせるのに不慣れな相手と少しずつ絆を深めていったり、関係を構築していくその過程を振り返るとしみじみする。
素敵な出会い。とってもとっても嬉しいのだ。
今年は素敵な方向に導かれてたなあ。
ほにゃほにゃしたことを書いてリラックス。

明日は大事な会がある。緊張する。

緊張してずーんとなっている。
け  せらせら
ほ  おぽのぽの


2014年12月3日水曜日

男にも女にもなりたい

自分を肯定できないのは辛いね。
さっさと肯定してしまって、もっと別のことを考えるべきだと思う。
私の頭の中はドラマチックだな。

5月の時点でも、まだ苦しかった。
10月くらいまで、苦しかった。
春先頃までは、ありえないほどに苦しかった。

恨み言ではありません。


苦しくてよかった。


出会いも、別れも、大切にできる人間に成長した。


別れはとてもこわいけど。



何が幸せなのかとか、わからないね。

2014年11月30日日曜日

the water is wide

雨に濡れた朝の紅葉はいつにも増して鮮やかで、美しい。
新しく開けるペンキは絵の具が柔らかく、滑らかな描き心地が程よい。

描いているものと、その場の風景が繋がってることが嬉しい。山を背景に、山を描いていることが嬉しい。
現実とイメージの世界が直接的に、親しげに繋がっている様子は私の創作意欲を余計に鼓舞する。
そして、ここに描いている精霊たちは、水府に住む子供達と繋がっている。
私は目に見えるものと見えないものを編み合わせるシャーマンだ!

最近とくに、繋がること、途切れてしまうことについて想ったり、感じる。

繋がり、途切れ、結び、解き、編み込む…そういったいろんな形の「繋がり方」や「余白」が作り出す絶妙なバランスの文様を、見つめられるようになってきました。

1年前とは生きている次元が違う。




2014年11月24日月曜日

あらためて繋がる

途切れていた何かが、少しだけまた繋がりを取り戻すように、動いた。
それでいい。

私が私を見失ったら、私と私は別々に引き裂かれてしまう。

色んなことが繋がっていくと、それがどんな形で、どんな配置なのかを考えてしまう。
それを絵にしたくなる。
この時の自分の心を全て、画面に打ち明けたくなる。
そしてその深淵を覗き込みたい。
私の謎を教えてもらうために、私は絵を描く。

空は青く、地上は浮いている。


yogee new wavesの歌詞にはよく「アーメン」とか「神」とか出て来る。
なんとなくキリスト教の文化を持った人なのかなと感じるところが多々ある。
私の中でだんだんと、色んな宗教の様々な教えの意味や本質が、全て1つのところで繋がりはじめている。
今までは「キリスト教はあんまり」とか「宗教ってのがな・・」とか思っていたんだけど
「宗教」自体がとても大きな大きな大きな、色んな意味を持つ単語に変わりつつある。

私は全ての事実を受け止めてこれからも受け入れて生きていくだけだ。

昨年から感覚が鋭く開きはじめた。
色んなことがなんとなくわかる。「なんとなくわかる」という感覚に気付くようになった。
感覚が鋭敏であるということはスピリチュアルであるということと同じことなんだ。
本来人は、全部透明で、目に見えないものを見ることができたり感じることができる、時空を越えることができるんだ。

感覚はどうやって開くんだろう。
なんで私は、あの瞬間から開き始めたんだろう。
なんか、自分の生きるべき道にしっかりと切り替わった、という大事な瞬間だったのだろうな。

絵を描く行為は、4万年の「絵画」の歴史をなぞる行為でもある。
洞窟画の時代にタイムスリップしたり、憑依する行為でもある。
学部4年生の時に7メートル×7メートルのベニヤを床に敷いて絵を描いたことがある。
そのときに、そう感じた。
絵を描くという行為そのものの長い長い歴史の中を旅しているという感覚。

そう考えると、あらゆる身体的な動きは、大昔の人々の動きと繋がっている。
その繋がりを作り出す装置がきっと精神なのだろう。
精神世界というのは時空を越えるエレベーター。

私はシャーマンのように絵を描く。
そしてチベット僧の「砂曼荼羅」という修行のように、祈りを込めて絵を描く。

yogee new wavesから感じるキリスト教の雰囲気。
The Inoccence Missionのカバーアルバムに入っている古い民謡?あるいは賛美歌?のような伝統的で宗教的な曲。荘厳な祈りを感じる。そこにもキリスト教の一片を感じる。
これまではそういうのを「自分と違うな」と思っていたけど、今は宗教の違いにとらわれなくなったのでそうは感じない。
大きな意味での「祈り」や人間の本質みたいなものを強く、感じるようになった。
美しいと思う気持ち、好きだという気持ち、むかつく気持ち、色んな気持ちで色んなものと結びついて揺れている。

こうやって心境を吐露するだけでなく、思考を組み立てなければならない。
私の安定した城をいったん築いてみないといけない。
そこから見える風景も描写しなくてはならない。
芸術家だから。

先週、作家のお手伝いで荒川修作の話になり、読んだことあるやつだったけど、本を貸してくれた。
そして、あらためて読み返している。
その作家、弓子さんの息子の名前は「渉」。
とても尊敬している山洋平さんという画家の息子の名前は「ルアプカシ(道を歩く)」。
つい先日子供が生まれた、今もっとも東京で熱い女にして最愛の親友の名前は「歩音」。
最近つい「歩く」ということに気を向けることが多い。
こんなに人を変化させた慧くんは偉大だ。
これからずっと、私は彼の研究者だ。
偉大な人が、生きてそばに存在していることが嬉しい。
偉大な「アーティスト」である以前に偉大な人間味の塊だ。
人間であることを受け入れて、でも、受け入れていない。
それが人間らしさかもしれない。
あがいて、あがいて、あがいているところが、胸を打たれる。
悔しいとかさみしいとか嫉妬とかそういう気持ちではなく、ぐっときたり、感動したり、嬉しくなったり、わくわくしたりする。
なんだかとてものびやかな心持ちになるのだ。
草原にふわりと横たわるような開放感が呼び起こされるのだ。
リラックスしながらも、世界に声を発したくなる感じ。

優れた作家は、作品によって、鑑賞者の全身の神経や器官を目覚めさせる。

ああ、最近いろんなことが辛かった。
疲れていた。
ありがとう、色んな人にありがとう。
感覚が蘇ってきた。
よみがえってきた。

残らない日々

タンタンタン ピアノの音に耳を澄ます。
Somewhere a Star Shines for Everyone. La La La La.... 音に乗せてふるえる美声が骨に響く。

私が救われる瞬間は、言葉を紡ぐ時。自分の言葉が溢れてくると安堵する。
ギターを抱えている時。指で弾いて正しいチューニングで音が重なると、安心する。
絵を描いている時。そこには必ず救いと祈りが含まれているから。

The Innocence Missionのアルバム「now the day is over」を聴いている。
Over the RainbowとかMoon RiverとかEdelWeissが入ってる。なんて素敵な声なんだ。
自分の心の青みがかった闇にロウソクの火が灯る感じがする。
私はBye-LoとNow the Day Is Overという曲がお気に入り。
途中、インストゥメンタルも入る。
Sonata No.8は昔、ピアノでよく弾いていたから好き。

私にとって最も落ち着く、原点の衝動が「会いたい」という気持ち。
「ああ、会いたいな」と誰かを想う時って幸せじゃないかな。

出会い、別れても心に留まるあの人、この人。
軌道がまた交差する相手もいれば、もう二度と会わない人も、いるだろう。
どうであろうと心にふっと現われる。あの人、この人。
嫌なことも良いことも、心は不意に引っ張り出してくる。
感覚が作り出すリズム。私の呼吸。

今はこんなセンチメンタル。

忘れちゃうんだよな。
書き方、喋り方、考え方。
私のリズムを忘れちゃうんだ。
最近、その日その日で精一杯で、夕方になると今日が何日なのか思い出せない。
さっきから今日が何日か全然思い出せなくて、明日の予定から今日の日付を割り出してみたけど、まったく腑に落ちなかった。
どうして11月24日なのだろう。
何がどうしたら11月24日になるのだ。
私の心はいつから止まっているのだろう。

泣きたい。
散歩しながら恋人に電話したい。
恋人いなかった。

人の、優しい声は、ほんとにほんとに、私の想いを、悲しみを、ぎゅっと抱きしめてくれる感覚がして、泣けるよね。
昨日電話で話したお友達にありがとう。
心からのありがとう。
倒れ込んだ私を優しく受け止めてくれたその温もりに心を解いてもらったよ。
どれだけ彼女に元気づけられたか・・・。

この前2人で行った飲み屋がすごく美味しくて、あの日がとても心に残る。
残らない日々で、私をうっとりさせてくれる出来事。
また会ってあの店に行きたい。
会える日を楽しみに待つ、残らない日々。

2014年11月18日火曜日

観念と経験的観測と常識と一般論、言い切れないこと、言い切りたいこと、鋭く 切り込むことで自分の心を乱すこと

予備校時代の恩師である古川弓子さんのアシスタントを微力ながら、かつ短期間ですが、させていただいております。現代美術家として活躍するアクティブでエネルギッシュで美しい弓子さんとお話するのがとても新鮮で楽しいです。絵を描く行為、作家の生き方などは、今の私にとって一番リアルなテーマです。
時間は有限で、しかも止まらない。考え過ぎて思い詰めることもある。それでも日々は流れるので金もかかり、それに伴って働く必要性が生じ、思考をどこにも着地させられぬまま、追い立てられるような生活に息が詰まる。そうしているうち、いつの間にか日常に埋もれそうになることがある。
自分を覆う観念や習慣を「皮膚」と考えるのか、「壁」と考えるのか。それだけで視点がガラリと変わる。いつも何かを選択したり、削ぎ落としたり、判断したり認識したり疑ったり構築したり解体したり回避したりする。疲れる。
言い切りたいけど言い切れない時、自身の寛容性が問われる。


一つの確信をたずさえて、あらゆる可能性の中でもがき続けることが私の人生だ。


2014年11月12日水曜日

愛にまかせ 風にまかせ

本日の仕事が終わったので自分の時間。0時28分。

先日、焼酎飲んだ瞬間に涙ポロポロ流す事件があったばかりなのに、なんと一升瓶の焼酎を頂きました。芳醇で甘く、一滴一滴が食道を熱く焦がしながら胃に駆け下りてゆきます。

寒い。

明日は7時に起きて壁画を描くのだ!

いそがしい!

書くことが思いつきません。
最近すこしナーバスなので。
お。目の前にあるものが全部、澄んだ薄黄緑色だ。
1000札も含め。

yogee new wavesのPARAISOというアルバム聴いてます。
はいはいキスとか離れたくないとか会いたいとかね。
はいはい。
でも
「愛にまかせ 風にまかせ」って歌詞すきだよ。

2014年11月11日火曜日

文字も絵も歌も繋がっている

スーパーからの帰り道、甘そうに黄色いお月様と、真っ黒いシルエットのお山。光と闇のコントラスト。まるで昔話の世界。


最近ブログがかけません!

2014年11月3日月曜日

一年

はじまって溶けてゆく恋も
強がって崩れてく嘘も


今は何かためる時期なのかな。
言葉になる、なり方が違うのかもしれないな。


昨年の12月からどんどん精神世界と現実世界が繋がっていく。
感覚が鋭敏に、豊かになっていく。
契約はまじないだ。
縛りつけることで魔除けにもなるけど、自由になるべき心を深く閉ざし封じ込めることにもなる。

悪魔と契約しないことだな。

移住して一年が経つ。

明日は委嘱状交付式だ。


移住してはじめて行ったイベントは里美のかかし祭りだった。
今年のかかし祭りはお客さんではない。
一年はあっという間だけど、そのあいだになんという沢山の学びがあったのだろう。
三年間で慣れる部分もあるだろう。でも新鮮さを失うことはないだろう。

ふてぶてしさが少し身に付いてしまった。
そういうのはよくない。
でも私はギラギラし過ぎているのでつい鋭く切り込みそうになる。
ごたくは良いのでシンプルにやっていこうよってさ。

人にどのように愛を持つか
底知れぬ愛を感受する気持ちを、しっかり携えよう。
脇に抱えず、懐に抱こう。

人に自分をよく見せようとはしない。
でも、自己プロデュースはしっかり自分で行うこと。
素直でまっすぐであること。

2014年10月22日水曜日

fish///

手先が冷える季節になってきた。
作家やキュレーターが二週間うちに滞在し、多いときは5人で暮らしていた。
1人初対面の方がいて、ミヤタさんにとっては2人いて、なんだかとてつもなく濃かった。

何かがはじまると、何かがおわる。
風が吹けば、そこに留まるもののいくつかは飛んでいってしまう。
新たな風が吹いて、季節がめぐり、また出会うのだろうと思う。
ふいに会いたいと思うのは、とても自然なことなのだ。


このごろ最も素晴らしいアルバムはFISHMANSのKING MASTER GEORGEです。


こんな中、家から足をはみ出して夜を過ごしている人がいるなんて、どうか風邪をひかないように祈る。

2014年10月19日日曜日

アートイベント、1年の締めくくり、無事終了。

終わったよ。
終わったよ。

なんて濃い日々だったんだ。

気持ちがあとからあとから、じんわりくる。

私は、もとの場所に戻って来たような感覚だよ。

しみじみと、わくわくが、まだ心の内でせめぎ合っているよ。


あー!!


おわったよー!!!!






2014年10月2日木曜日

昨年カレー屋でバイトしてたとき、毎日毎日25年もカレーを作り続けてるこのおやじは、この頑固おやじは、魂を守っているんだな。と思った。
ここでカレーを作ることで。

彼は魂を守っている。だから旅に出ることができない。
彼は魂を守っている。だから旅人たちが訪れるんだ。



好きな女の子、好きな男の子の話をしている時と、ビールを手に取った時の私は満面の笑みだそうだ。


インド占星術のホロスコープも、それを見ることがない人間と、見ることがある人間に別れるらしい。
友達にホロスコープの話をしたら、私は見なくていいって言っていた。
彼女は出会わなくていいということなんだなと思った。
単なる占いではないということを感じる。


素麺を二束食べてみたら、苦しい。お腹が、いっぱい。
なんとなく素麺の盛り方が複数のかたまりに分けた盛り方だから、二束くらい使う気になっていた。
お腹いっぱい。


今日は絵を描き直す。ぐうたらとのんびりと、描き直す。

2014年10月1日水曜日

開け その感覚を

ギリギリのものを食べて食中毒か
疲れてるのにおビールのんでイチョウがイテテなのか
お腹痛いから寝転びながらできる制作をしようと思い
絵画作品に取りかかっていた

疲労と痛みによる高揚感の中、感覚を鋭く研ぎすます
踊ろう
自分で歌い、指揮をとる。
ふわっ ふわっ と手をゆらす

心のままに おもむくままに
風のように 何も持たずに踊ろう

全てを捨てて 感覚のままに
心も頭も捨てて 体のままに

そう 感覚を開くとは 肉体の感度を全開にすること。

迷いながら 感極まりながら 踊りながら 歌いながら 線をただ傍観してみた。

開け その感覚を

祈ろう 君の感覚に

私の全てをこの画面に捧げよう 美しい純度100%のエキスになろう